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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第三百八十一回~第三百九十回】

第三百八十一回第三百八十二回第三百八十三回第三百八十四回第三百八十六回第三百八十七回第三百八十八回第三百八十九回第三百九十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百八十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【岐阜県】長良川・白山長滝神社【全国】大羅・久太良木・讃良・安良・甘楽郡・加牟良 ~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「長滝白山神社」について(wikipedia)
【霊峰白山を神体山と仰ぎ、白山信仰の表日本における一大拠点であり、いわゆる美濃馬場とはこの地のことである。
 伝承によれば養老元年(717年)、白山中宮長瀧寺として泰澄が創建したとされる。同6年には同寺にて元正天皇の病気平癒を祈願して効験があったことから、元正自作の十一面観音、聖観音、阿弥陀如来の本地仏を安置し、白山本地中宮長瀧寺に改称したという。
 天長5年(828年)にはそれまでの法相宗から天台宗寺院へ改宗。同9年には白山三馬場の一つになる(『白山之記』)。馬場とは禅定道の起点のことであり、白山三馬場とは、美濃国の白山中宮長瀧寺、加賀国の白山寺白山本宮(現在の白山比咩神社)、越前国の白山中宮平泉寺(現在の平泉寺白山神社)である。平安時代の長瀧寺は、白山三所、若宮社、大講堂、鐘楼、護摩堂、神楽殿、三重塔、法華堂、薬師堂など30以上の堂宇が建ち、6谷6院360坊を有していたという。】

×「白山長滝神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【白山長滝神社のあるところは「表日本の白山登拝参道」、すなわちそこへの登り口だったというが、ということはその白山からの下り口でもあったわけだったのである。おそらく加賀の白山にはじまった白山比咩神社は、そこへ下ってまずいまみた白山長滝神社となり、そうして飛騨・美濃一帯にひろがったものだったにちがいない。いわば飛騨・美濃における元白山神社ともいうべきもので、それだったから私も遠い道のりをいとわずそこまで来てみたのである。】

×「長良川」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【その新羅の白山(しらやま)だった白山(はくさん)から流れ出る長良川の長良も、あるいはもしかすると、そこに白山神社をいつき祭っていた新羅系渡来人による名称だったのかも知れない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 白山信仰の出所は決して新羅ではありません。 繰り返しになりますが、「白山」は、

◎縄文語:「白山(神社)」=「ハ・サン」=「浅い・平山、出崎」(薄っぺらな平山)

 という意で、加賀の白山はじめ、全国の白山神社(から望む景色)の地勢を指しています。つまり、日本全国無数にある「浅い平山」の地勢を結びつけて「広範囲に白山信仰が~!」となっている訳です。本当にバカバカしい。

 長滝白山神社の場合も例外ではなく、神社前の山の地勢を指しただけで、加賀の白山をご神体にするという行為自体に道理はありません
 由緒に「浅い平山の自然崇拝」とでも書かれていれば納得もいきますが、実際は「新羅系渡来人が~、白山比咩大神が~、菊理媛が~」という創作物語です。(※全国の白山神社については第二百九十回コラムをご参照ください。)

 言うまでもありませんが、白山神社以外の神社も同類です。日本の八百万の神は本当に嘘つきです。千年を超える長い間、日本人はいったい何を信仰しているのか、真摯に振り返る必要があると思います。
 そして、このデマを流布する神社と記紀風土記等が語る日本黎明期の歴史の要素、構造は多くのところで一致しています。


■長滝白山神社前からの眺望 ※浅い平山。


■加賀の白山(室堂から望む白山奥宮と御前峰) ※浅い平山。
(Alpsdake, Public domain, ウィキメディア・コモンズ)



 ちなみに「菊理媛」も単に加賀白山の地勢を表しています。

◎縄文語:「菊理媛(尊)」=「クッ・キリ ・シプィ」=「崖の・山の・湧水」

 長滝白山神社所在地の「長滝」も目の前を流れる長良川の地勢を指したものです。

◎縄文語:「長瀧」 =「ナィ・カ・タク」=「川・岸の・ごろた石」


■大汝峰から望む白山(剣ヶ峰と御前峰)と火口湖 ※菊理媛尊「クッ・キリ・シプィ」=崖の・山の・湧水」。
(Alpsdake, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ)


■長滝白山神社前の長良川 ※川岸のごろた石。

■主要神社仏閣の縄文語解釈
◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャ」=「川端」※全国の八幡神社の地勢。
◎縄文語:「稲荷(大社)」=「イナゥ・リ」=「幣の・高台(高台の祭場)」※稲荷山山頂の祭場。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カ・ケ」=「その上・のところ」(高台)※奈良の春日大社の地勢。
◎縄文語:「愛宕(神社)」=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or尾根の先端の突起の山)」 ※全国の愛宕山の地勢。
◎縄文語:「熊野(大社)」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」 ※熊野本宮大社前の山。
◎縄文語:「白山(神社)」=「ハ・サン」=「浅い・平山、出崎」(薄っぺらな平山)※白山の地勢。全国の白山神社(から望む景色)の地勢。
◎縄文語:「薬師(寺/神社)」=「ヤ・ケ」=「岸の・末端」(岸辺) ※奈良の薬師寺ほか、全国の薬師寺、薬師神社の地勢。
◎縄文語:「金刀比羅(神社)」=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」※香川象頭山の地勢。
◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩寺」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。


 もちろん「長良川」の由来も「白山神社」とはまったく関係ありません。新羅系渡来人も倭人と同じ南方系民族で縄文語を共有していた可能性が高いので、”新羅系渡来人が名付けた”という説は否定することはできませんが、逆にその根拠もありません。

◎縄文語:「長良(川)」 =「ナィ・カ・ラ」=「川・岸の・低いところ」

 大河川の長良川沿いに低地があるのは当たり前なので、どこを指したかは不明です。


 また、長滝白山神社の少し下流には「白鳥町白鳥」という地区があり、『日本の中の朝鮮文化』の中では”新羅系の地名”だという雰囲気を漂わせているので、完全否定しておきます。

◎縄文語:「白鳥」 =「シ・オ・タオリ」=「山(大地)・裾の・川岸の高所」

 の意です。


■長良川沿いの白鳥町白鳥 ※山裾の川岸の高所。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「大羅・久太良木・讃良・安良・甘楽郡・加牟良」について(『地名学研究第七号/打出村小字について』細川道草 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
新羅(シラ)・任羅(ミマラ)・安羅(アラ)等の<朝鮮>半島古地名に見ゆるラは、土地の意の古語なり。
 例=摂津国住吉郡大羅、肥後国葦北郡久太良木・河内国讃良(ささら)、摂津国西成郡安良、上野国甘楽郡加牟良等何れも帰化人の住居の地名である。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 「任」?「ラは、土地の意の古語」? その根拠は?
 「任」は「羅」と「那」が同じ”国”の意だということで「任那」を指したのでしょうか。

 「ラ」は縄文語で「低いところ、低地」の意です。朝鮮半島南部も縄文語圏だったので、同じ意味で、同じ地勢を指したものと思われます。ただし、「新羅」の方は「シ・オ(・ケ)=山・裾(・のところ)」です。

 「安羅」は、

◎縄文語:「安羅」
=「アン・ラ」=「一方の・低地」

or「アゥ・ラ」=「枝分かれた・低地」
 
 です。

 「大羅」の読みは「おおよさみ」です。当該地の「大依羅(おおよさみ)神社」周辺にはかつて「依網(よさみ)池」がありました。なぜ「大羅」という漢字が充てられたかも縄文語解釈すれば簡単に判明します。

〈摂津国住吉郡大羅
◎縄文語:「大羅/大依羅(おおよさみ)」=「オオ・ヤチ・メ」=「大きな・泥の・泉」
◎縄文語:「大羅(おおら)」=「オオ・ラ」=「大きな・低地」

 つまり、縄文語では「おおよさみ=おおら=低地」=「依網池」です。縄文語地名の言い換え表現は無数にあるので、「依網池」にも言い換え表現があったということです。


■大依羅(おおよさみ)神社 ※大きな泥の泉、大きな低地。かつての依網池。



 日本全国「くだら」は「クッチャの当て字で、「湾や湖沼などの入口(の川)」に名づけられます。 「百済人が居住した」という由来が一般的ですが、違います。百済系渡来人の物語が後付けでこじつけられただけです。朝鮮半島の百済も縄文語圏ですから、朝鮮半島でも同じ地勢を指します。
 百済庶民は南方系民族で、王族は北方系です。日本の貴種は百済王族系であり、北方系です。上代日本語と百済語、高句麗語の開音節で終わる特徴が一致するのはそういう理由です。高松塚古墳壁画を見れば一目瞭然。

 繰り返しになりますが、日本と朝鮮半島南部に同一地名が多いのは、朝鮮半島系渡来人の活躍がその理由ではありません。そもそも、東夷南蛮、朝鮮半島南部、倭人が縄文語を共有する南方系の同系民族で、同じ地勢に同じ地名があったからです。歴史のいたずらで、中国、朝鮮半島、日本のいずれも北方系民族に侵略されているので、為政者の都合上、地名や歴史の多くのところで辻褄が合わなくなっているのです。
 それは筆者が進めた「日本全国大規模古墳名」「中国漢代の県名(上古音)」山海経』の縄文語解釈を参照していただければ明白です。

 殷の甲骨文字の時代から先住民の縄文語に仮借の漢字を充てる作業は行われていて、中原の圧迫を逃れた東夷南蛮の人々がその文化を携え、朝鮮半島南部から言語を共有する日本に移住し、移住先の歴史を漢字表記することは極めて自然な流れだったのです。
 中国南西部、雲南地方のイ族が日本語の一部、おそらくは縄文語由来の単語を理解できるのはまったく謎ではありません。

 縄文語解釈を続けます。

〈河内国讃良(ささら) 〉現大東市、四條畷市周辺
◎縄文語:「讃良」=「サン・サ」=「前にある・湿地」

 大東市から四条畷市周辺には、かつて「深野池」が横たわっていました。縄文語解釈と地勢が完全に一致します。

 四條畷市には「国中神社」、北隣の寝屋川市には「国守神社」がありますが、この「国」は縄文語の「コッネ=窪んでいる」に充てられることが多い漢字です。「大国主」や「韓国神社」、「辛国神社」などもそうです。

◎縄文語:「国中(神社)」=「コッネ・ナィ・カ」=「窪んでいる・川・のほとり」
◎縄文語:「国守(神社)」=「コッネ・マ・オロ」=「窪んでいる・谷水・のところ」
◎縄文語:「大国主」=「オオ・コッネ・ウシ」=「大きな・窪んでいる・ところ」
◎縄文語:「韓国/辛国(神社)」=「カ・コッネ・イ」=「曲がった・窪んでいる・ところ」

 韓国神社や辛国神社が渡来人由来だとする人が多いですが、実際は所在地の地勢を表現した縄文語地名が起源です。その漢字表記に由緒をこじつけているに過ぎません。

 神社の由緒の多くは北方系言語である上代日本語で漢字表記にこじつけた内容が書かれていますが、その実、神社名の由来のほとんどは所在地の地勢を表現した縄文語地名です。
 そもそも”渡来人に都合の良い物語を敷衍するために設けられた”のが神社の起源なので、渡来人の足跡が色濃く残されているのは当然なのです。そこには縄文語解釈のかけらも見受けられません。

 次に挙げる上野国の甘楽郡の地名由来についても渡来人はまったく関係していませんが、 一般的には”渡来人が定住した土地”というのが起源として語られています。
 なぜ、”渡来人が関係ない”と断言できるのか。それは「甘楽郡」も含め、周辺の地名が東から西に、すべて「川沿いの湿地」を表現した縄文語地名だからです。

◎縄文語:「甘楽郡/加牟良 」=「カン・ラ」=「上にある・低地」

 厳密に言えば、これらの地名は”渡来人が定住したこと”が起源ではなく、”渡来人が漢字表記にこじつけて由来を改竄したもの”とした方が正確に史実を反映しています。


■甘楽郡周辺の縄文語解釈 ※すべて「低地」の意で一致。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


 東から
◎縄文語:「(高崎市)多胡」=「タン・コッ」=「こちらの・湿地」
◎縄文語:「(高崎市)吉井」=「ヤチ・エ」=「湿地の・頭」
◎縄文語:「甘楽郡/加牟良 」=「カン・ラ」=「上にある・低地」
◎縄文語:「(富岡市)星田」=「ポッチェ・イ・タ」=「ぬかるんでいる・ところ・の方」
◎縄文語:「(富岡市)屋敷」=「ヤチ・ケ」=「湿地・のところ」
◎縄文語:「富岡」=「トマ・オカ」=「湿地の・跡」
◎縄文語:「(富岡市)原」=「ハ・ラ」=「水が引いた・低地」
◎縄文語:「下仁田」=「ス・ニタ」=「西の・湿地」
◎縄文語:「鏑(川)」=「カパ・ラ」=「薄っぺらな・低いところ」=浅い低地




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百八十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【鳥取県】度木郷・今木山・甑山・太田神社・大多羅大明神~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「大多羅大明神・太田神社」について(『今木と度木』川上貞夫 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【和名抄(高山寺本)によると、因幡国に度木(とぎ)の郷がある。この度木の郷内に、もと岡益村の氏神で、大多羅大明神を祭る太田神社がある。
 この地方の口碑によると、むかし海を渡ってきた巨人が、今木山甑山を一荷にして担って来たが、途中担棒が折れて、国府町の現在の所におき、巨人は、さらに因幡川に沿うて遡り、度木岡益に鎮座したという。
 すなわち前記の太田神社がそれである。
 そこで海の向うの朝鮮半島をみると、六世紀の頃、任那の国に「多羅」がある。今の洛東江流域のの中程で、現在の陝川(せんせん)に比定される。<中略>
 六世紀に入って任那は、百済や新羅に圧迫されて、倭国に渡って来たものもあったと考えられるが、欽明天皇二十三年(五六二)に任那の日本府が新羅に吸収されるに当り、それらの小部族国家の加羅とか安羅とか多羅の遺民が、多数倭国に渡来したものがあったと思われる。
 特に多羅についていえば、吸収の鹿児島県薩摩郡甑島に大多羅姫神社があり、指宿市には、多羅大明神を祭る神社がある。また佐賀県と長崎県にまたがる多良岳があり、佐賀県には、有明海に望んで多良町の名が残っている。
 因幡国にも前記の口碑によって、海を渡って安住の地を求めて来たものがあったということを物語っている。
 巨人が朝鮮に見かける山で、甑を伏せたような甑山と、新たに人々がやって来たという今木(新来)山を一荷にして担って来たといい、また巨人が鎮座したという度木の郷は、渡来を意味し、古事記や風土記にみる国家的秩序の無い自由な段階での渡来である。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 申し訳ありませんが、上記はデタラメオンパレードです。記紀風土記がその手法の先生ですから無理もないのですが、そもそもその漢字表記に結びつけた解釈方法が根本的に間違っています。それは古代人が先住民の縄文語の歴史文化を上書き、改竄するためにデタラメを承知で意図的に行ったものです。実に現代の研究家に至るまで千年を超えて古代人に騙され続けています。

 上記に登場する地名すべて当該地周辺の地勢を表現した縄文語地名です。

 まずは「今木山」「甑山」。これらは日本海に注ぐ千代川の支流の袋川中流の両岸にあります。

◎縄文語:「今木山」=「エコ・ヤマ」=「半分の・山」

 「エコ」には「半分」のほかに「水源」の意があります。奈良の「今木」は吉野川上流、「水源」の意です。


■今木山 ※半分の山。



 「甑山」は

◎縄文語:「甑山」=「コッチャ・ケ・ヤマ」=「谷の入口・のところの・山」

 です。”袋川の支流、美歎川の入口”の意です。

■今木山周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 「度木」「岡益」「太田神社」「大多羅大明神」は、すべて「湖沼」「低地」関連の解釈が可能です。

◎縄文語:「度木」=「ト・ケ」=「湖沼・のところ」
◎縄文語:「岡益」=「オ・マーテュ」=「盆の窪のように窪んだ・波打ち際」
◎縄文語:「太田(神社)」=「オタ」=「砂浜」
◎縄文語:「大多羅(大明神)」=「オオ・タン・ラ」=「大きな・こちらの・低地」

 「太田神社」の所在地名は「国府町清水(すんず)」で、後背には「宝山」が聳えます。

◎縄文語:「(国府町)清水」=「シアン・チゥ」」=「大きな・水脈、水流」
◎縄文語:「宝(山)」=「ト・カ・ラ」=「湖沼の・ほとりの・低地」

 そして、袋川の旧名は「法美川」です。

◎縄文語:「法美(川)」=「ポン・メ」=「小さな・泉」

 河川周辺に池沼があったことを示しています。

 日本各地に「タラ」の地名があるからといって、朝鮮半島南部の「多羅」からの渡来人を結びつけてはいけません。「タン・ラ=こちらの・低地」の地勢は日本に無数にあり、それが地名として残っているのが「タラ」なのです。
 朝鮮半島南部も日本同様、縄文語圏です。朝鮮半島にも「低地」は無数にあるので「多羅」の地名があるのは当然です。

 決して日本と朝鮮半島に「多羅の人々が~!」ということにはなりません。「度木」が「渡来」とか、「今木」が「今来」とか、明らかに古代人のウソに毒されています。


■太田神社(鳥取市)周辺の縄文語解釈 ※低地、湖沼の解釈で一致。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

※「梶山古墳」「岡益の石堂」については次回参照。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「大多羅大明神・太田神社の信仰者」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【度木郷の岡益に大多羅大明神の太田神社を祭っていた者たちは、いったいなにをしていた者だったのであろうか。一口にいうと、もちろんかれらは農耕も営んでいたであろうが、一方でのかれらは、因幡・伯耆や出雲にかけてたくさんみられる、製鉄技術をもって渡来した産鉄氏族といわれるものではなかったかと私は思う。
 一つは、製鉄の「踏鞴」とは「多羅」ということからきたものではないかと思っているからである<後略>】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「踏鞴(製鉄)」=「タッタ」=「踊り、踊り」=鞴を踏む様子
◎縄文語:「多羅」=「タン・ラ」=「こちらの・低地」

 言うまでもありませんが、「多羅」と「たたら製鉄」はまったく関係ありません。 朝鮮半島南部と倭人は縄文語を共有する南方系の同系同族なので、産鉄、製鉄技術をもって日本に来たとしてもまったく不思議はありません。

 そのような交流は有史以前から頻繁に行われていたのだと考えられます。縄文遺跡から出土する漆器の漆が中国原産であることを考えれば容易に推察できます。殷以前の中国先住民も南方系で、朝鮮半島南部や倭人と縄文語を共有していますから、この一帯に言語を共有する広大な文化圏があったということです。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「三大寺・白髭神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【ここにいう「任那」とは、古代の南部朝鮮にあった多羅や安羅などの小国家を含む加耶諸国のことで、これを古代日本では「任那」といったからにほかならない。ちなみに「任那」とはどういう意味であったかというと、すでに鮎貝房之進、白鳥庫吉氏らも指摘しているように、これは朝鮮語「任那(ニムナ)」、すなわち「君主の国」ということだったのである。<中略>
 今木山の「西南麓に近い三大寺(地名)の氏神」が新羅明神ということの白髭神社であった<後略>】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 いかに高名な学者の説がなんであろうとも、地名由来は縄文語(アイヌ語)です。 周辺地勢を見れば一目瞭然です。

◎縄文語:「白髭(神社)」=「シ・オ・ペ・ケ」=「山・裾の・水・のところ」
◎縄文語:「新羅(明神)」=「シ・オ(・ケ)」=「山・裾の(・のところ)」 or「シロケ」=「山裾」
◎縄文語:「三代寺」=「サン・タ・アン・チゥ」=「平山・に・ある・水脈、水流」


◎縄文語:「任那」=「メ・ナ」=「泉・の方」
or「メマン・ナィ」=「冷たい・川」


 「新羅=山裾」は残念ながら朝鮮半島だけにあるものではありません。


■白髭神社遠景 ※平山のほとりの水辺。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百八十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【鳥取県】岡益の石堂・梶山古墳~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「梶山古墳」について(wikipedia)
梶山古墳(かじやまこふん)は、鳥取県鳥取市国府町岡益にある古墳。形状は変形八角形墳。国の史跡に指定されている。 1978年(昭和53年)に中国地方で初めてとなる彩色壁画が発見されて注目された。その後の発掘調査で、日本最古の方形壇を持つ変型八角形古墳であることも確認された。
 本古墳は、丘の南面を幅約40メートルの馬蹄形に掘りくぼめ、底部を25メートル四方ほどに整地している。墳丘部は対角長17メートル、一辺2.5~8.5メートルの変型八角形となっている。 墳丘の前(南面)には方形壇(祭祀を行う広場)が築かれている。方形壇は長さ2メートル、幅14メートルあり、玄武岩の石垣で三段にわたって築かれている。
 遺物は、須恵器・土師器・刀子・棺金具状鉄製品、金製の薄延べ板などが出土しており、これらの出土遺物から本古墳の築造年代は6世紀末から7世紀初、古墳時代の後期~終末期と推定される。】

○「梶山古墳」について(『朝日新聞』1978/7/3 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【大きな魚の文様などの彩色壁画が、鳥取県岩美郡国府町の梶山古墳で発見された。二日に現地調査をした森浩一・同志社大今日中(考古学)は「古墳時代終末期(七世紀末)の装飾古墳で、彩色壁画のあることや古墳のつくり方から見ると奈良・明日香村の高松塚古墳クラス」と判断した。彩色壁画は、北九州や東北地方では古くから知られ、〈昭和〉四十八年には虎塚古墳(茨城)、五十一年には仙道古墳(福岡)など発見が相次いでいるが、その他の地域では、四十七年春の高松塚古墳に次ぐもので、中国地方では初めて。日本海文化の高さを証明した。<中略>
 また、石室は側壁、天井板とも一枚板の切石をみたいてあり、森教授は「つくりや壁画から、極めて高い地位の豪族の存在が推定できる」としている。また魚文様については、韓国・蔚山にある盤亀台や九州などにも二例あることから、「直接、日本海を渡ってきた、”日本海文化圏”というべきものを想定しなければならないことを示唆しているといっている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 「梶山古墳」は岡益の谷の東側の山裾にあります。

◎縄文語:「梶山(古墳)」=「カ・ヤマ」=「上の・山」

 ”高台の山”の意です。地名由来でしょうか。茨城県にも同名の古墳がありますが、これも同じ地勢です。また、奈良の「春日大社」もほぼ同義です。

◎縄文語:「春日(大社)」=「カケ」=「その上のところ」


■梶山古墳(鳥取市岡益) ※高台にある古墳。


■梶山古墳(茨城県鉾田市梶山) ※高台にある古墳。



 魚文様が見つかった韓国「蔚山」の「盤亀台」も朝鮮半島南部ですから、当然縄文語解釈が可能です。

◎縄文語:「蔚山」=「ウ・サン」=「丘の・出崎」
◎縄文語:「盤亀台」=「パケ・タ」=「岬の・方」


■韓国蔚山蔚山 ※丘の出崎、岬の方。



 『日本の中の朝鮮文化』の中では、鳥取県の因幡国法美郡「服部、波止利郷」や、茨城県の常陸国「幡田(はた)郷」の「虎塚古墳」を”秦氏”と結びつけて考察していますが、これは言うまでもなく牽強付会です。 繰り返しになりますが、

◎縄文語:「秦氏/服部/機織り」=「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」

 です。秦氏の活躍が語られるところは”日本全国の水辺”です。
 「法美郡服部郷」は現在の塩見川流域です。かつては潟湖がありました。以下、wikipedia引用。

○「法美郡服部郷(塩見川流域)」について(wikipedia)
【その当時には塩見川の海浜部には福部砂丘(鳥取砂丘の東部)があり、その後背地に取り残された潟湖として湯山池細川池があった。これらは古くは日本海に連なる入江だったとされており、神功皇后の三韓征伐の際の寄港地としての伝説が遺されている。正確な年代は不明だが、塩見川流域は江戸時代に法美郡から岩井郡(=石井郡=巨濃郡)に移管されており、両池は江戸時代から近現代にかけての干拓によって姿を消した。】

 ちなみに「鳥取砂丘」は

◎縄文語:「鳥取(砂丘)」=「トント・リ」=「はげ地の・高台」

 の意です。言うまでもなく『垂仁紀』の”天湯河板挙が白鳥を捕まえに鳥取まで来た”というのは漢字表記にこじつけた創作物語です。記紀風土記が語る地名由来とはこういったものです。


■塩見川周辺 ※かつては潟湖が存在。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 常陸国の「幡田(はた)郷」も「ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」が語源です。「虎塚古墳」も

◎縄文語:「虎塚(古墳)」=「トラィ・テュ」=「湿地の水たまりの・小山」

 の意となります。水辺ですから秦氏が活躍することになる訳です。


■虎塚古墳(茨城県) ※湿地の水たまりの小山。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「岡益の石堂」について(『読売新聞』1978/7/9 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【壇ノ浦合戦(文治元年=一一八五)で入水した安徳天皇の陵墓との云い伝えがあり、同天皇陵墓参考地として宮内庁で管理している鳥取県岩美郡国府町岡益の通称「岡益の石堂」が、このほど現地を訪れた森浩一・同志社大教授の調査で、わが国に現存する唯一の高句麗古墳の遺構らしいことがわかった。】

○「岡益の石堂」について(鳥取市文化財団より)
【岡益の石堂(おかますのいしどう)は、鳥取市国府町岡益に 所在する「石造建築物」です。
 石堂は中央がやや膨らみをもった、いわゆるエンタシスの丸い石柱と、その上にのる中台(ちゅうだい)の裏側に放射線状に刻まれた「忍冬唐草文(にんとうからくさもん)、パルメット」が特徴です。これらのことから、石堂は7世紀ごろ中国の仏教文化の影響を受けて建てられた石造物と考えられており、これを「石灯篭」と見る説、石堂の裏にある岡益廃寺との関連で石の塔とみる説など、様々な説がありますが、定説はなく、謎のままです。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 七世紀築造とされる「岡益の石堂」は上記のように安徳天皇の陵墓との言い伝えがありますが、安徳天皇は壇ノ浦の戦いの時の人物なので時代が合いません。

 では、なぜ安徳天皇の伝説が存在するのか。
 「安徳」は縄文語で、

◎縄文語:「安徳(岡益の石堂の別名)」=「アゥ・タ」=「角(つの)の・石」

 と解釈することが可能です。この「アゥタ」がその発音から安徳天皇と結びつけられた可能性があります。


■岡益の石堂(Saigen Jiro, CC0, via Wikimedia Commons)
Okamasu-no-ishido-2


 この解釈が妥当で、「岡益の石堂」がもし古墳であるならば、”縄文語(アイヌ語)””南方系民族(東夷南蛮、朝鮮半島南部、倭人)の言語”ですから、必然的に被葬者自身も南方系の人物の可能性が高いということになります。
 谷向かいの「梶山古墳」の彩色壁画の魚文様も”朝鮮半島南部”由来とされていますから、「岡益の石堂」を高句麗古墳とするにはさらなる物証が必要と思われます。「梶山古墳」も「岡益の石堂」と同時期の築造です。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百八十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【鳥取県】伊福吉部氏・宇倍神社・亀金丘古墳~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「伊福吉部氏」について(『日本史跡辞典』和歌森太郎監修 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【伊福吉部徳足比売は、「因幡国戸籍残闕」に伊福吉部徳足と記されている豪族の娘で、天武天皇十三年(六八五)には伊福吉部連が宿禰の姓を与えられたと『日本書紀』に書かれてあるように、徳足は因幡国で強力な地位を保っていた支配者であった。
 徳足比売は、藤原京にあった文武天皇につかえ、慶雲四年(七〇七)春、従七位をさずけられた。徳足比売は奈良時代、宮中で食事に関する仕事にたずさわる、いわば最下位の宮仕えの女─采女のひとりであったようである。美しい女性の貢献によって、中央とのつながりを深め、自分の地位を確立しようとした地方豪族の、いわばいけにえの役割を負わされた女性であった。
 徳足比売の墓は無量光寺の裏山にある前方後円墳で、当時流行しはじめた火葬にふされ、その骨灰は銅製の骨蔵器の蓋には文字が刻まれ、その末尾には「故末代君等、不応崩壊」とある。器は重文に指定され、現在東京国立博物館に所蔵されている。】

×「宇倍神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【この神社(因幡国一の宮 宇倍神社)は伊福部氏族の祖神を祭ったものだったにもかかわらず、いつからか武内宿禰が祭神ということになっている。そして神社には、「武内宿禰 三韓征伐出陣の図」というのがあり、これが「由緒書」にも写真となってかかげられているが、この宇倍神社については、さきにしるした「伯耆・因幡の古代文化」というシンポジウムで私はこうのべている。
 ─<中略>(祭神の)武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝に仕えた大臣で、何と三百六十歳で死んだとなっています(笑い)。
 また、この宇部神社には、「武内宿禰 三韓征伐出陣の図」というのがあるそうですが、ぼくはここで率直に言いますけれども、こういうでたらめなことはもうやめにしなくてはいけない。いやしくも因幡国一の宮である神社が、こういう「由緒書」を麗々しく出すことは、やめたほうがよろしいと思います。
 これは先ほども言いましたように、製鉄とひじょうに関係の深い神社です。たとえば最近出ました『梶山古墳緊急発掘調査報告書』をみましても、「宇倍神社は伊福部氏の社であり」と書かれている。ですから伊福部徳足比売の墳墓も二百メートル先にあるわけです。昨日、ここも行ってみましたが、・・・・・・簡単に言うとこの宇倍神社は伊福部氏族の氏神であった。そしてその伊福部氏族というのは製鉄と関係の深かった、因幡における中心的な氏族であったということです。─<中略>
 川上貞夫氏の「国府町の歴史と文化」と副題された『因幡のふるさと』によると、この(宇倍神社裏の)亀金古墳(四世紀末から五世紀初)からは「銅鏡一面、管玉三個・刀剣(鉾形諸刃)断片数本・鉄鏃・其の他鉄製品」が出土とあるが、そこに宇倍神社ができることになったのはこの古墳があったからにちがいない。そしてこの古墳の被葬者こそは、宇倍神社の祭神となった伊福吉部=伊福部氏族の祖神であったはずである。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 『日本の中の朝鮮文化』の著者である金氏が日本書紀の武内宿禰の伝説をデタラメだと言って笑うというのであれば、記紀の漢字表記にこじつけた解釈法に倣って、朝鮮半島系渡来人に都合の良い歴史解釈を延々と続けた金氏自身も同じようにデタラメだと笑われなければならなくなります。

 私見では、そもそも神社というものは当時の北方系の為政者に都合の良い物語を流布するために設けられたもので、上代日本語で書かれた「由緒書」というものは初めからデタラメと決まっています。ですから、今更、「武内宿禰の伝説が史実ではない!」と言われても、「はい、そうですね」としか答えようがありません。神社が自らの祖神を祭るという定義についても「だろう」「にちがいない」ぐらいで、根拠が希薄です。

 当時の日本は、上代日本語の北方系渡来人と、南方系先住民(東夷南蛮、朝鮮半島南部、倭人)に大きく分かれていました。南方系先住民については互いに縄文語を共有しているので、その切り分けが非常に難しく、渡来して数百年も経てばもう日本先住民と同じです。日本、朝鮮半島南部、山東半島から長江流域にかけて、南方系の人々の活動域に共通の大きな文化圏があったということです。

 特に朝鮮半島南部ぐらい日本と距離的に近くなれば、それはいわば同族と言ってもいい存在で、それだけ往来も文化の交流も頻繁にあったとするのが妥当です。それが日本の遺跡から朝鮮半島由来の遺物が無数に出土する理由です。日本人からすれば、”朝鮮半島にも倭人がいた”ということになり、朝鮮人からすれば、”日本に朝鮮人が押し寄せた”ということになる訳です。どちらも正解ですから、我田引水的にこういうことを論じること自体ナンセンスということになります。

 鳥越健三郎氏が唱えたように、日本から朝鮮半島南部、東夷南蛮にかけてすべて倭族だったということも可能です。そういった意味では、鳥越健三郎氏には先見の明があったということになります。


 一方、北方系渡来人は百済王族、高句麗系(扶余系)であり、南方系先住民とは異なる民族です。彼らが六~七世紀に大和王権を簒奪し、地方支配に乗り出したのが国衙であり、その延長線上にあるのが名だたる神社仏閣ということになります。各国風土記が先住民の縄文語地名由来をことごとく上代日本語の漢字表記こじつけ説で上書きしたことを鑑みれば、どれほど強い意志と態度をもって地方支配に臨んだかが分かります。

 宇倍神社の伊福部氏はそのヤマトに取り入った人物と考えられますから、武内宿禰の伝説を由緒として語るのは当然です。

 宇倍神社裏にある亀金古墳(四世紀末から五世紀初)が伊福部氏と関係するというのは、侵略の痕跡がなければもっともな説です。
 筆者は全国の大規模古墳名の縄文語解釈により、少なくとも同時代までは日本全国で縄文語が使われていたことに確信を持っています。それは同時に南方系民族が主導権を握っていたということを示していますから、上記亀金古墳も縄文語解釈が可能であれば、伊福部氏は必然的に南方系先住民の可能性が高いということになります。
 伊福部氏系図においても、物部神祖のニギハヤヒの八世の孫の「伊其和斯彦宿祢」が祖先とありますから、齟齬はありません。

 亀金古墳の「亀」は日本全国の地名や古墳名に頻繁に登場する漢字です。ただ、ややこしいことに「亀=丸い甲羅」の日本語の解釈は、縄文語の「コ=湾曲したもの」と一致しています。

 縄文語の「コ」には「亀」のほか、「高麗」「狛」「駒」「蒲生」などが充てられます。甲乙の問題がありますが、古代人はそのように厳密な発音区分で縄文語に漢字を充ててはいません。それら漢字の発音よりも周辺地勢との整合性を優先させて解釈すれば、それは明白です。発音が一致しないとの理由で地勢との一致を見ないというのであれば、それは本末転倒です。

 縄文語の「コ=湾曲したもの」の地勢の解釈は二種。「丸山」あるいは「湾曲した」川です。代表例として、埼玉県日高市の「高麗川」、神奈川県大磯の「高麗山」をご紹介します。


■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※湾曲する川。

■大磯高麗山  ※持ち手の曲がりのような湾曲した山(丸山)。


 言うまでもなく高麗人の活躍が語られていますが、それがどれだけ史実を反映したものか不明です。後世の渡来人が地名の発音に便乗して大げさに喧伝していることだけは確かです。

 そして、宇倍神社裏の亀金古墳(※一般的には亀金丘古墳と呼ばれているようです)。
 

■宇部神社のある亀金丘 ※丸山の上。


 
 宇倍神社はこの亀金古墳と類似の解釈が可能です。

◎縄文語:「亀金(丘古墳)」=「コ・エ・カンナ・イ」=「湾曲(丸山)が・そこで・上にある・ところ」 ※丸山の上。
◎縄文語:「宇倍(神社)」=「ウ・ヘ」=「丘の・頭」

 また、「伊福部」「徳足(比売)」、その祖先の「伊其和斯彦宿禰」はいずれも「川岸の高所」の意となっています。

◎縄文語:「伊福吉部」=「エプィ・キピ」=「小山の・水際の断崖」
◎縄文語:「(伊福吉部)徳足(比売)」=「ト・タオリ」=「突起した・川岸の高台」
◎縄文語:「伊其和斯(彦宿禰)」=「エンコ・ウェィシ」=「岬の・水際の断崖」



■亀金丘、宇倍神社遠景 ※川岸の高所。



 『伊福部氏系図』によると「伊其和斯彦宿禰」は第十三代成務天皇朝に国造に任命されていますが、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では、成務天皇朝に彦坐王の子である「彦多都彦命」が国造に任命されたとあります。この「伊其和斯彦宿禰」と「彦多都彦命」は同一人物の可能性がありますが、残念ながら、縄文語解釈の完全な一致は見つけられませんでしたが、ちょっと似た解釈は可能です。
 参考までに。

◎縄文語:「彦多都(彦命)」=「ペンケ・テューテュ」=「川上の・出崎」



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百八十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【鳥取県】伯耆一ノ宮倭文神社・下照姫・しず織・建葉槌命(天羽槌雄、止与波豆知)・御冠山~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「伯耆一ノ宮倭文神社」について(『鳥取県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【松崎駅の北約三キロ、深鉢をふせたような御冠山の西麓に鎮座しているのが伯耆国一宮の倭文神社。”しず織”という織物をおる倭文部のまつる建葉槌命(天羽槌雄神)を主神としている。大国主命の国譲り後、これに服従しなかった国を平定したのが建葉槌命だと記紀は伝える。このやしろは八三七(承和四)年はじめて国守クラスの従五位下をあたえられ、王朝政府にとりこまれる。】

×「伯耆一ノ宮倭文神社祭神」について(wikipedia)
【機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされている。ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていた。社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったという。着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っている。これについて、『式内社調査報告』では、元々は織物の神である建葉槌命を祀っていたのが、当地で織物が作られなくなったことにより建葉槌命の存在が忘れられ、共に祀られていた下照姫命だけが残ったと記している。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 神社にまつられる多くの神は縄文語(アイヌ語)地名の発音にこじつけて創作されたもので、そもそもそこに真実はありません。 なので、「元々は織物の神~」などとと言われても、「それもウソです」としか言えません。

 倭文神の解釈は三種。

◎縄文語:「倭文神」
=「シテュ・オリ(orオロ)」=「大きな峰の・丘(orところ)」

or=「シ・チ」=「大きな・水流、水脈」

 群馬県の倭文神社が関東平野の利根川沿いなので「シ・チ=大きな・水流、水脈」ですが、それ以外の倭文神社は「シテュ・オリ(orオロ)=大きな峰・丘(orところ)」の意です。

 伯耆国一宮の倭文神社は東郷池沿いで祭神には「下照姫」がいます。「下照姫」と言えば、大阪の「比売許曾神社」の主祭神でもあります。天日槍や都怒我阿羅斯等に追いかけられた「アカルヒメ」と同一神とも言われます。

◎縄文語:「下照(姫)」
=「シテュ・タ・ル・シプィ」=「大きな峰・にある・岬の・湧水」
or「シテュ・ウテュル・シプィ」=「大きな峰の・間の・湧水」
※東郷池、上町台地の湧水

◎縄文語:「アカルヒメ」=「アカ・ル・シプィ」=「なだらかな尾根の・岬の・湧水」※上町台地の湧水
◎縄文語:「ヒメコソ」=「シプィ・コッ」=「湧水の・窪地」

 「下照姫」も「アカルヒメ」も「峰のほとりの湧水」を表現したものなので、それを新羅からわざわざ追いかけてきたというのは、水でも飲みたかったんでしょうか。バカバカしい空想物語です。

 「倭文神社」「下照姫」はいずれも所在地の地勢を表現しただけです。
 そして、これが倭文氏が「しず織」を織る理由です。

◎縄文語:「しず織」 =「シテュ・オリ(orオロ)」=「大きな峰の・丘(orところ)」

 また、「御冠山」も

◎縄文語:「御冠(山)」=「メ・コ・ム・ル」=「泉・で・ふさがっている・岬」

 と解釈可能で、完全に地勢と一致しています。


■伯耆国一宮の倭文神社 ※大きな峰の頭。大きな峰の間。泉でふさがっている岬。


 倭文神社は東北から中国地方まで広範囲にありますが、大元は奈良の「葛木倭文天羽雷命神社」です。ここに「天羽槌雄(別名:止与波豆知)」が祭られているのも、所在地の地勢を表現した縄文語に漢字を充てているからです。

◎縄文語:「天羽槌雄」=「アゥ・メ・パ・テューテュ」=「枝分かれた・泉・の上手の・出崎」
◎縄文語:「止与波豆知」=「ト・ヤ・パ・テューテュ」=「湖沼の・陸岸・の上手の・出崎」


 後背の二上山を指したとするのが妥当です。


■ 葛木倭文座天羽雷命神社(奈良)


 この「天羽槌雄」がなぜ「建葉槌命」なのか。「建葉槌」は、

◎縄文語:「建葉槌」=「タ・パ・テューテュ」=「石の・頭の・出崎」

 と解釈可能ですが、これは三輪山とするのがふさわしく思えます。そして三輪山と葛城地方を結びつけるのは、オオクニヌシの子の事代主です。

 事代主は神武天皇皇后のヒメタタライスズヒメの父ですが、同姫の父は三輪山の神の大物主であるともされています。両者の存在が重なるとともに、葛城を拠点とした鴨氏が鴨都波神社で祭っているのは事代主です。
 つまり、「葛木倭文座天羽雷命神社」は「三輪山」から葛城に移った「事代主」を祭っているのではないかということです。
 このあたりは推論なので、残念ながら確度が高い説だとは言えません。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百八十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【鳥取県】大山・孝霊山(高麗山、カラ山)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「孝霊山(高麗山、カラ山)」について(『伯耆・出雲の史跡めぐり』米子図書館編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【高さ七五一米、淀江町と大山町の境をなしている。高麗山とも書き、地元ではカラヤマとよぶ。この山をとりまく山麓にはいわゆるカラ山古墳群と総称される四百以上の古墳が分布し、また石器類も多く出土している。なだらかな山容は、淀江では大山より高く望まれる。その昔、カラ(韓。朝鮮の呼称)からはるばる大山との山くらべのためにここまで運んできたが、大山が高かったのでここに置き去りにしたという伝説もあり、またその名から孝霊天皇の伝説も残り、遠い昔の朝鮮との文化交流のあとを想像させる。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 孝霊山(高麗山)の伝承ももちろん縄文語地名に漢字を充てて創作された物語です。

◎縄文語:「孝霊(山)(高麗山)」=「コッネ・イ」=「窪んでいる・もの」
◎縄文語:「カラヤマ」=「カ・ヤマ」=「曲がっている・山」

 見たままを表現しています。 山の名に朝鮮半島は関係ありません。


■孝霊(山)(高麗山)、右下が一宮神社 ※窪んでいる山、曲がっている山。


 大仙は山頂付近の地勢を表現したものと思われます。

◎縄文語:「大仙」=「タン・サン」=「こちらの・平山」

 また、このアイヌ語によくある対比表現「タン=こちらの」は、大仙の対比として東に接する勝田山、甲ヶ山、矢筈ヶ山の”平らな峰”とすれば、地勢と完全に一致します。


■大仙(南側から)


■大仙「こちらの平山」(道路正面)と勝田山、甲ヶ山、矢筈ヶ山の”平らな峰”(左)

■大仙周辺



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百八十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【鳥取県】石馬谷古墳(石馬大明神)・天神垣神社・妻木晩田遺跡・向山古墳群・長者ヶ平古墳・岩谷古墳~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「石馬谷古墳(石馬大明神)・天神垣神社」について(『伯耆・出雲の史跡めぐり』米子図書館編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【福岡の天神垣神社境内にある。体長一・五米の石製の馬で、脚部は失われているが、古色と雅致にあふれている。古墳に石人・石馬を立てて飾った例は北九州に数例見られるが、本州に於いてはこの石馬が唯一つあるだけである。この石馬は、近くにある石馬谷古墳の飾りに立てられたものといわれ、それがのち石馬大明神として祭られてきた。<中略>石質は角閃安山岩であり、この地で作られていることが明らかである。
 作は石の丸彫りで鞍などの馬具で飾られている。全体に纂疏鉄がぬられていた跡がわずかに見られる。その当時は土で埴輪として作った場合が殆んどであるのに、何故ここだけ石で馬を作ったかは謎である。しかしながら福岡古墳群にみられる石材加工技術の高さ、当時の先進地朝鮮の文化をよく取入れていること、馬をもつことの価値あることなどを考えあわせれば、この地に石馬の存在する理由もうなずける。郷土の誇るべき文化財として大切に残していきたい。一面からみれば、古代石造美術の代表作ともいえよう。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「石馬(大明神、谷古墳)」=「エテュ・ウン・マ」=「岬・にある・谷水」
◎縄文語:「(天)神垣(神社)」=「カン・メ・カ・ケ」=「上にある・泉の・ほとり・のところ」

 「石馬」単独で縄文語解釈しても牽強付会の感が強くなりますが、周辺地名を見れば、それほど荒唐無稽ではないことが分かります。  
 石馬谷古墳の所在地は「淀江町福岡」です。そして東に接して「富岡」「安原」地区があります。

◎縄文語:「淀江」=「ヤチ・エ」=「泥の・頭」
◎縄文語:「福岡」=「プケ・オカ」=「大水の・跡」
◎縄文語:「富岡」=「トマ・オカ」=「湿地の・跡」

◎縄文語:「安原」=「ヤチ・エ・ハ・ラ」=「泥・そこで・水が引いた・低地」

 「富岡」には妻木晩田遺跡がありますが、これは弥生時代から古墳時代初期の高地性集落です。

◎縄文語:「妻木晩田(遺跡)」=「ム・ハッタ」=「ふさがっている・淵、水が深くよどんでいるところ」

 これは妻木晩田遺跡の東隣の松尾池を指したものと思われます。

◎縄文語:「松尾(池)」=「マーテュ・オ」=「波打ち際の・尻」

■向山古墳群周辺の縄文語解釈 ※「湿地」の解釈が多く見られる。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 妻木晩田遺跡は弥生時代から続いていますから、言うまでも南方系です。しかし、縄文語の「エテュ・ウン・マ=岬・にある・谷水」を上代日本語で「石馬」と解釈するのは北方系渡来人です。

 以下再掲になりますが、出雲の大規模古墳の六世紀の動きです。広範囲に分散していた古墳が、なぜか、意宇平野に集中して築かれはじめます。

■出雲における六世紀の大規模古墳について
【六世紀の出雲では、各地に分散していた大型古墳が突然意宇平野周辺に集中して築かれるようになります。これは、各地域の首長が何らかを目的に一地域に集まったことを示しています。
 ちょうどその頃、九州では筑紫君磐井の乱(527年)がヤマト王権に鎮圧されましたが、その後勢力を伸張させた熊本県宇土地方からは、石棺式石室が出雲に取り入れられました。
 このことは、ヤマト王権からの圧力に、熊本地方と出雲地方が連携して対応したことを示していると考えられています。(※参考文献:しまねの遺跡 発掘調査パンフレット 魚見塚古墳・東縁寺古墳/島根県教育庁埋蔵文化財調査センター)】

 石馬谷古墳は意宇平野の東方約三十五キロメートルですが、築造は意宇平野と同時期、六世紀中頃のことです。果たして石馬谷古墳の勢力は南方系先住民か、それともヤマトと同じく北方系渡来人か。気になるところです。

 「石馬谷古墳」は全長六十一・二メートルの大規模前方後円墳です。そして、石馬谷古墳が属する向山古墳群には、ほかにも「向山」と「瓶山」にまたがって「長者ヶ平古墳(前方後円墳/全長四十八メートル/六世紀中頃)」「岩谷古墳(前方後円墳/全長五十二メートル/六世紀後半)」があります。

 日本全国の大規模古墳の名称は所在地の地勢と一致する縄文語解釈が可能です。上記三つの古墳も例外ではありません。

◎縄文語:「長者ヶ平(古墳)」=「テューテュ・ナ」=「出崎の・平地」=向山
◎縄文語:「岩谷(古墳)」=「イワ・ヤ」=「祖先の祭場のある神聖な山の・岸」
=向山古墳群

◎縄文語:「向山」=「ムィェ・カィ・ヤマ」=「山頂が・折れている・山」※山頂がもぎ取られたように平らな山。=長者ヶ平
◎縄文語:「瓶山」=「コ・ヤマ」=「湾曲した・山」
=丸山

 「コ」は日本全国「丸山」あるいは「湾曲した川」の意です。朝鮮半島の「コマ(高麗)」は地名にまったく関係ありません。


■長者ヶ平のある向山 ※出崎の平地。山頂がもぎ取られたように平らな山。

■瓶山 ※湾曲した山、丸山。



 これら地勢と完全に一致する縄文語解釈は、当該の墳墓が南方系先住民のものである可能性が高いことを示しています。よって、北方系言語である上代日本語の「石馬」が存在する理由は次の二つ考えられます。

1 )石馬谷古墳の築造時期と石馬が置かれた時期が異なる。北方系渡来人によって後世に石馬が置かれた。
2 )北方系渡来人と南方系先住民が共存していた。大規模古墳名が縄文語解釈可能である以上、主導権は南方系先住民が握っていた。

 ということになります。


 また、「石馬」は福岡県八女市の「岩戸山古墳(六世紀前半/前方後円墳/墳丘長百三十五メートル)」からも出土しています。こちらの古墳も「池沼のある峰」の上に築かれています。「石馬=岬にある谷水」の縄文語解釈と地勢が一致します。そして、古墳名も同様に所在地の地勢を表現しています。

◎縄文語:「岩戸山(古墳)」=「イワ・ト・ヤマ」=「祖先を祭る神聖な山の・湖沼の・山」=八女古墳群の丘陵

 こちらも大規模古墳で縄文語解釈可能ですから、南方系と北方系のいずれの影響も考えられます。所在地名は八女市吉田です。

◎縄文語:「吉田」=「ヤチ・タ」=「泥・の方」

 これも齟齬はありません。


■岩戸山古墳(福岡県八女市) ※祖先を祭る神聖な山の湖沼の山。 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百八十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【鳥取県】日野川(能美川、新羅川)・新羅国王億斯富使主~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「日野川」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【こんどは日野川をさかのぼって、日野郡の溝口まで行くことにした。そこにある樂樂福神社をたずねるためだったが、さきにまず日野川ということで、私にはちょっと考えさせられるものがある。
 というのは、その日野川は越前(福井県)にもあって、<中略>これは『万葉集』の大伴家持の歌に「淑羅(しらぎ)川」とあるそれで、元は信露貴川、新羅川となっていたものだった。今庄の新羅神社でみせてもらった古い文書に、そのことがこう書かれていた。
「足羽記に云う、信露貴川新羅山麓より出づ」「新羅川水源、今庄駅の東南夜叉ヶ池より出づ、一名能美川、又、日野川
 いったいどうして、新羅川が日野川になったのであろうか。日野とか日根とかは、新羅における日の神である太陽信仰(このことについては水谷慶一氏の『しられざる古代』にくわしい)からきたものかどうか、それはよくわからない。
 それはよくわからないが、しかしたとえば、和泉(大阪府)の泉佐野市には日根野というところがあって、そこに日根氏族の氏神だった日根神社があるが、『泉佐野市の文化財』にその日根神社と日根氏のことがこうある。
「<中略>当社の神宮司であった慈眼院に隣接した神社で、古来大井関大明神と称せられ、古くからこの地方で崇敬されている。延喜式神名帳に「日根郡正四位下日根社」とあるのに比定されている神社で、養老年間勅命により和泉五社の一に列せられた。祭神はウガヤフキアエズのミコトとタマヨリヒメの二柱とされているが、一説には古くからこの地に移住して来た、新羅国王億斯富使主(おしふみのおみ)を祀ったという。<中略>
 日根氏、先祖は新羅の億斯富使主なりと伝えられ、その子孫は日根野に永住して勢力を持つ在地の武士であった。」<中略>
 いずれにせよ、日野とか日根というそこは、新羅系の渡来人が住んだところであったことはまちがいはない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 上記のように、これほど説が暴走すると、すべてをちゃぶ台返しするしかなくなります。

 もちろん、日野川と新羅国はまったく関係ありません。新羅系の人物が住んだことがたとえ事実だとしても、それは単なる偶然です。

◎縄文語:「日野(川)/日根」=「ピ・ナィ」=「石の・川」
◎縄文語:「能美(川)」=「ナィ・ピ」=「川の・石」

 福井にも、鳥取にも、島根にも、大阪にも、四十七都道府県、日本全国津々浦々にある川の地勢です。それらすべて新羅系にするつもりでしょうか。
 そして、

◎縄文語:「信露貴(川)/新羅(川)/新羅(山麓)」=「シ・オ・ケ(orシロケ)」=「山・裾・のところ(or山裾)」

 を流れるのですから、要するに「山裾を流れる石ころの川」という意です。「新羅山麓」とご丁寧に「山麓」を付加しなくても「新羅」自体がそういう意味です。これが「なぜ、新羅川が日野川になるのか」の解です。

 残念ながら太陽信仰も関係ありません。何度も言いますが、黎明期の日本の歴史において、「日=太陽」などと漢字表記にこじつけた解釈はことごとくデタラメです。つまり、記紀風土記からしてデタラメの大先生だということです。

 そして、泉佐野市の日根神社の祭神が日根氏祖先の新羅国王億斯富使主という説について。

◎縄文語:「億斯富(使主)」=「オスッ・フミ」=「山裾の・断片」※山裾にある山の断片。

 「新羅」も「山裾」の意ですから、いずれも日根神社所在地の地勢を表現したものであることが分かります。これも、縄文語地名の仮借の漢字表記にこじつけて物語が創作されたということです。
 これらから判断するに、日根氏が実際に新羅系渡来人だったかどうかはまったくの不明と言わざるを得ません。


■日野神社(泉佐野市)  ※山裾にある山の断片。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百八十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【鳥取県】楽楽福神社・菅福神社・日谷神社・カナヤゴサン・徐羅伐(新羅)・金氏~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「楽楽福神社」について(『伯耆・出雲の史跡めぐり』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【〈日野郡日南町〉宮内にあり、日野川をはさんで東と西に両社がある。宮内の地名は、この神社があるところから起こっている。楽楽福と書いて「ササフク」とよばれる神社は、この両社のほかに宮原(溝口)と大宮、さらに西伯町篠相にあり、そして同じ祭神をまつるものに菅福神社、日谷神社がある。
 ところで、各地にあるササフク神社について共通する事は、祭神が必ず「ヤマトネコヒコフトニノミコト」、つまり孝霊天皇かその一族の方であり、そして火や水や暴風雨の神、鉱山の神とも付会つながりをもっている点である。中国山地に濃く分布する「カナヤゴサン(金屋子神)」は、鍛冶屋や鉱山タタラ師のまつる神であり、守護神であるが、そのカナヤゴサンはササと深い関係がある。或る時カナヤゴサンが猟師に追われて危なかった時、ササのおかげで助かった、という伝承信仰があり、「ササ」はカナヤゴサンを表象するものといえる。又「フク」は、吹子(ふいご)のフクであり、金属をとかしわけて精錬する意味をもっている。ササフクの名は文字通りカナヤゴの神、タタラの神と深くつながっている。】

×「カナヤゴサンとイザサワケ」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
伝承というのはある事実を反映したものでもあるが、<中略>(カナヤゴサンが)「ササのおかげで助かった」と、そのササが植物の笹であるかのようになっている。しかしそうではなく、これは天日槍が伊奢沙別命(越前の気比神宮祭神)となっている、そのササ(奢沙)からきたものではないかと私は思う。がそれはあとのことにして、ここにいう日南町宮内の楽楽フク神社は奥楽楽福ともいって、日野川のずっと上流となっている。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「楽楽福(神社)」=「ソ・ピケゥ」=「剥げている・石ころ」
◎縄文語:「菅福(すげふく)(神社)」=「シ・ケ・ピケゥ」=「川岸の崖・のところの・石ころ」
◎縄文語:「日谷(ひたに)(神社)」=「ピテュ・ニェ」=「岩崎の・林」

 ササフク神社が「ヤマトネコヒコフトニノミコト(孝霊天皇)」を祀る理由は、縄文語で同じ地勢を表すからです。

◎縄文語:「(ヤマト)ネコヒコフトニ(ノミコト)」=「ナィ・カ・シク/ピテュ・ニェ」=「川・岸の・大夫/岩崎の・林」

 ちなみに孝霊天皇は日本神話でオオクニヌシに国譲りを迫った「経津主」とまったくの同義です。

◎縄文語:「経津主」=「ピテュ・ニェ・ウシ」=「岩崎の・林・の者」

 初代神武天皇と第十代崇神天皇は同一人物で、それぞれの周辺人物が一致します。日本神話は欠史八代の事績を下敷きに創作されています。詳しくは拙著『日本書紀のエラーコラム(総集編)』をご覧下さい。

 そして、日野川は、

◎縄文語:「日野(川)」=「ピ・ナィ」=「石の・川」

 です。

 一方、「カナヤゴサン」は単に高所の岸辺を表現したものです。砂鉄が採れるのは”川の上流”ですから、必然的に地勢と一致することになる訳です。

◎縄文語:「カナヤゴ(サン)(金屋子神)」=「カンナ・ヤケ」=「上にある・岸辺」

 「ササ」は、

◎縄文語:「ササ」=「サン・サ」=「前にある・浜」

 で、「カナヤゴサン」の解釈との齟齬はありません。いずれも同じ場所の地勢を表現したとすれば、結びつけられて物語が創作されても不思議はありません。

 「タタラ製鉄」は既出です。

◎縄文語:「タタラ(製鉄)」 =「タッタル」=「踊り踊り」(※「タル=踊り」×2)

 「鞴を踏む様子」を表現したものと思われます。

 イザサワケはの「ザサ」は、「エテュ・サ=岬の・浜」で敦賀半島の根元の「敦賀の浜」を指しています。言うまでもなく、天日槍は関係ありません。天日槍は単に出石の城崎温泉を指しています。そして、出身とされる「新羅」も「山裾」の意ですから、実際は「出石の山裾」からヤマトに来た可能性が高いと言えます。新羅人はもとより、渡来人であったかどうかさえも不明です。

◎縄文語:「天日槍」=「ア・ヌピ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」=城崎温泉⇒google map
◎縄文語:「城崎(温泉)」=「ケナ・ケ」=「川端の木原・のところ(の温泉)」
◎縄文語:「出石」=「エテュ・ウシ」=「岬・のところ」
◎縄文語:「新羅」=「シロケ(orシ・オ・ケ)」=「山裾(or山・裾・のところ)」

 記紀風土記の解釈法を先生にして、漢字表記や発音を安易に結びつけてはいけません。


■西楽楽福神社(日野郡日南町宮内)前の日野川 ※石ころの川。


■楽楽福神社(西伯郡伯耆町宮原)前の日野川 ※石ころの川。


■印賀樂樂福神社(日野郡日南町印賀 大宮)前の印賀川 ※石ころの川。


■菅福神社(日野郡日野町上菅)前の日野川 ※川岸の崖のところの石ころ。


■日谷神社(日野郡日南町笠木)前の小河川 ※護岸ありで元の地勢が不明。



 また、『日本の中の朝鮮文化』には、新羅の国姓について以下のような記述があります。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「カナヤゴサンとイザサワケ」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【古代朝鮮の各国にはそれぞれ国姓というのがあって、高句麗は高、百済は余、新羅・加耶はどちらもであった。
 つまり金の新羅・加耶は、すなわち「鉄の国」ともいうべきところだったのである。金は音ではキムまたはクム(金)であるが、訓ではシェまたは(鉄)である。新羅の元号である徐羅伐(ソラブル】のソというのもその鉄ということであるソで、さきにちょっとふれた天日槍があるところでは伊奢沙別命(越前の気比神宮祭神)となっている奢沙のササ(伊は接頭語)も、そのソからきたものではなかったと私は思っている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 上記は言うまでも無く牽強付会です。新羅含め、朝鮮半島南部も縄文語圏です。

◎縄文語:「金(キム)」=「キ」=「山」
◎縄文語:「徐羅伐」=「シ・フ」=「山・丘」
◎縄文語:「新羅」=「シロケ(orシ・オ・ケ)」=「山裾(or山・裾・のところ)」

 鉄が山にあるのは一般的ですが、漢字表記どおり「金=鉄」となる訳ではありません。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百九十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【鳥取県】皆生温泉・美保湾・八雲立つ出雲~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「皆生温泉」について(『出雲路』錦織好孝 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
皆生温泉は、米子市の東北約五キロにあって、夜見ヶ浜半島の日本海側基部に位置している。いまの夜見ヶ浜半島が、まだ夜見島という島であった奈良時代には、皆生温泉の地は海底にあって、海中から熱湯が湧き出ていた。それで、ここを海池(かいけ)といっていたが、後にシャレて皆生に改めたものといわれる。
 白砂と青松にとり囲まれた皆生温泉は、典型的な海岸温泉で、美保湾の右手には大山の霊峰を仰ぎ、左手には白砂青松の夜見ヶ浜半島と、神話伝説の宝庫美保の関を望見することができ、実に明るい環境下にある。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「皆生」=「カィ・ケ」=「折れ波・のところ」

 湯が沸き出して、海が波打っていたということです。ちなみに「美保湾」は、

◎縄文語:「美保湾」=「モィ・ホ」=「入り江の・外れ」

 の意で、

◎縄文語:「出雲」=「エテュ・モィ」=「岬の・入り江」

 ですから、「出雲の入り江(宍道湖、中海)の外れ」を表現していることになります。静岡県の「三保の松原」も「折戸湾の外れ」で同地勢、同語源です。

 余談ですが、八束水臣津野命やスサノオが言った「八雲立つ出雲」は、「出雲に雲が多く出る」という意味ではありません。これも北方系渡来人による漢字こじつけ創作です。

◎縄文語:「八雲立つ(出雲)」=「ヤウンク・モィ・テューテュ」=「先住民の・入り江の・出崎」

 の意ではないでしょうか。宮崎の弥五郎塚古墳(古墳時代後期/全長94m/前方後円墳)も

◎縄文語:「弥五郎塚(古墳)」=「ヤウンク・テュ」=「先住民の・小山」

 の意と思われます。



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◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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