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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第四百十一回~第四百二十回 】

第四百十一回第四百十二回第四百十三回第四百十四回第四百十五回第四百十六回第四百十七回第四百十八回第四百十九回第四百二十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【徳島県】鴨島町・呉島~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「鴨島町・呉島」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【福井好行氏の『徳島県の歴史』にある「郷名の比定表」によると、鴨島町は『和名抄』の「道円本」「高山寺本」とも「呉島」郷となっていたところであったが、それ以前は「呉」郷だったのではなかったかと思われる。そしてその呉は、呉職の呉と同じように、「呉・越」といった中国のそれではなく、高句麗句麗(朝鮮語ではクレ)からきたものだったはずである。
 そのことは、近くが高句麗系のそれであった忌部郷だったことからもわかる<中略>そして、ここには、高句麗のことを古代日本では高麗(こま)といい、のちにはその高麗が朝鮮全体をさすことになったのもそれに由来する朝鮮・檀君神話の熊(朝鮮語ではコム)からでた熊野神社もある。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 周辺の積石塚や古墳からの出土物により、忌部氏が高句麗系の可能性があるとするのは無理がありません。

 しかし、「呉島」”高句麗”と結びつけたり、「熊野神社」”檀君神話の熊”と結びつけたりするのは、まったくもって肯んじ得ません。完全な牽強付会です。

 まずは、「鴨島」。
 「鴨」は第四百七回の「鴨神社、加茂神社のデタラメを暴く!」でご紹介したように、単なる「丸山」の意です。「賀茂/鴨/加茂/高麗/狛/蒲生」等は、主に縄文語の「コ=湾曲している様」に充てられる漢字です。

 解釈は次の二種。

◎縄文語:「賀茂/鴨/加茂」
=「コ・マ」=「湾曲している・谷川」
or「コ」=「湾曲する様」
=丸山

 もちろん、徳島県吉野川市の「鴨島」も例外ではありません。「呉島」も「鴨島」の類似表現です。

◎縄文語:「鴨島」=「コ・サマ」=「丸山・のほとり」
◎縄文語:「呉島」=「キ・サマ」=「山・のほとり」  

 周辺地勢を見れば一目瞭然です。京都の上賀茂神社、下鴨神社、神奈川県の大磯町の高麗山、埼玉県日高市の高麗川の例といっしょにご覧ください。

 高麗のつく地名は例外なく「高麗」「高句麗」系渡来人の移住や活躍が語られますが、それが眉唾物であることがはっきり分かります。古文献がウソをついているか、または、先住民文化を抹殺するために敢えて本来の地名由来を打ち消すような施策を講じたかです。古文献によって渡来人の活躍が大げさに喧伝され、日本の歴史が改竄されていることだけは確かです。

 また、環頭大刀がたとえ「高麗剣」と呼ばれていたとしても、これで即ち「高句麗/高麗」を指しているということにはなりません。たとえ北方系由来の剣だとしてもです。それにそもそも環頭大刀の起源は中国です。
 ”高麗剣”は「コ=湾曲している様」ですから、”柄頭が丸い剣”を指しただけです。


■鴨島(徳島県吉野川市鴨島町鴨島) ※丸山のほとり。

■上賀茂神社(京都)背後の丸山。
■神山(上賀茂神社北方約2km) ※丸山。 社伝では賀茂別雷命が降臨したという。

■鴨居(神奈川県横須賀市)※浦賀城跡の丸山。
◎縄文語:「鴨居」=「コ・エ」=「湾曲した・頭(岬)」 ※丸山  
■福岡町加茂(富山県高岡市)※湾曲した山。丸山。鴨城跡の丸山。  
■鴨阪(兵庫県丹波市)※余田城跡の丸山。
◎縄文語:「鴨阪」=「コ・サン・ケ」=「湾曲した・出崎の・ところ」

■鴨庄(山口県山陽小野田市)※丸山の裾。
◎縄文語:「鴨庄」=「コ・シ・オ」=「湾曲した・山の・裾」  
■鴨庄
(香川県さぬき市)※丸山の裾。
◎縄文語:「鴨庄」=「コ・シ・オ」=「湾曲した・山の・裾」  
■高麗山(神奈川県大磯町) ※丸山。

■高麗川(埼玉県日高市) ※湾曲する川。




 忌部郷の熊野神社というのは、吉野川市山川町旗見や吉野川市美郷高野尾の熊野神社でしょうか。
 熊野神社はこれまでも何度も登場しています。繰り返しになりますが、

◎縄文語:「熊野(神社)」=「クマ・ノッ 」=「横に平べったい・岬」

 です。和歌山の熊野本宮大社も奈良の檜前も和歌山の日前神宮もすべて「横に平べったい岬」の意です。


■熊野神社の建つ丘(吉野川市山川町旗見) ※横に平べったい山。


■熊野神社の建つ山(吉野川市美郷高野尾) ※横に平べったい山。


■熊野本宮大社対岸の峰 ※「クマ・ノッ=横に平べったい・岬」
■奈良県明日香村檜前地区(於美阿志神社北方の見晴らしの丘) ※「ペナ・クマ =川上の・横に平べったい山」   
■ 日前神宮周辺(和歌山市東部) 「ペナ・クマ =川上の・横に平べったい山」

■出雲國一之宮 熊野大社後背の山 ※「クマ・ノッ=横に平べったい・岬」

■熊木川河口(石川県) ※「クマ・ケ =横に平べったい山・のところ」

■熊山(吉井川対岸から望む)(岡山県) ※「クマ・ヤマ =横に平べったい・山」



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【徳島県】八鉾神社・大国主・韓背宿禰~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「八鉾神社」について(『徳島県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
八鉾神社は延喜式内社で、長国の国造の祖をまつる神社といわれている。格式たかいだけに社宝は多い。ご神体は大己貴命立像。木造で高さ一・三四メートル、平安時代末期の作といわれ、神像の立像として全国的にも珍しいといわれている。もうひとつの男神立像は大己貴命立像とよくにた形式であり高さ約一・七メートル、製作は平安時代末期と推定され、少彦名命像といわれている。】

×「八鉾神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
「多くの鉾」ということを意味した「八鉾」神社はその名称からして、相当古い神社らしかった<中略>
 ここにいう「長国の国造」とは、これまでにもみてきた韓背宿禰であることはいうまでもない。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 大国主の別名である大己貴命や八千矛神と徳島県の八鉾神社は高確率でまったく関係ありません。

 八鉾神社の「八鉾」は、「やほこ」と読みます。これは所在地の地勢を表現した縄文語です。もちろん「多くの鉾」などという意味ではありません。

◎縄文語:「八鉾(神社)」=「ヨピコッ(イ・オピ・コッ)」=「親から分かれた窪地(それを・捨て去った・窪地)」

 隣接して大きな窪地があり、そこから枝分かれた窪地の意です。八鉾神社の近隣には「泉」や「湿地」「低地」を表す地名が豊富にあり、東方にはより大きな海際の湿地があります。


■八鉾神社周辺の縄文語解釈 ※親(大きな窪地)から別れた窪地。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 これは、佐賀県の「呼子」と同じ語源と思われます。「呼子」も”大きな入り江(名護屋浦)の東隣の小さな入り江”です。

■佐賀県呼子 ※大きな入り江(名護屋浦)の東隣の小さな入り江。親から分かれた窪地。


 そして、なぜこの八鉾神社に大国主が祀られることになったのか。

 それは、地名の仮借の漢字表記の「八鉾」と、大国主の別名である「八千矛神」表記と発音が似ていたからです。単に古代人による都合の良い連想ゲームだったということです。

 また、大国主も、

◎縄文語:「大国主」=「オオ・コッネ・イ・ウシ」=「大きな・窪んだ・ところ・のもの」

 の解釈が可能で、偶然かも知れませんが、八鉾神社周辺の地勢と辻褄が合います。私見では、これは奈良の「磯城」を指したものだと考えています。奈良盆地中央の奈良湖の窪地のことです。

◎縄文語:「磯城」=「シ・コッ」=「大きな・窪地」


 日本神話というのはこういった地名、人名のこじつけを繰り返し積み重ねた物語なので、いちいち真に受けて結びつけると、もれなく”とんでも歴史”ができあがります。大国主と阿波は高確率でまったく関係ありません。

 残念ながら、日本の歴史の土台にはこのようなウソが無数に敷き詰められています。古文献や神社の由緒はデタラメに結ばれて複雑に絡み合った状態です。日本の真実の歴史を探るには、これらをひとつひとつ解きほぐす作業が不可欠です。


 長国の国造の「韓背宿禰」については、

◎縄文語:「韓背(宿禰)」=「カ・ウシ」=「曲がっている・ところ」※丸山

 の解釈が可能です。

 「カ」は「曲がっている川や峰」「曲がっている山(丸山)」の形容に用いられます。奈良の「軽」の地も高取川が曲がるところです。これは「高麗/鴨/神」などが充てられる「コ=湾曲している様」と同じ使い方です。

 「八鉾神社」の場合は、後背の山の地勢を指したものと思われます。これが「韓背=丸山」が祀られる理由です。


■八鉾神社正面 ※丸山



 八鉾神社西方の三倉山のふもとには「唐橋」の地名があります。これも「中国大陸」や「朝鮮半島」とはなんら関係ありません。

◎縄文語:「唐橋」=「カ・パ・ウシ」=「曲がっている・岬・のところ」※丸山

 の意です。

■唐橋 ※丸山


■八鉾神社周辺の縄文語解釈
◎縄文語:「宮内」=「メ・ヤ・ウテュ」=「泉の・陸岸の・間」
 ※地勢と周辺地名から判断すると「宮があるところ」の意ではない。
◎縄文語:「本庄」=「ポン・チゥ」=「小さな・水脈、水流」
◎縄文語:「宝田(町)」=「ト・カ・ラ・タ」=「湖沼・のほとりの・低地・の方」
◎縄文語:「三倉」=「メ・キ」=「泉の・山」
◎縄文語:「大谷」=「オオ・ティネイ」=「大きな・湿地」
◎縄文語:「富岡」=「トマ・オカ」=「湿地の・跡」

 八鉾神社の近隣に「天神社」がありますが、これも類義語です。

◎縄文語:「天神(社)」=「タン・チゥ」=「こちらの・水脈、水流」




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【徳島県】宍喰町・大里古墳・海部氏・大山神社・塩深~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「海部/大里古墳」について(『徳島県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【海南駅から東へ約一キロほどゆくと、景勝大里松原にでる。この付近一帯は大きな砂丘で、その砂丘のうえに大里古墳がある。この古墳は横穴式の円墳で、六世紀ごろからつくられた海部豪族の墳墓であるといわれている。古墳の現状は、封土が流失して巨大な天井石が六個露出している。大きさは羨道の長さ四メートル、高さ一・六メートル、玄室の長さ六メートル、高さ二・四メートル、奥壁は巨大な一枚石によって構築されている。】

×「海部氏」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【いまは海部(かいふ)といっているけれども、そのもとは海部(あまべ)、すなわち海人(あま)族ということではなかったかと私は思う】

×「宍喰町/塩深/大山神社」について(『徳島県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
宍喰町の久保から宍喰川を約一〇キロのぼった塩深の大山神社は、脚咋別(あしくいわけ)の始祖鷲住王命をまつる宍喰町最古の神社だ。鷲住王は、履中天皇の后妃の兄といわれる。この神社は『阿波志』によると「十二社権現と称す、宍喰は脚咋の転じたものである」としるされている。】

×「大山神社」について(『大山神社現地案内看板』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【創立年代は不詳であるが、脚咋別(旧宍喰町の古名)の始祖を祀る。鷲住王は、景行天皇の曾孫で、履中天皇の妃の兄であり、約1600年前の応神王朝の時代に、この地域を領有していた。
 大山神社は、古くは十二の僧坊があって十二社権現と称し、由緒ある神社として鎌倉時代以前は隆盛を誇った。
 天明3年(1783)の火災により、社殿の宝物等は、ほとんど消失した。
 現在の成福寺(じょうふくじ 字岸ヒタイ)は、その僧坊のひとつといわれている。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「大里(古墳)」=「オオ・サ・タ」=「大きな・浜・の方」
◎縄文語:「宍喰」=「シ・サ・ケ」=「大きな・浜・のところ」
◎縄文語:「海部」=「カィぺ」=「折れ波、くだけ波」 ※波打ち際

 「大里」と「宍喰」が「大きな砂浜」のよくある言い換え表現になっているので、「海部」も「波打ち際」と解釈して、類義語とする方が辻褄が合います。


■大里松原海岸 ※大きな浜の方。大きな浜のところ。波打ち際。

■大里古墳 ※大きな浜の方。大きな浜のところ。波打ち際。



 「大山神社」の現地案内看板と「阿波志」には「脚咋別(あしくいわけ)」が「宍喰(ししくい)」の古名だとありますが、「脚咋別」は単に大山神社周辺の地勢を表現しているだけで、海際の「宍喰」とは無関係です。

 「大山神社」の建つ山のふもとには「神子屋敷」の地名がありますが、これとまったく同じ地名が宮城県の蔵王町と愛媛県四国中央市にあります。

 ここでは「神=コ=曲がっている様」の解釈が可能です。繰り返しになりますが、「コ=曲がっている様」には「高麗/賀茂/鴨/加茂(カモ)/狛/蒲生(コマ)」等の漢字が充てられます。解釈は次の二種。

◎縄文語:「神」
=「コ(・マ)」=「湾曲(する・谷川)」
or「コ」=「湾曲する様」
=丸山

 徳島県宍喰町と愛媛県四国中央市の「神子屋敷」は「湾曲する川」、宮城県蔵王町は「丸山」となっています。

◎縄文語:「神子屋敷」=「コ(・マ)・カ・ヤチ・ケ」
=「湾曲(する・谷川)・のほとりの・泥・のところ」
※湾曲する川のほとりの湿地
or「丸山・のほとりの・泥・のところ」
※丸山のほとりの湿地

 大山神社周辺の縄文語解釈と併せてご覧下さい。


■神子屋敷(徳島県宍喰町塩深) ※湾曲する川のほとりの湿地。


■神子屋敷(宮城県刈田郡蔵王町) ※丸山のほとりの湿地。


■神子屋敷(愛媛県四国中央市新宮町新宮 ) ※湾曲する川のほとりの湿地。




■大山神社周辺の縄文語解釈
◎縄文語:「脚咋(別)」=「アッチャケ」=「対岸」
 
◎縄文語:「岸ヒタイ」=「ク・ピトィ」=「対岸の・小石河原」
◎縄文語:「成福(寺)」=「シ・オ・プッ・カ」=「山・裾の・川口の・ほとり」
※山裾の川の合流点
◎縄文語:「塩深」=「シ・オ・プッ・カ」=「山・裾の・川口の・ほとり」※山裾の川の合流点
◎縄文語:「神子屋敷」=「コ(・マ)・カ・ヤチ・ケ」=「湾曲(する・谷川)・のほとりの・泥・のところ」※湾曲した川のほとりの湿地


■大山神社周辺の縄文語解釈(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 「鷲住王」は他に例がないので根拠は希薄ですが、例証の多い天日槍や阿知使主などの例に倣って考えると、似た音の縄文語地名があったことで同じ漢字が充てられ、結びつけられて物語が創作された可能性は否定できません。筆者には「大山神社」が「十二社権現と呼ばれた」ということさえも疑わしく見えています。いずれも、よくありがちな記紀風土記の物語と同じ創作方法です。周辺地勢とも一致しています。

◎縄文語:「鷲住(王)」=「ウェィシ・サ」=「川岸の断崖・のほとり」
◎縄文語:「十二社権現」=「チゥヌ・シコッ・ケ」=「水が流れ出る・大きな谷・のところ」 




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【高知県】幡多(波多)・四万十川・松田川・宿毛・天韓襲命~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「天韓襲命/曽我山古墳」について(『高知県史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
波多の国造の古墳は、五世紀後半に造営された宿毛市平田の曽我山古墳であるといわれる。<中略>
 国造の天韓襲命についても具体的なことはわからないが、これについて太田亮氏は波多の国造天韓襲命は阿波の長(那賀・海部方面)国造となった観松彦色止命九世の孫韓背足尼との関連を考えて、「韓襲は韓背と音が似て居て同人かと思われる」といい、「思うに都佐(土佐)・波多二国はもと一国で、韓襲即ち韓背がその国造となったのが、後に二国に分れ、子孫二流に分れたのであろう。しかし、これは他に傍証すべき何物もないから疑わしい事は云う迄もない」と述べ(『姓氏家系大辞典』)、長(那賀)、我孫(阿比古)と同祖の三島溝杭の後裔で都佐国造であった小立(ひじ)足尼とも天韓襲命は同族であろうと推定している。】

×「天韓襲命と熊襲」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(天韓襲命韓背宿禰は)また、九州にいた熊襲というものとも通じるもので、新井白石が『古史通或問』でいうように、、すなわち高麗(高句麗)ということであったとすれば、熊襲の襲は新羅の原号ソ(徐)であったにちがいない。つまり、熊襲とは高句麗・新羅ということになるが、とすると、天韓襲命の韓襲とは加羅(韓)ソ(新羅)の人、ということになる。そのことは、これものちにみるように、土佐の波多(いまは幡多郡)が、ほかならぬ新羅・加羅から渡来した秦氏族の集住地であったことからもいえるように思う。】

×「幡多郡と秦氏」について(『(幡多郡)十和村史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【『高知県人名辞典』をみてみると、幡多(波多)の国造は「天韓襲命」であって、韓人の韓襲使主または秦氏の子孫とする渡来人ではなかったかとの一説を紹介している。この説が有力だとすると、幡多郡には古くから渡来人が住みつき、やがてその子孫たちがその先進技術を生かし活躍するようになったとも考えられる。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 波多国の比定地である宿毛市、四万十市周辺は、西から松田川、東から四万十川支流の中筋川の谷が内陸に入りこんだ地域です。その標高からは、流域に湿地帯が広がっていたことが容易に推察できます。周辺地名にも水辺に関係する地名が豊富に残っています。

 つまり、これまで幾度となく登場してきた公式

●「秦氏が活躍する場所」=「水辺」

 がこの地域でも成立することになります。縄文語由来の地名ですから、高確率で秦氏の活躍はこじつけということになります。

◎縄文語:「幡多/波多/秦氏/服部/機織り」=「ハッタ」=「淵、水が深くよどんだところ」

 西の「松田川」と東の「四万十川」は、それぞれの入り江の大きさの対比表現となっています。

◎縄文語:「四万十(川)」=「シ・マーテュ」=「大きな・波打ち際」
◎縄文語:「松田(川)」=「マーテュ・タ」=「波打ち際・の方」
◎縄文語:「宿毛」=「シ・モィ」=「山の・入り江」


■波多国周辺の地形(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)※西に松田川、東に四万十川の大きな入り江。


■波多国造の墳墓とされる曽我古墳周辺の縄文語解釈
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)※水辺の解釈が豊富。



 「天韓襲命」と「韓背宿禰」が「熊襲」と通じるなどという説は笑い話にもなりません。

◎縄文語:「(天)韓襲/韓背(宿禰)」=「カ・ウシ」=「曲がっている・もの」※曲がっている谷、川、山
◎縄文語:「曽我山(古墳)」=「サ・カ・ヤマ」=「湿地・のほとりの・山」

 ほか、周辺地名も水辺関連の解釈が可能です。

◎縄文語:「戸内」=「ト・ウテュ」=「湖沼の・間」
◎縄文語:「徳師」=「ト・クッチャ」=「湖沼の・入口」
◎縄文語:「清水」=「シ・メ・チャ」=「大きな・泉の・岸」
◎縄文語:「有岡」=「ア・オ」=「一方の・窪地」
◎縄文語:「車岡」=「キマ・オ」=「山の・谷水の・窪地」
◎縄文語:「芳奈」=「ヤチ・ナ」=「泥の・方」
◎縄文語:「中筋川」=「ナィ・カ・テューテュ」=「川・のほとりの・出崎」


 長国の国造であった「韓背宿禰」は「天韓襲命」と同じ縄文語が語源と思われます。しかし、それぞれ拠点とした地域の地勢をみると、「韓背宿禰」は「丸山(曲がったもの)」、「天韓襲命」は「曲がった谷」と解釈が分れます。いずれにしても熊襲はまったく関係ありません。


■長国国造の韓背宿禰を祀る八鉾神社正面(徳島県阿南市長生町) ※丸山



 熊襲を朝鮮半島の高句麗、新羅と結びつけるなど、牽強付会の最たるものです。

◎縄文語:「熊襲」
=「クマ・ウシ」=「横に平べったい・もの」

or「クマ・シ」=「横に平べったい・山」

 としか考えられません。


■熊襲国の比定地、肥後国球磨郡(熊本県人吉市。球磨川上流域)※横に平べったい山。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【高知県】秦泉寺・愛宕山・久万~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「秦泉寺」について(『秦泉寺廃寺』調査報告 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【秦泉寺廃寺付近を中心に、北秦泉寺・東秦泉寺・中秦泉寺・西秦泉寺・南秦泉寺があり、西秦泉寺の西に宇津野地区がある。これらの地区を総称して秦地区と呼んでいる。この秦地区につくられた秦泉寺廃寺の前段階である、古墳自体の古墳についてみると、一二基を数えることができる。<中略>
 これら一二基の古墳は後期古墳で、内部は横穴式石室古墳である。そしてその時期は六世紀末から七世紀前半にかけてつくられたものである。このことは六世紀頃になるとこの地域で次第に開発も進められ、生産性も向上して六世紀末頃に小規模ではあるが、古墳を造営することのできる豪族が出現しはじめたことを、うかがい知ることができる。あわせて七世紀の時期をとおして秦泉寺廃寺を造営することのできる富と権力を持つ基盤が、このころから次第にはぐくまれていたことをも推察することができよう。】

×「秦泉寺と秦氏」について(wikipedia)
【創建は不詳。発掘調査では伽藍の遺構は未検出であるが、出土瓦・出土土器の様相によれば飛鳥時代末(白鳳期)の7世紀末葉頃の創建と推定される。 土佐国土佐郡では唯一の古代寺院であり、西約4キロメートルの土佐神社や土佐郡衙推定地・土佐神社とともに土佐郡の政治拠点の1つと想定される。「秦泉寺」の地名から「秦泉寺」という寺名の寺院とする説や、土佐郡では唯一の寺院であることから土佐郡衙関連寺院とする説、秦泉寺の「秦」から古代氏族の秦氏による建立とする説などが挙げられているが、現在までに詳らかとしない。
 一帯では吉弘古墳をはじめとする秦泉寺古墳群の分布によって6世紀頃からの古代豪族の存在が認められており、こうした古代豪族が寺院建立の背景になったと推定される。また古代の汀線は南約200メートルの愛宕山付近までと推定されており、愛宕山西側の入り江を港(大津・小津に対して「中津」と称された)とする水運上の要衝であったとされる。 】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 法隆寺や四天王寺をはじめ、初期の寺院名は縄文語地名に漢字を充てたものです。秦泉寺廃寺もこの例に該当します。これら寺院は渡来系のありがたそうな教えは説いても、本来の地名由来を口にすることは一切ありません。初期寺院の創作由来が上代日本語で語られるということは、必然的に北方系渡来勢力の影響があったということになります。

 例えば「四天王寺」の由来を思いだしてみてください。日本書紀には以下の内容が書かれています。

■四天王寺創建の経緯(wikipedia)
【用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現・大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。】

 しかし、実際のところは、「四天王寺」の名はその所在地の地勢を表す縄文語由来です。
 
◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。

 日本書紀には「大きな峰にある岬」の解釈が微塵も見えません。他の初期寺院についても同様です。

■主な初期寺院の縄文語解釈
◎縄文語:「薬師(寺)」=「ヤケ」=「岸の末端」※全国の薬師神社、薬師寺はほとんど川端。
◎縄文語:「法隆(寺)」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩(寺)」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。

 高知県の秦泉寺の場合も、この時代のこの地域に北方系渡来勢力の影響があったことは間違いありません。「秦泉寺」の名は「秦氏」由来ではありませんから、必然的に国衙の影響があったと考えられます。

 六~七世紀以降、大和の中枢が北方系勢力にとって変わられて以降、地方支配の体制が着々と整えられていきます。国衙、国分寺などはすべて北方系渡来勢力の影響下です。なぜなら、全国の大規模古墳名が縄文語解釈可能である一方、地方で編纂された各国風土記は縄文語地名の本来の由来を抹殺することを意図したかのような、漢字表記にこじつけたデタラメ由来で埋め尽くされているからです。

 「秦泉寺」は「じんせんじ」と読みます。

◎縄文語:「秦泉寺」=「チゥサン・チャ」=「川口の・岸」※久万川、あるいは支流の河口の岸辺

 海岸線が愛宕山近辺まで入りこんでいたので、「久万川、あるいは支流の河口の岸辺」という意味です。

 「愛宕山」は日本全国

◎縄文語:「愛宕(山)」=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山 or 尾根の先端の山」

 の意です。

 秦泉寺地区の西方には「久万山(くまやま)」があり「久万」の地名があります。これは地名や神社名によくある「熊」と同義です。同地区にはちょうど「松熊神社」があります。

◎縄文語:「久万山」=「クマ・ヤマ」=「横に平べったい・山」
◎縄文語:「松熊(神社)」=「マーテュ・クマ」=「波打ち際の・横に平べったい山」


■秦泉寺周辺の縄文語解釈(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■久万地区の久万山 ※横に平べったい山。

■和歌山熊野本宮大社周辺。「クマ・ノッ=横に平べったい・岬」 ※熊野本宮大社から見て熊野川対岸。   
■出雲國一之宮 熊野大社後背の山 ※「クマ・ノッ=横に平べったい・岬」

■奈良県明日香村檜前地区(於美阿志神社北方の見晴らしの丘) ※「ペナ・クマ =川上の・横に平べったい山」   
■ 日前神宮周辺(和歌山市東部) 「ペナ・クマ =川上の・横に平べったい山」



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【高知県】曽我山古墳・朝倉古墳・小蓮古墳・明見古墳~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「曽我山古墳/朝倉古墳/小蓮古墳/明見古墳」について(『高知県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【農業を主といする生活は、人びとのあいだに貧富の差を生み、支配者=豪族があらわれた。かれらはやがて大和朝廷の支配下にはいり、都佐と波多の二地域にまとめられ、それぞれに国造がおかれた。
 宿毛市平田にある曽我山古墳は、五世紀なかばころの羨道と考えられる県下唯一の前方後円墳で、波多国造のものではないかといわれている。高知市の朝倉古墳、南国市丘豊の小蓮古墳、同市の明見古墳をはじめとする多くの古墳は、土佐・長岡・香美各郡の県中央部に集中してつくられており、その年代も六世紀から七世紀にかけてのものだ。】

○「曽我山古墳」について(『宿毛市の文化財』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
自然の丘陵の上に築造した前方後円墳で、推定の長さ一一〇メートルもあった大きなものであったが、平田中学校を建築する際に大部分除けられ、わずかに残っていた後円部の一部も土木業者の手で除けられた。
 五世紀のもので、墓の主は波多国造であろう。県下最大の古墳である。鏡、剣などが出土したが、これは別に文化財として指定している。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 再掲となりますが、曽我山古墳の縄文語解釈は以下です。五世紀築造ですから、南方系先住民の墳墓である可能性が高いと言えます。ただし、古墳名は地名由来か、古墳の地勢由来か不明です。

◎縄文語:「曽我山(古墳)」=「サ・カ・ヤマ」=「湿地・のほとりの・山」


■波多国造の墳墓とされる曽我古墳周辺の縄文語解釈
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)※水辺の解釈が豊富。



 ちなみに古代豪族の蘇我氏も同語源と考えています。

◎縄文語:「蘇我/曽我」=「サ・カ」=「湿原の・ほとり」(曽我川の岸)

 曽我川近隣地名。

◎縄文語:「真菅(ますが)」=「マサカ」=「浜の草原の上」(曽我町周辺、曽我川の岸)
◎縄文語:「真菅(ますげ)」=「マサ・ケ」=「浜の草原・のところ」(曽我町周辺、曽我川の岸)

 蘇我氏が歴史に登場し始める頃の人物は、拠点とした橿原市曽我町付近の縄文語地名を名前にしている可能性があります。

◎縄文語:「(蘇我)満智」=「マ・チャ」=「谷川の・岸」(曽我川の岸)
◎縄文語:「(蘇我)韓子」=「カ・コッ」=「回る、巻く・沢、谷」(曲がる曽我川)
◎縄文語:「(蘇我)高麗」=「コ・マ」=「湾曲する・谷川」 (曲がる曽我川)
◎縄文語:「(蘇我)馬背」=「マサ」=「浜の草原」(曽我川の岸)※蘇我高麗の別名

 つまり、「曲がっている曽我川」の岸辺を指していると考えられます。「高麗」「韓子」の漢字表記から朝鮮半島と結びつけることに理はありません。


■橿原市曽我町 ※曽我川が湾曲。




 閑話休題。高知に戻ります。
 「朝倉古墳」「小蓮古墳」「明見古墳」も縄文語解釈してみます。いずれも地勢と一致していますが、すべて地名由来と考えられます。

◎縄文語:「朝倉(古墳)」=「アッチャケ・ラ」=「対岸の・低地」※所在地名「朝倉」由来。鏡川対岸の意。
◎縄文語:「小蓮(古墳)」=「カパ・シ」=「薄っぺらな・山」※所在地名由来
◎縄文語:「明見(古墳)」=「ムィ・オ・キ」=「頂が・たくさんある・山」 ※所在地名由来

 「明見古墳」とよくある「妙見神社」は同語源です。地名由来に北辰信仰(北極星、北斗七星)は関係ありません。古代人によるこじつけ創作です。「妙義山」「妙高山」は類似語源です。


■朝倉古墳 ※朝倉地区に築造。鏡川対岸。


■小蓮古墳遠景 ※小蓮地区丘陵(薄っぺらな山)に築造。


■明見彦山古墳遠景 ※頂がたくさんある山。
■日本三大妙見/能勢妙見山(妙見宗総本山 本瀧寺/大阪府)の山並み ※頂がたくさんある山。

■日本三大妙見/八代神社(妙見宮)後背の山並み ※頂がたくさんある山。

■妙見宮のあった防府市下右田の右田ヶ岳(中央) ※頂がたくさんある山。片山は右田ヶ岳の西南麓(山の左側)。

■妙見信仰の金輪神社(山口県下松市)後背の大谷山、茶臼山、鷲津山の山並み。※頂がたくさんある山。

■岸津妙見社」(防府市国衙町)後背の山。※頂がたくさんある山。 
妙義山(群馬県)※頂たたくさんある山。
Mt. Myogi 2
妙高山遠景(新潟県) ※「ムィ・オ・コッ=頂が・たくさんある・窪地」 


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【高知県】浦島伝説・土佐清水立石氏・宿毛市赤亀山延光寺(亀鶴山宝光寺)・眼洗い井戸・薬師如来像~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「浦島伝説」について(『土佐の海(あま)びと史話/亀に乗って来た海人族』広谷喜十郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
浦島太郎の背中にまたがって、竜宮城から陸の世界へ帰って来たおとぎ話は有名である。土佐清水市立石では、村の草創者立石氏は九州の筑紫国からの背に乗ってきて、この集落に落ち着いたと云い伝えられている。そして代々、立石池の家紋を亀甲としている。・・・・・・
 また、沖本白水氏の「とさおきのしま」によると、「いと遠き世、亀に乗り渡り来し人あり、浜田一統の祖といい、この家の人、今も亀の肉を食わず」と紹介されている。
 土佐の海岸地帯には、亀に乗って来た海人族の伝承や亀にまつわる多くの伝承が語り継がれているので、は土佐に住む海人族にとって海のシンボル的な存在だったといえよう。】

△「亀と秦氏」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
古代朝鮮の神話にもよくでてくるものであるが、そのような伝承・説話が波多国に集住していた秦(波多)氏は北九州からひろがって来たものとする私の考えと関係があるのかどうか、それはよくわからないというよりほかない。しかしよくはわからないけれども、無関係ではなかったであろうと私は思う。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「亀」=「コ」=「湾曲したもの(丸山)」
◎縄文語:「浦島太郎」=「ウ・サマ・タオ」=「丘・のほとりの・水際の高所」

 土佐周辺に浦島伝説が多いのは、単に海際に「丸山」や「丘」が多いからかもしれません。であれば、「浦島太郎」は記紀風土記の地名由来潭などと同様に、縄文語地名の漢字表記から生まれた創作物語だたったということになります。「海人のシンボル」などではなく、「北方系渡来人による縄文文化抹殺のシンボル」だった可能性があるということです。

 そして、『日本の中の朝鮮文化』にある「古代朝鮮の神話にもよくでてくる」のが本当であれば、日本の浦島太郎伝説の出所もおおよそ見当がつくというものです。少なくとも縄文語を使う南方系日本先住民のものではないのですから。

 「波多=秦氏」ではないことは何度も解説しています。「秦/服部/機織り=ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」で、秦氏の活躍が語られるのは”全国の水辺”です。「波多国」の場合は、”宿毛市の松田川流域と四万十川流域に挟まれた低湿地帯”を指しています。


■土佐清水市立石八幡宮 ※周辺には丸山が複数。丘のほとり。


 余談ですが、地名の「立石」は「石がごろごろした岬」の意です。立石氏の出身地とされる北九州の「筑紫」も縄文語の類義語で、岩礁の多い似た地勢です。

◎縄文語:「立石」
「タ・エテュ」=「石がごろごろした・岬」
or「タ・ウシ」=「石がごろごろした・ところ」
◎縄文語:「筑紫」 =「チクシ」=「海岸の難所」

 よって「立石氏が筑紫から来た」という物語も、縄文語の同じ地勢、同じ地名を結んで創作された可能性がないとは言い切れません。


■土佐清水市立石八幡宮 ※立石は「石がごろごろした岬」の意で石の海岸線を指す。

 □□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「赤亀山延光寺の歴史・由来」について(延光寺公式HP)
【土佐路の西南端、「修行の道場」最後の霊場である。
 現在の山号、寺名の由来にかかわる竜宮城の縁起からひも解こう。時代は平安中期、延喜11年(911)のころ、竜宮に棲んでいた赤亀が背中に銅の梵鐘を背負ってきたという。僧たちは早速これを寺に奉納して、これまでの山号、寺名を「赤亀山延光寺」に改めた。この梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれ、総高33.6㎝、口径23㎝の小柄な鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されている。
 縁起を寺の起源にもどそう。神亀元年に行基菩薩が聖武天皇(在位724〜49)の勅命を受けて、安産、厄除けを祈願して薬師如来像を彫造、これを本尊として本坊のほか十二坊を建立したのが開創とされている。当時は、薬師如来の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺名を宝光寺と呼び、また、本尊の胎内には行基菩薩が感得したという仏舎利を秘蔵したと伝えられている。
 弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間(782〜805)で、桓武天皇(在位781〜806)の勅願所として再興、日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。このとき大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が、今日に伝わる「眼洗い井戸」である。

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 「赤亀山延光寺」も創建時の「亀鶴山宝光寺」も縄文語地名由来です。「亀」や「竜宮城」はまったく関係ありません。神社仏閣は絶対に真実を語りません。すべて渡来系だからです。


◎縄文語:「赤亀山」
=「アケ・コ・ヤマ」=「片割れの・湾曲した・山」
※片割れの丸山。
or 「アカ・コ・ヤマ」=「尾根が・湾曲した・山」
※尾根が丸い山。
◎縄文語:「延光(寺)」=「エンコ」=「岬」

 「赤亀山」は延光寺後背の丸い尾根の山を指しています。


■延光寺遠景。※丸山のふもとの寺。


 創建時の「亀鶴山宝光寺」は”丸山のふもとの小さな水源”を指しています。

◎縄文語:「亀鶴(山)」=「コ・チ」=「湾曲した山(丸山)の・したたり」
◎縄文語:「宝光(寺)」=「ポン・コッ」=「小さな・沢、窪地」
◎縄文語:「眼洗い井戸」=「モ・ア・エト」=「小さな・一方の・水源」

 これらは単に「丸山の小さな沢、水源」を指しているので、「眼洗い井戸」が”眼病に効く”などという特別な御利益があるかどうかはまったく不明です。

 「薬師如来像」にしても、出所は単なる縄文語地名の漢字表記で、それに渡来系のありがたい仏様の由緒を便乗させただけのものです。「安産、厄除け」とはまったく無関係です。

◎縄文語:「薬師」=「ヤ・ケ」=「陸岸の・末端」※岸辺

 全国の「薬師寺」は岸辺にあります。延光寺の場合は、「水源の岸辺」の意です。

 京都の伏見稲荷の眷属とされる「狐」は「クテュニン=岩崖(稲荷山山頂の地勢)」の意ですが、これにも”お揚げ”をお供えする習わしが千年以上続いています。神社仏閣とはこういうものです。


■眼洗い井戸(延光寺)



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【高知県】長宗我部氏・香宗我部・長岡郡・秦氏酒造神・松尾山古城八幡宮・三輪大明神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
△「長宗我部氏」について(『郷土資料辞典』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【帰化人秦氏の子孫と伝えられる長宗我部氏は、鎌倉時代初期に秦能俊(はたよしとし)が信濃国から土佐へ移り、長岡郡宗部郷(南国市)を領有し、長宗我部氏を名のったのに始まる。】

△「長宗我部氏」について(wikipedia)
能俊は土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷、現・南国市岡豊町・国分周辺)に定住したため宗我部氏を自称したが、近隣の香美郡にも宗我郷(宗我部郷、現・香南市赤岡町・吉川町周辺)があって宗我部氏を名乗る一族がいたため、長岡郡の宗我部氏は長宗我部とし、香美郡宗我部氏は「香宗我部」を名乗って互いを区別したと言われる。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■
 繰り返し述べているように、秦氏の「秦」は縄文語の「ハッタ=淵、水が深くよどんだところ」の地勢に充てられた漢字で、秦氏が活躍するのは日本全国の「水辺」と決まっています。

◎縄文語:「秦」=「ハッタ」=「淵、水が深くよどんだところ」

 「秦氏に治水技術があった」とされるのも、桂川の治水工事を代表例として全国の「ハタ(秦、波多等)」を冠する地域に敷衍して同種の事例を当てはめた結果導き出された理屈です。それが実際に秦氏の業績だったかどうかは、根拠が希薄すぎて断定はできません。
 治水工事が必要な場所には必ず「ハッタ=淵、水が深くよどんだところ」があります。それが「秦」等の字を冠する地名となり、”秦氏の活躍物語”に結びつけられたのが実情だと考えられます。

 秦能俊を祖先とする「長宗我部氏」の場合をみてみます。
 秦能俊が土着したのは「宗部郷」です。

◎縄文語:「宗部(郷)」=「サ・カ・ウン・ぺ」=「湿地・のほとり・にある・ところ」

 の意です。蘇我氏が拠点とした奈良県橿原市の「曽我町」、曽我川のほとりと同源です。

 通説ではこの「宗部郷」に拠点とした「長岡郡」の「長」をつけて「長宗我部」となったということですが、どうも嘘くさいです。このような漢字表記こじつけ説が真実を語ることは極めて稀なことです。「ちょうそかべ」と「ながおかぐん」で読みも異なります。

 「長岡郡」は国分川下流域の東岸で、西岸には「秦泉寺(じんせんじ)」地区があります。 「秦泉寺」地区には古代寺院跡がありますが、これが「秦泉寺」という名称だったかどうかは定かではありません。

◎縄文語:「長宗我部」=「チゥサン・カ・ウン・ぺ」=「川口・のほとり・にある・ところ」 ※国分川河口のところ
◎縄文語:「秦泉寺」=「チゥサン・チャ」=「川口の・岸」※久万川、あるいは支流の河口の岸辺

 古代の国分川河口は、海岸線が久万川の分岐点を越えて入りこんでいました。つまり、「長岡郡」も「秦泉寺」地区もともに、「河口」だったということになります。

 ちなみに「長岡郡」と、長宗我部氏の氏神的存在である「岡豊(おこう)八幡宮」の解釈は次のとおりです。

◎縄文語:「長岡(郡)」=「ナィ・カ・オ」=「川・岸の・窪地」
◎縄文語:「岡豊/八幡(宮)」=「オコッ/ペッチャ」=「沢/川端」


 また、対比で引用される「香美郡」の「香宗我部」。こちらも「宗我部」に香美郡の「香」を頭につけたと言われていますが、同様に「かがみ」と「こうそかべ」で読みが異なります。

◎縄文語:「宗我(郷)」=「サ・カ」=「湿地・のほとり」

 この地域を貫流するのは「香宗川」です。

◎縄文語:「香宗(川)」
「コッチャ」=「谷の入口」
or「コッ・チャ」=「窪地、谷の・岸」

 とすると、「香宗我部」も同様に、

◎縄文語:「香宗我部」=「コッチャ・カ・ウン・ぺ」=「谷の入口の・ほとり・にある・ところ」

 と解釈することが可能となります。

 日本全国いたるところに「水辺」があります。それをすべて「秦氏」に結びつければ、必然的に日本最大級の巨大氏族となり、その活躍はめざましいものとなります。本当に馬鹿馬鹿しい。


■長宗我部と香宗我部の拠点周辺の縄文語解釈 ※湿地の河口。谷の入口。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 少々話がそれますが、香宗我部が拠点とした「香美郡」の「カガミ」は日本全国「弓の形の山」の意です。

◎縄文語:「カガミ」 =「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」

 もちろん土佐国「香美郡」にも「弓の形の山」があります。岐阜県の各務原の景色にそっくりです。


■高知県香南市香我美町の山並み ※弓の形の山。


岐阜県各務原(かかみはら) ※弓の形の山。



■他地域の「カガミ」を冠する地名 ※いずれも弓の形の山。
鏡山(豊前国)(香春岳/福岡県田川郡香春町)⇒google ストリートビュー※弓の形の山。三ノ岳別名、天香山。
・鏡渡(鏡山)(肥前国)(佐賀県唐津市鏡山)※弓の形の山。 ⇒google ストリートビュー
・鏡山(広島県東広島市)※鏡山には大内氏の鏡山城跡があります。 ⇒google ストリートビュー
・加賀美(旧加々美荘/山梨県) ⇒google ストリートビュー
鏡坂(豊後国)(大分県日田市上野)※弓の形の山。 ⇒google ストリートビュー
・鏡塚古墳(石清尾山古墳群)(香川県高松市/古墳時代前期/積石塚の双方中円墳) ※弓の形の山に築かれた古墳。⇒googleストリートビュー
・柄鏡塚古墳(福井県福井市)※弓の形の山に築かれた古墳。 ⇒googleストリートビュー

■カグヤマも類義語  ※弓の形の山。
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー


 結局、縄文語でも辻褄の合う解釈が可能なので、真相は闇の中です。ただ、漢字表記で結びつけられた説にウソが多いのは、これまでご紹介したとおりです。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「酒造神」について(『土佐近世酒造史』広谷喜十郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【戦国勇者長宗我部元親の先祖が秦氏であり、しかも高知市の北部に秦泉寺という大寺が奈良時代に建立されてたことなどを考えると、松尾神社系の酒造りの技術も土佐へ移入されていたと考えてもよいのではないだろうか。なお、秦泉寺跡近くの山麓に拘置し三大名泉の一つである秦泉寺の名泉がある。さらに、独断的な推測が許されるならば、秦泉寺の里で酒造りがおこなわれ、それが土佐の一の宮である「土佐神社」などに奉納されていたかもしれない。
 現に、松尾神社が酒の神を祭っているという事実は土佐にもある。それは後述するよいうに、高知市神田にある松尾神社がそれであり、後に城下町の酒造業者が厚く信仰していた。
 しかし、この神社の縁起についてはさだかではないので、昔からあったものであるかどうかわわからない。そこで気になり、刊本『南路志 闔国之部』(上)の秦泉寺村の条をひもといてみると、「山三 松尾山 大谷山 岡田山」とあり松尾山という山があるではないか。続けて「大柳大明神 一説松尾山古城八幡宮とも云・・・・・・」と、そこには小さいながらも神社があるという。
 それに愛宕山の条に「松尾大明神三輪大明神社」とあり、ずばり酒の神を祀っている神社もみつけることができた。『高知県史考古編』で、岡本健児氏は東大寺正倉院南倉の大幡残欠の「土佐国吾川郡桑原郷戸主・・・・・・調施・・・・・・天平勝宝七歳十月・・・・・・郡司擬少无秦勝国方」という史料を紹介して、現在の吾川伊野町八田及び春野町弘岡方面が、郡司の秦氏と関係があるのではないかと推測している。それに、八田の地名はの読み方と同じなので注目される。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■
 『土佐近世酒造史』では、「松尾神社」と「酒造り」を結びつけようとする意図が感じられますが、こちらは完全な牽強付会です。「松尾山古城八幡宮」「松尾大明神三輪大明神社」、これらの名称は周辺地勢を表現した縄文語由来です。

◎縄文語:「松尾山/古城/八幡(宮)」
=「マーテュ・オ・ヤマ/コッ・チャ/ペッチャ」 =「波打ち際の・外れの・山/窪地の・ほとり/川端」


◎縄文語:「三輪(大明神社)」
=「モィ・ワ」=「入り江の・岸」
or「メ・ワ」=「泉の・岸」


 「久万川河口の入り江のほとり、岸辺」という意味です。八幡神社は日本全国「八幡=ペッチャ =川端」にあります。


 つまり、この一帯は「ハッタ=淵、水が深くよどんだところ」の地勢だと言っている訳です。これに「秦」の漢字が充てられ、めでたく秦氏一族の登場となります。

 ちなみに京都の松尾大社の「酒造神」も高確率で「酒造り」とは無関係です。「ハッタ=秦氏=機織りが得意」というような連想ゲームと同じロジックで創作されたと考えるのが妥当です。
 「酒造り」は、

◎縄文語:「酒造り」 =「サンケ・チケレ・イ」=「出崎が・崩れている・ところ」


 となります。
 これは、”松尾大社本殿背後の断層の崖”を指したものとすれば辻褄が合います。松尾大社は断層上にあります。”秦氏の酒造り”も「サンケ(出崎)」に「酒」という漢字を充てたことから生まれた創作物語の可能性が高いということです。

 そもそも、京都の松尾大社からしてこうなのですから、”酒造り”と”土佐”を”松尾神社”を介して結びつけることにはまったく根拠がないと言わざるを得ません。

 また、京都の太秦には「大酒神社」という神社もあります。秦酒公を祀る大酒神(元名大辟神)ですが、これも酒の神ではありません。

◎縄文語:「太秦」 =「ウテュ・マサ」=「間の・水辺の草原」

 
ですから、

◎縄文語:「大酒(大辟)神」 =「オオ・サ・ケ」=「大きな・浜・のところ」

 となります。
 繰り返しになりますが、縄文語と漢字は厳密なルールに則って一意に結びつけられている訳ではありません。もっといい加減に、発音が似ていれば、ルール無用で結びつけられています。よって、周辺地勢や地名と辻褄を合わせることが優先されなければなりません。


■京都松尾大社背後の断層崖



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【高知県】大将軍神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「大将軍神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【朝鮮の城隍堂(ソンハンダン)(日本の神社のようなもの)などによくみられる集落の守護神として「大将軍」を祭る神社が土佐にもいくつがあるが、<中略>
 (安芸郡芸西村には)いわれなければそれと気づかないような小さな祠があった。それでいながら前にたっている鳥居は大きく、みるとそれに「大将軍」とした額がかかっている。
 大将軍神社ではなく、ただ「大将軍」とあるのなども朝鮮のそれとよく似ていた】


■■■ 縄文語解釈 ■■■
 これまでに「将軍」を冠する古墳をいくつか見てきましたが、いずれも

◎縄文語:「将軍」 =「シ・オ・ケ(orシオケ)」=「山・裾・のところ(or山裾)」

 と解釈可能でした。「山裾」の地勢には、「将」のほか、「白」「塩」「親王」「新皇」などが充てられています。

 高知県の「大将軍神社」も同じように「山裾」の意だという先入観をもって見てみたのですが、どうやら異なるようで、周辺地勢と一致しません。
 縄文語と漢字は、厳密に一意で結びつけられてはいないということは何度か述べていますが、この「大将軍」についても当てはまるようです。

 「大将軍」を冠する神社は高知県以外にも、京都、滋賀、岐阜、九州などにありますが、次の二種の解釈が可能です。

◎縄文語:「大将軍」
=「タン・シ(・オ)・ケ」=「こちらの・山(・裾)・のところ」

or「タン・チゥ・ケ」=「こちらの・水流、水脈・のところ」

 ただし、「水辺」か「山(裾)」と言ってしまうと、日本全国どこでも当てはまるので、「大将軍」についての解釈は保留とさせていただきます。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百二十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【兵庫県】家島~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「家島」について(『にっぽん島の旅/瀬戸内海の島々』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【姫路市飾磨港の南西一八kmにある周囲一三km、最高点一三四mの島で、家島港をはさんで凹形をしている。島名の由来として『播磨国風土記』の揖保郡の条には、「人民家を作りて居りき。かれ、家島と号く」とあり、古くから瀬戸内海交通の要衝として栄えた。港のある宮、真浦の二集落は、狭い道をはさんで人家がぎっしりと並んでいる。】

○「家島」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【『瀬戸内海の島々』にはほかにまた、加藤賢三氏の「石積み船が行き交う島─家島紀行」がのっていることからもわかるように、地元では家島(えじま)といっている家島(いえしま)は、いまも安山岩や花崗岩の「石切り場」として知られている。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「家(島)」 =「イェー」=「石、溶岩」

 ”人家が多い”ので「家島」?
 こんな明らかなウソを地名由来として公に流布するのは、もうそろそろやめた方がいいと思います。

 風土記の地名由来潭はほぼすべてこのような漢字表記にこじつけたデタラメ創作物語です。もともとは縄文語地名に対する仮借の漢字表記ですから、その表記自体に意味などありません。

 この漢字表記からの連想ゲームは八百万の神の発生源ともなっています。記紀風土記、神社仏閣の由緒等、日本黎明期の歴史の多くはオヤジギャグで成立しているということです。そのオヤジギャグに日本国民は実に千年以上も欺かれ続けています。

×播磨国風土記:「人民家を作りて居りき。かれ、家島と号く」

 これは、言うまでもなく南方系日本先住民の言語である縄文語(アイヌ語)ではありません。このような上代日本語による解釈をする人々はどこから来たのか。それを考えれば、いろいろなことが容易に推察できるはずです。

 日本先住民から見れば、「家島」は明らかに

 ●「家島」=「石、溶岩の島」

 の意です。「石積み船が行き交う島」、安山岩や花崗岩の「石切り場」として広く知られているということですから、いずれが正しいかは火を見るより明らかです。



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◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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