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継体の不審死と磐井の乱~磐井を賊にして王朝交代は隠蔽された~騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム特別編

【 第五百七回~第五百十回】

第五百七回第五百八回第五百九回第五百十回/ 】 ※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
継体の不審死と磐井の乱~磐井を賊にして王朝交代は隠蔽された
第五百七回「【序】継体と磐井の乱と王朝交代~縄文語と上代日本語の境界線をあぶり出すための仮説~」
 古墳時代後期、六世紀初頭に即位した第二十六代継体天皇は、その即位と崩御、いずれにも特殊な事情があります。
 前代武烈天皇に後嗣がなかったため、応神天皇の五世の子孫とされる越前の男大迹王が王権に招かれて即位しました。ここに王朝交代説があるのは周知のとおりです。

 筆者が気になっているのは、一方の崩御の方です。記紀や他の古文献も含め、継体天皇の没年の記録が一貫性を欠いています。『日本書紀』には『百済本記』を引用して「天皇とその皇子らが辛亥の年(五三一年)にともに亡くなった」とあり、ここで継体の皇子、安閑・宣化と次代の欽明との間に争いがあったとする説が唱えられています。(→wikipedia 継体・欽明朝の内乱)

 筆者は大規模古墳名や天皇諡号、皇居、陵所の縄文語解釈を進めることにより、縄文語と上代日本語の境界線が六~七世紀に存在すると考えるに至りました。

 全国に点在する多くの大規模古墳の名称が縄文語(アイヌ語)解釈可能であるということは、後に上代日本語を使うことになる大和朝廷とは異なる南方系民族が周辺地域に盤踞していた可能性が高いことを示しています。
 縄文語は閉音節で終わることの多い言語である一方、上代日本語は開音節で終わる特徴を高句麗、百済王族の言語と共有しています。

 六四五年の乙巳の変において蘇我氏本宗家とともに多くの歴史書が灰燼に帰して以降、天皇諡号は縄文語解釈が不可能になり、逆に日本語で解釈ができる諡号に変化していくことになります。 
 この流れを受けて八世紀初頭に上代日本語で編纂された記紀風土記は、言うまでもなく北方系渡来人を中心とする編纂体制です。しかし、これらの中に言語が切り替わったなどという内容の記述は一切ありません。

 筆者は、記紀が欠史八代を神話に加工して邪馬台国を隠蔽していると考えています。記紀風土記の荒唐無稽な神話、地名由来潭は、ことごとく縄文語地名の仮借漢字表記を節操なく結んでこじつけ創作されたものです。この手法を鑑みれば、古文献は”為政者周辺にとって都合の悪い史実は徹底的に隠蔽する”方針で編まれている可能性が非常に高いと言えます。

 もし、継体天皇の時代周辺で権力中枢の民族が入れ替わっているとするならば、それは記紀風土記編纂者サイドにとって邪馬台国以上に隠したい史実だったのかもしれません。とすれば、当然、神話や地名由来潭と同レベル以上の創作がなされていても不思議はない訳です。
 ちょうどこの時期に起こるのが磐井の乱になります。

 磐井の乱の内容は『日本書紀』に最も詳しく書かれています。 以下要約(wikipedia抜粋)
『527年(継体天皇21年)6月3日、大和朝廷の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。この計画を知った新羅は、筑紫の筑紫国造磐井へ贈賄し、大和朝廷軍の妨害を要請した。 磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。大和朝廷では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命され、天皇から筑紫以西の統治を委任された。 528年11月11日、磐井軍と大将軍の麁鹿火率いる大和朝廷軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされている。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉を大和朝廷へ献上し、死罪を免ぜられた。 乱後の529年3月、大和朝廷(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。』

 『日本書紀』の内容を真に受けると、任那支援目的で毛野臣を遣わした継体天皇は”反新羅派”、新羅と結んで毛野臣の渡海を邪魔した磐井は”新羅派”ということになります。継体朝の”百済への任那四県割譲”や”己汶、滞沙の下賜”などを鑑みれば、継体天皇は”反新羅派=百済派”と捉えることができます。
 継体天皇のあとはその皇子である安閑、宣化天皇と続きますが、宣化天皇の時に新羅に害を加えられる任那と百済を救っていますので、変わらず”反新羅派=百済派”だったとことがうかがえます。

 もし、継体・欽明朝の内乱が実際に起こり、安閑・宣化らと欽明一派が対立したとするのであれば、”百済派”だった継体天皇の流れを汲む宣化天皇が、これまた百済と懇意だった同じ”百済派”の欽明天皇と対立したということになります。そしてのち、王権中枢の使用言語が南方系(倭人、朝鮮半島南部、東夷南蛮)の縄文語から北方系(百済王族、高句麗の扶余系)の言語である上代日本語に切り替わっていくことになるのです。ここに大きな矛盾を感じないでしょうか。

 余談ですが、新羅に敗れた南加羅(ありひしのから)と喙己呑(とくとこん)は、縄文語では同義ともとれるので、同一地域の別名だった可能性があります。

◎縄文語:「南加羅(ありひしのから)」=「ア・ピッチェイ・カ・ウン・ラ」=「一方の・はげ山の・ほとり・にある・低地」
◎縄文語:「喙己呑(とくとこん)」=「ト・タ・コッ」=「突起物・の方にある・窪地」

 東夷南蛮でさえ縄文語圏なのですから、日本への経由地である朝鮮半島南部にも同様の痕跡が見られるのは当然のことです。

 磐井の乱の発生には、同時代の朝鮮半島の情勢が密接に関係していると考えられています。
 四七五年、百済の都は、高句麗に侵略された漢城(現在のソウル)から、南方の熊津(現在の公州市)に移されています。その後、百済は失った領地の代替として、朝鮮半島南西部の栄山江流域や大加耶地域への進出を企図しました。
 ちょうど時を合わせるように、朝鮮半島の南西部を中心に前方後円墳などの倭系古墳が多数築造されていきます。周辺の在地古墳には北部九州地域の埋葬施設も取り入れられます。

 これら倭系古墳の被葬者について、学会では大きく分けて”在地首長”と”倭人”の二つの説が唱えられています。

◎朝鮮半島倭系古墳の被葬者について(『筑紫君磐井と「磐井の乱」』柳沢一男 新泉社)
「被葬者については倭人説在地首長説がある。在地首長説には論旨に多少の違いがあるけれども、百済領有化に抵抗する栄山江流域の在地首長が、倭の勢力との連携をビジュアルに示すために前方後円墳を築造したとする見解でほぼ共通する。なお、日本列島に移住した栄山流域首長が帰国して前方後円墳を築造したという見解もある。
 これに対して倭人説はじつに多様だ。おもな見解だけでも、栄山江流域の百済の編成(領有)過程に百済王権から覇権された倭系の臣下(山尾幸久さん)、百済領有化段階に在地勢力の牽制や大加耶攻略のために百済から派遣された九州中北部勢力出身の倭系官人(朴天秀さん)、百済への軍事支援のため倭王権から派遣された九州中北部首長(福永伸哉さん)、先進文物・技術・情報入手のため派遣された九州の諸勢力(洪潽植さん)、ヤマト王権の意思とは別に政治的拡張をめざして半島南部勢力と連合関係を結んだ九州勢力(和田晴吾さん)、などがある。
 かつてわたしは在地首長説をとったが、これらの諸説に接して改めて栄山江流域の動向を見直した結果、朴さんや福永さん、和田さんに近い理解にいたった。」

 筆者の見解はいずれの説とも異なります。前述の通り、筆者は継体天皇から欽明天皇への流れに強い疑いの目を持っています。

◆”北方百済派の継体天皇とその皇子” → 継体天皇と皇子の不審死 → ”北方百済派の欽明天皇” → のち、王権の使用言語が南方系の縄文語から北方系上代日本語に変化

 この流れに不自然さを感じない訳にはいきません。

 これを仮に「継体天皇=新羅派」とすると、どうなるか。上記、倭系古墳被葬者の「在地首長説」を読み替えてみます。

《朝鮮半島南西部、栄山江流域継体期に築かれた倭系古墳は、南下政策を採る百済に対抗する在地首長を支援するために継体天皇を主体とする勢力から派遣された倭人の墳墓である。在地首長は、倭人と同系の南方系先住民言語(縄文語、アイヌ語)も共有している。九州由来の埋葬施設や副葬品が倭系古墳や在地墳墓から発見されるのは、磐井を代表とする九州勢力が支援にあたったことを示している。》

 継体天皇の即位前の拠点であった越前の古墳には、九州系の舟形石棺や石屋形が採用され、また、継体天皇の墳墓とされる今城塚古墳の埋葬施設の一つにも肥後産出の馬門ピンク石の石棺が採用されています。
 九州産の石材が採用される古墳は限られているので、友好関係にあったものと考えられています。

 また、継体天皇が倒れた後の六世紀の出雲では、大規模古墳が意宇平野に突然集中して築かれるようになり、埋葬施設には肥後宇土地方の石棺式石室が取入れられます。これは九州と出雲が手を結んで地方支配を進めるヤマトに対抗したものと考えられています。出雲系の舟形石棺は越前でも見られます。

 そしてさらに、肥後の隣国、日向の大規模古墳の名称も軒並み南方系言語である縄文語での解釈が可能です。以下、代表例。

◎縄文語:「男狭穂塚」=「オ・サン・ポ・テュ」=「尻の・出崎が・小さいものの・小山」※宮崎西都原古墳群
◎縄文語:「女狭穂塚」=「ムィ・サン・ポ・テュ」=「頭の・出崎が・小さいものの・小山」※宮崎西都原古墳群
◎縄文語:「弥吾郎塚」=「ヤウンク・テュ」=「本国人の・小山」※宮崎新田原古墳群

 宮崎新田原古墳群の「弥吾郎塚」の被葬者と目される弥吾郎は宮崎、鹿児島に伝わる巨人伝説ですが、七二〇年の隼人の反乱を率いた人物だったという説もあります。
 そして九州と手を結んでいた出雲は、

◎縄文語:「八雲立つ」=「ヤウンク・モィ・テューテュ」=「本国人の・入り江の・出崎」
◎縄文語:「出雲」=「エテュ・モィ」=「岬の・入り江」
◎縄文語:「投馬」=「テュー・モィ」=「岬の・入り江」

 と解釈可能です。「八束水臣津野命が八雲立つと言った~」というような地名由来潭は、すべての『風土記』に共通する縄文語地名の仮借漢字表記にこじつけた創作です。

 これらを総合して考えると、少なくとも、越前、九州、出雲、朝鮮半島南西部、これら地域の南方系民族が手を結んでいた可能性が浮上します。新羅も閉音節で終わる言語ですから、縄文語の可能性が高い。
 そして、隼人の反乱や出雲の大規模古墳の意宇平野への集中を考慮すれば、縄文語の南方系民族が北方系のヤマトと対立していたという構図が見えてきます。
 後年、ヤマトは任那と百済の復活に執着します。

 ということは、つまり、

【南方系】越前・九州・出雲・朝鮮半島南西部・新羅 VS 【北方系】ヤマト・任那・百済

 ということではなかったかということです。

 日本全国、大規模古墳の名称は縄文語解釈可能で、必然的に周辺地域一帯には南方系民族が盤踞していたことを示しています。大規模古墳を築造する労力を鑑みれば、それが大きな集団であったことは明らかです。
 一方、滋賀や和歌山などの群集墳から大量に出土する馬具は、多くの北方系渡来人が土着していたことを物語っています。
 上記対立構図以外にも、南北それぞれの補完勢力があったことを想定すると、その争いがより広範囲で複雑なものであったことは想像に難くありません。

 九州北部には白村江の戦い(六六三)で敗れたヤマトが唐新羅連合軍に備えて設けたとされる朝鮮系の山城が点在しています。実はそれらは日本国内の南方系先住民に備えたものであったのかもしれません。国府を守るように設けられた吉備の鬼ノ城、讃岐の城山城もしかり。

 磐井の乱には、このような時代背景があります。
 『日本書紀』では磐井の乱は五二七~八年に起こったとされていますが、ここに年号の操作があり、実際は五三〇~一年に起ったとする説(山尾幸久)があります。
 『日本書紀』には継体天皇の没年について、『ある書』出典の”甲寅(五三四年)”と『百済本記』引用の”辛亥の年(五三一年)”の二種の記載があります。ここで継体天皇の没年が三年繰り上げられた影響で、加羅の新羅への降伏など、継体紀の『百済本記』引用の日朝関係全般にわたって同様の操作がなされいる(三品彰英)ことから、山尾氏は、磐井の乱も本来起こった五三〇~一年から五二七~八年に繰り上げられている可能性があるとし、磐井の乱と継体天皇の死を同時期として因果関係が存在するとしています。そして、磐井の乱を実際に平定したのは、継体天皇没後、そのあとを継いだ欽明天皇であるとも主張しています。

 『日本書紀』には五世紀中~後半の雄略天皇以降、百済との密なつながりが書かれています。とすれば、五世紀代のヤマト王権の中枢には百済系の人々が徐々に入りこんでいて、南方系主体であった王権の動きに影響を及ぼすようになっていったと考えられます。
 そして六世紀代、百済の南下を機に生じた百済と新羅の対立が日本にも持ち込まれた。北方系の人々が同系同族を招き入れて勢力を拡大させるためにも、自らが辿ってきた渡海ルートを守りたいと考えるのはごくごく自然なことです。逆に南方系の人々がそれを邪魔をするのもまたしかりです。
 『三国史記』の新羅本紀によれば、五世紀中、倭人はしばしば新羅を襲っていますが、継体朝以降はピタリと途絶えます。これが何を示すのでしょうか。

 筆者の仮説。
【当時の大和王権内には、”新羅派””百済派”の対立があり、”新羅派”の継体天皇が南方系先住民の磐井と組んで百済の南下を邪魔したことから、ヤマトの”百済派”がクーデターを起こし、継体天皇と磐井が滅ぼされることになった。
 もともと、北方系が強くなりすぎたヤマト王権に変革を起こすために、南方系先住民が呼び寄せたのが同系の継体天皇であり、即位の時点ですでに南北対立を胚胎していた。 】

 こうすれば、
・継体天皇と皇子の不審死
・継体天皇の陵墓、越前の古墳と九州埋葬施設の関係
・朝鮮半島の倭系古墳や在地首長の墳墓と九州埋葬施設の関係
・ヤマト王権の任那や百済への執着
・加羅諸国神話と日本神話の一致
・縄文語から上代日本語への言語の切り替わり
 など、多くの事象の辻褄が合うことになります。北方系渡来人の任那からヤマトへの道程は、神武東征神話のモチーフにもピッタリです。

 継体朝における”百済への四県割譲”や、”己汶(こもん)・帯沙(たさ)の下賜”の内容が”反百済=親新羅”の解釈と辻褄が合いませんが、五一二年のその当時、継体天皇はまだ筒城宮(現京都府京田辺市)で、五一八年の弟国宮(京都府長岡京市)を経て、五二六年にようやく磐余玉穂宮(奈良県桜井市)でヤマト入りすることになります。たとえ継体天皇の時代に起こった出来事としても、それが継体天皇の意思であったかどうかは不明です。ヤマトの”百済派”が主導した可能性があります。
 宣化朝の任那、百済支援にしてもしかりです。

 筆者は、天皇諡号の縄文語解釈から、欽明天皇の次の敏達天皇が蘇我氏と結んでヤマト王権を簒奪していると考えていて、百済とともに任那復活を画策した欽明天皇は、その諡号の不自然さから、創作された天皇ではないかと疑っています。(詳しくは『第九十二回 百済系敏達天皇で王朝交代!蘇我氏本家を滅ぼし、大化の改新は言語まで変えた!』参照)
 『日本書紀』が引く「百済三書(『百済記』『百済新撰』『百済本記』)」は百済からの亡命渡来人が編纂したとの説が有力ですが、北方系渡来人中心で編まれている『日本書紀』自体も出所は同じようなものです。必然的に『日本書紀』β群の”倭習”は、実は”百済習”だったということになります。
 継体朝、磐井の乱周辺の時代、雄略天皇から欽明天皇までの一世紀にわたり、ヤマトは一貫して”親百済”ですが、記紀風土記の編纂体制を鑑みれば、”反新羅”も含め、それらは大きく割り引いて考えなければなりません。

 百済と新羅がともに加羅諸国に触手を伸ばしたのは、加羅諸国が南方系と北方系の民族が入り交じった状態だったからです。日本国内から見ても、南北の派閥いかんにかかわらず、加羅諸国の動勢はいずれの勢力基盤にも多大な影響を及ぼすことになります。双方絶対に譲れませんでした。
 歴史の順番から考えると、加羅諸国はもともと南方系で、日本への北方系民族の渡来の拡大に従い、北方系勢力が力をつけていったと見ることができます。任那日本府はその一部で、支配地域も限定的と見るのが妥当です。

 新シリーズ『継体の不審死と磐井の乱~磐井を賊にして王朝交代は隠蔽された~』 では、上記仮説の傍証を固めるため、次回から「磐井の乱」周辺の縄文語解釈を進めます。記紀風土記が徹底的に隠している縄文語(アイヌ語)と上代日本語の境界線。それを少しずつあぶり出していきます。


継体の不審死と磐井の乱~磐井を賊にして王朝交代は隠蔽された
第五百八回「継体天皇(男大迹王)出生地、父彦主王拠点、高島郷周辺の縄文語解釈」
  男大迹王は、応神天皇の玄孫の彦主人王と垂仁天皇七世の孫の振媛の間に生まれました。出生地は近江国近江国高島郷三尾(滋賀県高島市)で、幼少期に父の彦主人王を亡くし、母の振媛の故郷である越前国高向(福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられます(『日本書紀』)。

 まずは、出生地である近江国高島郷三尾(滋賀県高島市)周辺の縄文語解釈を進めます。

◎縄文語:「三尾」=「メ・オ」=「泉の・尻、はずれ」
◎縄文語:「高島」=「ト・カ・スマ」=「湖沼・のほとりの・石」

 高島郷は琵琶湖の西岸、安曇川河口域です。

◎縄文語:「琵琶(湖)」=「ピ・ワ(・コッ)」=「石の・岸(・窪地)」
◎縄文語:「安曇(川)(あどがわ)」=「アッ・ト」=「片割れの、一方の・湖沼」

 琵琶湖は決して「ビワに似ている」というのが語源ではありません。 漢字表記に結びつけたこのような地名由来はことごとくデタラメです。日本全国、ほぼすべての地名はアイヌ語起源です。

 継体天皇の父の彦主人王(ひこぬしおう)は

◎縄文語:「彦主人(王)」=「ペンケ・ウシ」=「川上・のところ」
or「ピ・コッ・ウシ」=「石の・窪地・のところ」

 そして、継体天皇の名は男大迹王(をほどのおおきみ)、別名は彦太尊(ひこふとのみこと)です。

◎縄文語:「男大迹(王)」=「オホント」=「川口」
◎縄文語:「彦太(尊)」=「ペンケ・ペト」=「川上の・川口」
or「ピ・コッ・ペト」=「石の・窪地の・川口」

 となります。

 これらの解釈を総合すると、

◆高島郷周辺=”琵琶湖の上手にある安曇川の川口

 ということになります。


■安曇川  ※琵琶湖の上手の川。



 また、この地域の南には白鬚神社の総本宮があります。

◎縄文語:「白鬚神社」=「シ・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」

 これも地勢と完全に一致しています。主祭神の「猿田彦」も

◎縄文語:「猿田彦」
=「サ・タ・ピ・ケ」=「湿地・の方にある・石・のところ」
=琵琶湖の岸辺の石
or「サ・タ・ピケゥ」=「湿地・の方にある・小石」

 で、琵琶湖の岸辺を指しただけなので、天孫ニニギを導く力があったかどうかはまったく分かりません。髭が生えているかどうかも、新羅系かどうかもまったく不明です。漢字表記にこじつけた他の物語もことごとくデタラメですから、推して知るべしです。日本神話は漢字表記からの正攻法で解読することはできません。

 次回は周辺古墳の縄文語解釈を進めます。


継体の不審死と磐井の乱~磐井を賊にして王朝交代は隠蔽された
第五百九回「高島郷の鴨稲荷山古墳の縄文語解釈」
  継体天皇の出生地、父の彦主人王の拠点である高島郷の代表的な古墳と言えば、鴨稲荷山古墳です。もともと稲荷を祀っていた塚でしたが、1902年、道路工事の際に家形石棺が発見されました。

■鴨稲荷山古墳
・築造:六世紀前半
・形状:前方後円墳
・規模:墳丘長50m
・埋葬施設:刳抜式家形石棺  ※奈良、大阪県境の二条山産出
・被葬者(推定):三尾君首長 、継体天皇の親族
・副葬品:金銅冠、沓、魚佩、金製耳飾、鏡、玉類、環頭大刀、鹿装大刀、刀子、鉄斧 ※新羅王陵の出土品と類似
 

 「鴨」は地名で、宿鴨村の一地域でした。鴨川が流れているところから、この「鴨」が「鴨川」由来の名であることが分かります。

◎縄文語:「鴨/稲荷山(古墳)」=「コ・マ/イナゥ・リ・ヤマ」=「湾曲する・谷川/幣の・高台の・山」
※湾曲する川のほとりの高台の祭場の山


■鴨稲荷山古墳 ※湾曲する鴨川沿いの高台の祭場。 

 「鴨/賀茂/加茂」は、「高麗、狛、蒲生」などと同じように「コ・マ=湾曲する・谷川」 あるいは「コ=湾曲するもの(丸山)」に頻繁に充てられる漢字です。

 京都の「上賀茂神社」、高麗系渡来人の活躍で名高い神奈川の「高麗山」、埼玉の「高麗神社(高麗川)」でさえも、その由緒、由来は縄文語地名の仮借漢字表記にこじつけられたものです。

 賀茂別雷神社(上賀茂神社)の社伝には「神武天皇の御代に神山(こうやま、賀茂山ともいう)の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。」とあります。
 また、上賀茂神社が祀る賀茂別雷命について『山城国風土記』には「賀茂建角身命(賀茂御祖神社の祭神)の娘の玉依姫が石川の川上から流れてきた丹塗矢と交わって賀茂別雷命が生まれた」とあります。

 次の写真(ストリートビュー)を見れば、その出所が縄文語地名の「コ=湾曲するもの(丸山)」であることがはっきりと分かります。賀茂別雷命などという神は存在しません。八百万の神のほとんどは同じ経緯で生まれていますから、大方この類いの大嘘を語ります。


■神山(上賀茂神社北方約2km) ※丸山。
■上賀茂神社(京都)背後の丸山。 


  「別雷」も

◎縄文語:「別雷」 =「ワッカ・エ・イカ ・テューテュ」=「水・そこで・越える・出崎」

 で、「川を渡るところの山」程度の意味です。

 「高麗」を冠する地で吹聴される高麗系渡来人についても同じです。「シ・オ・ケ=山・裾・のところ」の新羅系、「クッチャ=湖沼、湾などの入口」の百済系もしかり。

 つまり、渡来人の活躍を喧伝するために、縄文語地名の仮借漢字表記と結びつけられているということです。朝鮮半島南部ももともと縄文語圏で、同一地勢に同一地名が与えられているだけなので、同一地名を結びつける必要性はどこにもありません。記紀風土記にはこの類いの創作物語が満載です。


■高麗山(神奈川県) ※丸山。
■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※湾曲する川。



 「稲荷」は上記のとおり「イナゥ・リ=幣の・高台=高台の祭場」と解釈できます。稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社も、もともとは後背の「稲荷山の山頂」を指しています。かつては山頂が祭場でした。

 「お稲荷さん」がなぜ「狐」の神様なのか。それは、「狐」も「稲荷」同様に稲荷山の山頂の地勢を指した縄文語の仮借漢字表記だからです。

◎縄文語:「狐」=「クテュニン」=「岩の段々のついている崖」=稲荷山⇒写真(google画像検索)


 稲荷大社の由緒には「秦氏の祖である伊侶具云々」の物語に「山の峯に稲が生えたので社名とした」とあります。これが転じて「稲成り=五穀豊穣の神」とされているようですが、これも単なる漢字表記のこじつけです。

 稲荷大社が祀る主祭神、食物の神とされる「宇迦之御魂神(ウカノミタマ)」。これも同様に、稲荷山山頂の地勢を形容したもので、「稲荷+狐=高台の祭場+岩崖」とほぼ同義です。決して「ウカ=食物」ではありません。

◎縄文語:「宇迦之御魂神」=「ウカゥ・ウン・ミンタ」=「石が折り重なったところ・にある・祭場」

 日本全国、古墳の墳丘上に設けられた稲荷社の多くは、そこが”高台の祭場”だったことを物語っています。

 つまり、高島郷の「鴨稲荷山古墳」とは

◆「鴨稲荷山古墳」=湾曲する谷川のほとりにある、頂で祭祀が執り行われる古墳

 という意味になります。

 筆者が進めた大規模古墳の名称、中国漢代の県名の縄文語解釈の結果、東夷南蛮と倭人は南方系言語である縄文語を共有していますから、必然的にその間に位置する朝鮮半島南部も縄文語圏である可能性が高いと言えます。新羅の言語も閉音節で終わる特徴を有していますので、同じ縄文語圏とするのが妥当です。逆に開音節で終わるのが百済王族、高句麗、そして上代日本語の北方系言語です。

 「鴨稲荷山古墳」の名称が縄文語解釈可能で、かつ、副葬品が新羅王陵の出土品との類似が認められるということなので、被葬者が南方系である可能性が高いことは確かですが、それが渡来系か倭人かは不明です。言語や文化を共有する以上、朝鮮半島南部の民族と倭人を区別するのは非常に困難です。

 埋葬施設の刳抜式家形石棺が奈良、大阪県境の二条山産出ということは、築造時期の六世紀前半、ヤマト、高島郷、新羅を結ぶラインがあったということを示しています。
 被葬者が継体天皇を支えた人物あるいは、近親者ということですから、継体天皇本人も新羅派だったと考える方が得心がいきます。



継体の不審死と磐井の乱~磐井を賊にして王朝交代は隠蔽された
第五百十回「高島郷の田中王塚古墳、平ヶ崎王塚古墳の縄文語解釈」
  継体天皇の父の彦主人王の陵墓「安曇陵墓参考地」に治定されているのはの田中王塚古墳です。

■田中王塚古墳
・築造:五世紀後半
・形状:円墳または帆立貝形古墳
・規模:直径58m 高さ10m
・埋葬施設:不明
・被葬者(推定):彦主人王

 所在地は高島市安曇川町田中です。この「田中」はもちろん「田んぼの中」の意ではありません。

◎縄文語:「田中」=「タン・ナィ・カ」=「こちらの・川の・ほとり、岸」

 の意で、隣接する川との対比表現です。主従関係で言えば、「タン=こちらの」がつく方が”従”なので、小さい方の川となります。安曇川町の「田中」の場合は、主の安曇川に対して従の八田川、あるいはその支流をさしたものです。

 田中王塚古墳は安曇川町田中地区の北端の丘陵の端に位置しています。

◎縄文語:「(田中)王塚古墳」=「オ(・ウン)・テュ」=「山の尻(外れ)(・にある)・小山」

 の意で、地勢とも完全一致しますので、固有名詞の可能性が非常に高い古墳名です。

 北に接する「常磐木(ときわぎ)」地区は

◎縄文語:「常磐木」=「ト・ワ・ケ」=「突起物の・岸・のところ」※丘陵の岸辺

 で、これも丘陵の岸辺を表現したもので、どちらかと言えば、こちらの地名の方が古墳周辺の地勢と解釈が一致しています。


■田中王塚古墳 ※丘陵の先端に築かれた古墳



 高島市にはほかにも「王塚古墳」があります。田中王塚古墳の北方約10kmにある「平ヶ崎王塚古墳」です。田中王塚古墳とは墳丘規模、築造方法、築造年代に共通性があります。

■平ヶ崎王塚古墳
・築造:五世紀前半または後半
・形状:円墳
・規模:直径56m 高さ7m 周溝を含め直径約80m
・埋葬施設(推定):粘土槨または木棺直葬

 所在地名の「平ヶ崎」は「へがさき」と読みます。「平ヶ崎」は近隣の「平ヶ崎馬場」の地名を参考にすれば、「馬場=川下の岬」の言い換え表現と捉えることができます。

◎縄文語:「平ヶ崎/王塚古墳」=「ペ・カ・サン・ケ/オ(・ウン)・テュ」=「水の・ほとりの・平山、出崎/山尻(・にある)・小山」
◎縄文語:「(平ヶ崎)馬場」=「パン・パ」=「川下の・岬」



■平ヶ崎周辺の縄文語解釈(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 余談ですが、近隣に「日置」の地名があったので、ついでにご紹介します。「日置」は日本全国「新羅」と同義で、

◎縄文語:「日置/新羅」=「シ・オ・ケ」=「山・裾・のところ」

 の意です。日置氏は「山裾」を拠点にしたのが氏の由来であって、砂鉄と結びつけるのは間違いです。砂鉄が山で採れただけです。


 他地域にも「王塚」という名称の古墳がいくつかありますが、このように決して「王が埋葬されている」ことが名称の由来ではありません。

◎縄文語:「王塚古墳」=「オ(・ウン)・テュ」=「尻(・にある)・小山」

 の意で、「オ」は「川尻(川の合流点)」、あるいは「山の尻(山の外れ、山裾)」を指しています。


■能褒野王塚古墳(三重県亀山市能褒野町)四世紀末築造 ※川の合流点。ヤマトタケルの陵墓治定。

■加都王塚古墳(兵庫県朝来市和田山町加都)。※山裾。

 

 また、「王子塚」という名称の古墳も見受けられますが、これも同義です。

◎縄文語:「王子塚」=「オ・ウシ・テュ」=「尻・にある(ものの)・小山」 ※山裾、または川尻に築造された古墳

 田中王塚古墳の別名である「ウシ塚」も 「王子塚」が由来の可能性もあります。
 地名に見られる「王子」も同じです。日本全国「王子=山裾、または川尻(川の合流点)」です。

 ついでに、「親王塚」「将軍塚」も前述の「日置」「新羅」と同義で、

◎縄文語:「親王塚/将軍塚」=「シ・オ(・ケ)・テュ」=「山・尻(・のところの)・小山」

 の意です。頭に「シ=山」がついているので、「川尻」の意はなく、「山尻」限定です。 これらも決して「親王や将軍が眠っている」ことが名称由来ではありません。


 田中王塚古墳の南方約200m強のところに田中36号墳があります。こちらは直径24メートル、高さ4メートルの円墳で、六世紀後半の築造です。この古墳には九州の古墳と共通の「石屋式」の横穴式石室が採用されています。

 【序】で書いたとおり、この時期、出雲の意宇平野に集中して築かれるようになった大規模古墳には熊本宇土地方の石棺式石室が採用されていて、地方進出を企てるヤマトに協力して対抗したと見られています。
 越前の古墳にも九州系の舟形石棺、横穴式石室が採用され、さらに、遠く朝鮮半島南西部の在地首長、倭系古墳からも九州系の埋葬施設が発見されています。

 田中王塚古墳の新羅系副葬品、田中36号墳の九州系埋葬施設は、この南方系のグループに近江の高島郷も加わる可能性が高いことを示しています。

【南方系】越前・九州・出雲・朝鮮半島南西部・新羅 + 近江 VS 【北方系】ヤマト・任那・百済

 ということです。


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◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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