
【 第五百一回~第五百十回 】
第五百一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【秋田県】三湖伝説(十和田湖、田沢湖、八郎潟)、田代町・白神岳・向白神岳・白地山~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「三湖伝説」について(『秋田県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
※『秋田県の歴史散歩』の掲載文を要約。
【姥午御前神社のある八竜町芦崎では、いまでもニワトリを飼養せず、卵も食べない。神罰が当たるためである。この風習は十和田湖・八郎潟・田沢湖を舞台とした”三湖伝説”による。
おおむかし、鹿角の里の若者、八郎太郎が、友だち三人と十和田山へ働きに出て、三匹のイワナを手に入れ、帰ってきて味噌をつけて焼いてたべた。急にのどがかわき、三三昼夜にわたって水を飲んで大蛇になり、大きな湖をつくって住みついた。それが十和田湖である。
長い年月のあと、鉄の草鞋の南祖坊という僧がやってきた。紀州熊野の権現堂から鉄の草鞋の緒が切れたところに住めと告げられ、十和田湖で切れて住もうとしたが、主の八郎太郎との争いがはじまった。戦いは何年にもわたり、ついに太郎が敗けて十和田湖を後にし、山本郡と北秋田郡の境に湖をつくって住みついた。田沢湖である。
太郎に住みつかれた近くの神々は困りはて、ネズミに土手に穴をあけさせて洪水を起こし、太郎を海に追い出した。太郎は米代川から天瀬川に流れた。太郎は恩荷(おが)島と陸をつないで大きな湖をつくることを神に祈願し、お告げを得た。当地で世話になった親切な老翁と老婆に「ニワトリが鳴く声を合図に大地震が起きて大洪水になる」と知らせて立ち退かせたが、老婆が忘れものの麻糸をとりに家にもどったとたん、暁のニワトリが鳴いて大地が鳴動して湖となった。八郎は洪水の中の老婆を足でけって芦崎に上げた。老婆と老翁は離ればなれになり、老婆は老御前として芦崎に、老翁は対岸の三倉鼻に夫権現宮として祀られた。ニワトリの合図で別れたので、ニワトリが嫌われるようになった。】
荒唐無稽な伝承ですが、この伝説を読んで思いだすのは、吉備の「温羅」や諏訪大社の「タケミナカタ」の物語です。
百済王子である「温羅」は、朝鮮式山城の鬼ノ城を拠点として大和の吉備津彦と戦いました。
一方、諏訪大社の「タケミナカタ」は大国主の国譲りの際、国譲りを迫った「タケミカヅチ」との戦いに敗れ、諏訪に敗走しています。そして諏訪の神である「洩矢神」との争いに勝ち、領地を手にしました。
これら三つの物語の出所は同じです。これらは当該地の縄文語地名の仮借の漢字表記にこじつけて創作した物語です。日本神話や渡来人の活躍物語も大方この手法で創作されています。(※「温羅伝説」については第三百五十二回コラム、「諏訪大社のタケミナカタ」については第三百七一回コラムをご参照下さい。)
例えば有名どころの「因幡の白兎」や「羽衣伝説」さえ、その出所は縄文語地名です。「稲葉の白兎」の起源は鳥取県の「白兎海岸」の「シル・オ・ウン・サ・ケ=山・裾・にある・浜・のところ」、「羽衣伝説」は例外なく「パケ・ルム=岬の・頭」の地勢で語られます。ほかにも日本に語り継がれる物語の数々、例えば「浦島太郎」や「かぐや姫」「一寸法師」「金太郎」など多々ありますが、筆者はこれらも同類ではないかと疑っています。
”三湖伝説”に登場する「八郎(潟)」と「ニワトリ」ですが、これも疑いなく縄文語地名が起源で、「八郎潟」の地勢を表現した言い換え表現となっています。
◎縄文語:「八郎(潟)」 =「ポッチェイ・オロ」=「ぬかるんでどろどろした土地・のところ」
◎縄文語:「ニワトリ」 =「ニウェン・トライ」=「荒い・湖が死んだところ(湿地の水たまり)」
です。
これで「ニワトリ」を食べないというのですから、そもそもそんな風習に根拠はありません。
島根県の美保神社(松江市美保関町)にも「ニワトリ」 食べないという風習がありますが、近隣の弓ヶ浜半島ができる過程を想像してみてください。「中海」がまるで「八郎潟」と同じ地勢「ニウェン・トライ=荒い・湖が死んだところ(湿地の水たまり)」だったことが容易に推察できます。
『日本の中の朝鮮文化』では「ニワトリを食べない」という風習が鶏を神聖視する「新羅国」の文化の名残だとしていますが、閉音節で終わるとされる新羅の言語は倭人と同じ縄文語(アイヌ語)だと考えられるので、少々合点がいきません。上代日本語は百済王族、高句麗の言語と開音節で終わる特徴を特徴を共有しています。三湖物語で縄文語の「ニウェン・トライ」を日本語の「ニワトリ」に変換するところを見ると、やはり北方系渡来人中心の文化であったと考えるのが妥当です。 そこに新羅系渡来人が取り込まれたのかもしれません。
秋田に戻ります。「老婆」が祀られたという「老御前」は「芦崎」の地勢。
◎縄文語:「老御前」 =「ラン・コッ・チャ」=「上から下に下る・谷の・岸」
◎縄文語:「芦崎」 =「アッチャ・サン・ケ」=「対岸の・出崎、平山の・ところ」
「老翁」が祀られたという「夫権現宮(つまごんげんぐう)」も「三倉鼻」の地勢。
◎縄文語:「夫権現」 =「トマム・コッ・ケ」=「湿地の・谷・のところ」
◎縄文語:「三倉鼻」 =「モ・キル・パ・ナ」=「小さな・山の・頭、岬・の方」
■八郎潟の芦崎と三倉鼻 ※「湿地の水たまり(八郎潟)」「対岸の出崎、平山(芦崎)」「泉の山の頭(三倉鼻)」 。
wikipediaには「三倉鼻」の由来が次のようにあります。
×「三倉鼻」について(wikipedia)
【三倉鼻(みくらはな)とは、秋田県三種町と八郎潟町にまたがる山である。三湖伝説にまつわる伝説など、数々の伝説が語られている。三倉鼻の名前の由来は、『三倉鼻由来』によれば、八郎太郎によって助けられた夫殿は、その後長者になり3つの倉を建てたからだという。糠を捨てた場所は小山になり糠森になった。】
「糠を捨てた場所が糠森」のような、世間一般で堂々と語られる漢字表記にこじつけた通説、俗説は、記紀風土記以来すべてデタラメです。基本的に日本の地名由来はほぼすべて、縄文語地名の仮借漢字表記です。
◎縄文語:「糠森」 =「ヌプ・カ・モ・ルム」=「原野の・ほとりの・小さな・岬」
「十和田湖」「田沢湖」は湖周辺の地勢を表現したものです。
◎縄文語:「十和田湖」 =「ト・ワ・タ」=「湖の・岸・の方」
◎縄文語:「田沢湖」
=「タン・サ・ワ」=「こちらの・浜の・岸」
or「タン・チゥ・ワ」=「こちらの・水脈の・岸」
「十和田湖」の南に接する「鹿角」の地名の方が「十和田湖」周辺の地勢を見事に表現しています。
◎縄文語:「鹿角」
=「カン・チゥ・ノッ」=「上にある・水脈の・岬」
or「カン・チゥ・ナ」=「上にある・水脈・の方」
■十和田湖と鹿角 ※上にある水脈の岬
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×「田代町・白神岳・向白神岳・白地山」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【田代町はまるで、新羅神だった白髭神(少彦名之神)の町とでもいいたくなるほどであった。そこで、その「主峰である」田代岳に白髭神=新羅神を祭っている白神山地であるが、日本海に面した西端の白神岳、向白神岳はもとより、東野十和田湖に近い白地山にしても、新羅ということからきたものだったにちがいない。
ここでさきにみた、新羅と同じく鶏を神聖視し、その肉や卵を食べなかったということの付会のような「三湖伝説)を思いだしてもらいたいが、十和田湖から白神山地にかけての一体は、いつからかわからないけれども、新羅系渡来人の集住地となっていたのである。】
◎縄文語:「田代(岳)」=「タン・シル」=「こちらの・山」
田代山には頂付近に高層湿原があり、多くの池沼があります。
なぜ、ここに白髭神社がまつられているか。それは
◎縄文語:「白髭」=「シル・ペ・ケ」=「山の・水・のところ」
だからです。 山に水があることは、新羅国とはまったく関係ありません。神社が縄文語地名にこじつけて設けられたというだけです。
白髭神社、白鬚神社は、上記解釈のほか、
◎縄文語:「白髭」
=「シル・オ・ぺ・ケ」=「山・裾の・水・のところ」
or「シル・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」
or「シル・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」
などの意があります。琵琶湖の白鬚神社は「山裾の水」あるいは「山裾の石」だと捉えられます。
■田代岳の高層湿原 ※山の水のところ。

「白神岳」「向白神岳」「白地山」の解釈は次のとおり。いずれも地勢と完全一致です。
◎縄文語:「白神(岳)」 =「シル・コム」=「山の・湾曲したもの(丸山)」
◎縄文語:「向白神(岳)」 =「ムィェ・カィ・シル・コム」=「頂が・波のように折れ砕けている・山の・湾曲したもの」※頂が折れ曲がっている丸山。
◎縄文語:「白地(山)」 =「シル・オッチシ」=「山の・窪み」 ※窪みのある山 →白地山遠景(あきたマチムラ漫遊HP)
向白神岳に含まれる「向」は、「六甲山」の別名である「向津峰」と同義です。
◎縄文語:「向津(峰)」(六甲山の別名)=「ムィェ・カィ・テュ」=「山頂が・波のように折れ砕けている・峰」
◎縄文語:「六甲山」=「ルッケイ(山)」=「崩れているところ(の山)」=断層の六甲山
■白神岳 ※丸山。
■向白神岳 ※折れ曲がっている丸山。(wikipedia)

■六甲山馬の背(須磨アルプス) ※山頂が波のように折れ砕けている峰。
第五百二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【秋田、山形県】古四王神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「古四王神社」について(『秋田県市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【秋田城設置にあたり、これが守護神として四天王を祀り、四天王は仏教神であるために、当時の歴史固有の思想よりして、純粋に土地の神、すなわち地主神を併せ祀ったのが起源であろうと考えられる。この地主神は、寺内の地に古くより鎮座していたとみられる越(こし)の君を祭ったものと思う。〈中略〉
古四王の名称は越の君の越と、四天王寺の名が加わって生じたものと思われる。四天王寺は秋田城の荒廃とともにいつとはなしに衰え、鎌倉時代諸国の社寺を復興させた時に、同じく再建されたようである。】
×「古四王神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【古志は古四・腰・高志とも書かれるが、一方『朝鮮語辞典』をみると「高矢(こし)」というのがあって、それが人民に農耕の法を教えたことになっている、とある。それで朝鮮では、いまはあまりみられなくなったようであるが、農民が田んぼなどで働いていて昼食をとるときなど、まずさきに、その食物を少しとり、「コシレー(高矢礼=高矢に礼)」と言って、田んぼなどに投げあたえるのが習慣となっていた。
してみると、その古四・越・高志とは、弥生文化の稲作農耕が北陸にひろがるのとともにきた、農耕神としての高矢からきたものだったかも知れない。】
×「古四王神社」について(『古志(四)王神の信仰』月光善弘 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(川崎浩良著の『古志族の検討』によると)なぜ古志というのかと言えば、他の地域から越してきたということであって、大陸または南の島から舟に乗って出雲地方に越してきたということなのであるとし、喜田貞吉氏の所論と大筋でほぼ一致した見解を示している〈中略〉
古志族の原型は出雲地方と考えられるが、弥生期になると、信濃川の平野に同族の大集団を結成するに至った。この地方には古志郡があり、古志王神社が祀られている】
×「越」について(『伯耆・出雲の史跡めぐり』鳥取県立米子図書館編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【コシ〈越〉とは『遠い所』の意である、はるか海の向うの朝鮮を意味した(のちに朝鮮との関係が絶たれてからは、遠い所として北陸が擬され、北陸がコシノクニ(越国)だといわれるようになった)】
諸説百花繚乱の体ですが、正解は一つもありません。
なぜなら、「古四」「古志」「腰」「高志」は縄文語地名の仮借漢字表記なので、充てられた漢字は本来の意味とはまったく無関係だからです。
出雲の「古志郷」は神戸川下流域で、山間からの谷の出口です。
◎縄文語:「古志(郷)」=「コッ・チャ(orチャル)」=「谷、窪地の・岸(or入口 )」
越後の「古志郡」は長岡市の信濃川東岸周辺です。刈谷田川や猿橋川など、信濃川の支流が網の目のように走っています。
◎縄文語:「古志(郡)」=「コッ・チャ」=「谷の・岸」
そして、この地に設けられた「古志王神社」とは、
◎縄文語:「古志王(神社)」 =「コッ(・チャ)・アゥ」=「谷の(・岸の)・枝分かれ」
の意で、信濃川の支流(の岸辺)を指したものと思われます。
秋田の「古四王神社」ももちろん同義です。多くの場合は枝川の岸辺ですが、近傍の池沼を指したと思われる例もあります。「コッ」には「谷」以外に「窪地」の意味もあります。
◎縄文語:「古四王(神社)」 =「コッ(・チャ)・アゥ」=「窪地、谷の(・岸の)・枝分かれ」
その漢字表記から「四天王」と結びつけられていますが、大阪の「四天王寺」でさえ、縄文語地名の仮借漢字表記ですから、その表記を額面通り解釈することに妥当性はありません。
◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
他の初期寺社の名称も縄文語地名の仮借漢字表記です。それだけ徹底して先住民文化が上書きされたということです。
「出雲に越してきた」とか「越からきた」とか、「遠い所」「農耕習慣」などと、こじつけ解釈するのももうそろそろやめていただきたいです。この類の漢字表記こじつけ説が通説として堂々とまかり通っていて、長きにわたり日本の真実の歴史を破壊し続けています。
■主要神社仏閣の縄文語解釈
◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャム」=「川端」※全国の八幡神社の地勢。
◎縄文語:「稲荷(大社)」=「イナゥ・リク」=「幣の・高台(高台の祭場)」※稲荷山山頂の祭場。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カシ・ケ」=「その上・のところ」(高台)※奈良の春日大社の地勢。
◎縄文語:「愛宕(神社)」=「アッ・タプコプ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or尾根の先端の突起の山)」 ※全国の愛宕山の地勢。
◎縄文語:「熊野(大社)」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」 ※熊野本宮大社前の山。
◎縄文語:「白山(神社)」=「ハク・サン」=「浅い・平山、出崎」(薄っぺらな平山)※白山の地勢。全国の白山神社(から望む景色)の地勢。
◎縄文語:「薬師(寺/神社)」=「ヤ・ケシ」=「岸の・末端」(岸辺) ※奈良の薬師寺ほか、全国の薬師寺、薬師神社の地勢。
◎縄文語:「金刀比羅(神社)」=「コッチャル・ピラ」=「谷の入口の・崖」※香川象頭山の地勢。
◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レル」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩寺」=「エンコル・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。
第五百三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【宮城・山形】船形山・白髪山~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「船形山・白髪山」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【久野氏(元東京国立文化財研究所名誉研究員の久野健氏)は、船形山神社(宮城県大和町)神体のその仏像と、朝鮮の仏像との比較をおこなっているが、それはおいて、ではそのような仏像を、東北の渡来集団(あるいはその祖先)は古代朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)のうちどこからもたらしたものだったのであろうか。そのばあいひとつ参考となるのは、船形山神社のある船形山のすぐ南西にそびえる白髪山の存在ではないかと思う。
この白髪山の(しらがやま)白髪というのは、白髭と同じように新羅ということの借字であることは明らかで、そうだとすれば、船形山の仏像も、「新潟県関山神社のご神体となっている金銅菩薩立像」と同じく、新羅仏ということになるであろう。そのような新羅仏のことについては、久野氏も同書(『渡来仏の旅』)の「生きている新羅仏」のはじめに、こう書いている。「現在我が国にある新羅仏の数は正確には判らないが、小像を加えると五、六百体になるのではないかと推定している」と。】
上記「白髪山の白髪というのは、白髭と同じように新羅ということの借字であることは明らか」とありますが、違います。「白髭と同じように縄文語地名の仮借漢字表記で、それに新羅がこじつけられていることは明らか」とするのが正解です。
『日本の中の朝鮮文化』には「白髪山」に「しらがやま」のルビがありますが、正しくは「しらひげやま」です。
◎縄文語:「白髪(山)」 =「シル・パケ」=「山の・頭のところ」
「シロヒゲ」の多くは
◎縄文語:「シロヒゲ」
=「シル・オ・ぺ・ケ」=「山・裾の・水・のところ」
=「シル・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」
or「シル・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」
の解釈ですが、「白髪山」の地勢をみると、連なっている尾根の奥の「頂部」となっているので、「山の・頭のところ」とした方がふさわしいと判断できます。
縄文語と仮借の漢字表記は一意で結びつけられている訳ではありませんので、周辺地勢との一致を優先させて解釈する必要があります。
■白髪山(しらひげやま) ※尾根の頂部。
「船形山」の「船」は縄文語の「ペナ=川上」に頻繁に充てられる漢字です。
◎縄文語:「船形山」=「ペナ・カ・タ・ヤマ」=「川上の・上・にある・山」
基本的に神社はすべて渡来系ですから、ご神体が新羅系の仏像だからといって驚くに値しません。当然です。
ただし、多くの神社の由緒は上代日本語で書かれる記紀風土記と密接に連携していることから、北方系渡来人の強い影響下でもうけられたと考えるのが妥当です。
開音節で終わる上代日本語は、百済王族、高句麗と同じ系統の言語です。一方、新羅、百済庶民、倭人、東夷南蛮は閉音節で終わることの多い縄文語(アイヌ語)を共有しています。
多くの倭人、南方系の渡来人は北方系渡来人の支配下に入ったと考えられるので、神社のご神体が新羅系の仏像でもまったく不思議はありません。
第五百四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【宮城】伊達氏・色麻・塩竃~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
△「伊達氏」について(『日本史事典』高柳光寿・竹内理三 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【古くは「いだて」といった。藤原北家流。常陸〈茨城県〉伊佐荘中村に住む伊佐実宗の玄孫朝宗の時、源頼朝の奥州征伐に従事して功を立て、陸奥伊達郡を与えられ、伊達氏を称したのに始まるという。】
×「伊達氏」について(『日本地名学研究』中島利一郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(『延喜式』神名帳に「出雲国意宇郡/玉作湯神社 同社坐韓國伊太氐神社」ほか六社)とあるは、五十猛命を祭神とするものであり、なお「神名帳」紀伊国名草郡伊多祁曽神社、伊達神社も同じ性質のものである。殊に出雲地方では、皆、韓国と冠していることを見逃してはならぬ。五十猛と伊太氐との関係は、朝鮮語から考うべきことで、伊太氐は、朝鮮音を基礎として写したものであり、五十猛は日本訓によってあらわしたのである。五十猛命は、韓国曽保利神と称した。】
×「伊達氏」について(『大日本地名辞書』吉田東伍 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【伊達(イダテ)神社 延喜式色麻郡の官社にし、名神大と注せらる。蓋、色麻氏の氏神にして、播磨国飾磨郡印達郷には射楯神社がありて、古風土記に、伊太代(氐の誤植か)神というに合考すべし。奥州に、伊達、色麻の二郡あるは、共に伊太代神の氏人の遷住に因れるを悟るべし。今、四竃駅に在りて、塩竃神と誤る者、是也、香取神をも配祀す。】
「伊達」がもとは「いだて」と読んだとありますが、この謎は縄文語で簡単に解決できます。
◎縄文語:「イダテ」 =「エテュ・タ」=「岬・の方」
◎縄文語:「ダテ」 =「テュ・タ」=「峰、岬・の方」
つまり、「エテュ=テュ=岬」なので、「いだて=だて」だということです。「もともとはイダテと読んだ」という解釈自体が間違っているということです。「もともと異音同義語」で、単に縄文語によくある言い換え表現です。
漢字表記をこじつけ結んで解釈すると、上記通説、俗説のような荒唐無稽な説となります。まったく整合性がとれず、信憑性はありません。
■福島県伊達市 ※峰、岬の方。
「五十猛」を朝鮮半島系というのは、父親のスサノオ共々「新羅の曽尸茂梨」に天降ったとの内容が日本書紀に記されているからですが、この内容自体が縄文語地名の「シル・オ・ケ=山・裾・のところ」に「新羅」という仮借漢字を充てたことによる創作物語なので、”スサノオ親子が新羅系”だということをまずは疑わなければなりません。
記紀風土記はこの類の漢字表記にこじつけたデタラメ物語で満たされているので、逆にウソの証明を自ら声高に主張しているようなものです。
これら古文献の編纂体制は百済王族、高句麗と同じ開音節で終わる上代日本語の特徴を鑑みるに、北方系渡来人を中心とするものと推察できます。為政者周辺の渡来人の出自を正当化、装飾する内容が多分に含まれているのは当然のことなのです。
私見では「新羅の曽尸茂梨」は「シル・オ・ケ/シスマ・ルム」で「山裾/大石の岬」の意です。これは「大分」の「国東半島」を指していると考えています。
◎縄文語:「大分」 =「オオ・ウェン・タク」=「大きな・険阻な・石」
◎縄文語:「国東」 =「クッ・ネ・サン・ケ(orケィ)」=「崖・の・出崎・のところ(or頭)」
景行天皇が「広大な郡」だと言ったという「大分」の地名由来潭もまったくの眉唾ものですが、一応もととなったとされる「碩田」も解釈すると、
◎縄文語:「碩田」 =「オオ・ケィ・タク」=「大きな・頭の・石」
となります。スサノオの別名とも考えられる「オオワタツミ」は
◎縄文語:「オオワタツミ」 =「オオ・ウェン・タク・テュ・モィ」=「大きな・頭の・石の・岬の・入り江」
となります。
「五十猛」が祭られるのは、基本的に「山際」と決まっています。なぜなら、
◎縄文語:「五十猛」
=「エテュ・カル」=「岬の・曲がり」 ※丸山。
or「エテュ・キル」=「岬の・山」
で、縄文語地名の仮借漢字表記だからです。出雲の「韓国伊太氐神社」も額面通りの韓国系という意味ではありません。
◎縄文語:「韓国伊太氐(神社)」=「カル・カッ・ネ・エテュ・タ」=「曲がりの・形・である・岬・の方」※丸山。
出雲地方の場合は、「五十猛」=「韓国伊太氐神社」だということです。「韓国伊太氐神社」の所在地はことごとく「丸山」周辺です。詳しくは第四百八十三回をご参照下さい。
「五十猛」の別名として『日本地名学研究』に「韓国曽保利神」とありますが、「韓神曽保利神」ではないでしょうか。 「韓神曽保利神」がどの場所を表現したものか判然としないので、確度の高い縄文語解釈はできませんが、他の地名を勘案すると「韓=カル=曲がった様」と「曽保利=スオプ・オリ=断崖の・丘」の確率が高そうなので、おおよそ「断崖の丸山」あたりの解釈が妥当に思えます。
「韓神」で思いだされるのは、伊勢外宮東方にある「韓神山」です。こちらは、
◎縄文語:「韓神(山)」
=「カル・カ・ムィ」=「曲がった川の・岸の・山の頂」
or「カル・カムィ」=「曲がった川の・神」
or「カル・コム・マ」=「曲がった・湾曲した・谷川」
■韓神山 ※曲がった川の岸の山の頂。
日本の神社名に登場する「韓国」の多くは「カル・コッネ・イ=曲がり・窪んでいる・もの」の意で、「曲がった谷、窪地」を指しています。「大国主」などもこの類似の解釈です。「オオ・コッネ・ウシ=大きな・窪んでいる・ところ」で奈良盆地の磯城「シ・コッ=大きな・窪地」と捉えられます。
「五十猛」を主祭神として祀る紀伊の「伊太祁曽神社」は
◎縄文語:「伊太祁曽(神社)」=「エテュ・クッチャル」=「岬の・入口」
で現在の所在地の地勢を表現しています。
「伊太祁曽神社」はもともと 「日前宮」の場所に祀られていたと社伝にあるようですが、どうも信用できません。現在の「伊太祁曽神社」の所在地の方が「エテュ・クッチャル=岬の・入口(喉・口)」にふさわしい地形だからです。「クッチャル」の原義は「クッ=喉」「チャル=口」なので、湖沼などへの”狭まった入口”を指します。日前宮周辺は平地です。
『日本地名学研究』に「朝鮮語で考えなければならない」とあるのは半分当たっています。 なぜなら、朝鮮半島南部も縄文語(アイヌ語)圏で、東夷南蛮同様、倭人と言語を共有する南方系民族だからです。この中にあって北方系言語の特徴を有する上代日本語の方がもともと異質な存在なのです。
■日前神宮・國懸神宮周辺(国土地理院の電子地形図を加工して作成) ※参考:和歌山河川国道事務所HP

”播磨国飾磨郡の人々が奥州に移り住んだので色麻郡と名づけられている”。通説、俗説問わず、日本の歴史のいたるところに登場する漢字の発音を結びつけたこじつけ解釈ですが、こういう行為がデタラメの温床です。
実際は、飾磨郡と色麻郡は当該地の地勢を表現した縄文語地名に過ぎません。しかも、周辺地勢を鑑みるに両地方の解釈は異なります。
宮城県の「色麻」は周辺地勢を鑑みると
◎縄文語:「色麻/四かま」 =「シ・クマ」=「大きな・横に平べったい山」
と解釈するのが妥当です。「色麻町四かま」の南に接して「大衡村大瓜」という地名がありますが、これが同じ地勢の言い換え表現となっています。
◎縄文語:「大瓜」 =「オオ・ウル」=「大きな・丘」
「色麻/四かま=大瓜」です。
■四かま地区から南の大瓜方面の「大きな平山」を望む。※「大きな横に平べったい山」「大きな丘」。
■「色麻/四かま」と隣接する「大瓜」地区 ※「大きな横に平べったい山」「大きな丘」の意。
一方、兵庫県の「飾磨」は、
◎縄文語:「飾磨」 =「シ・カマ」=「大きな・平岩、岩」
です。飾磨区周辺は巨岩、巨石がゴロゴロしています。
■高岳神社 蛤岩(兵庫県姫路市)※飾磨周辺には巨岩、巨石がゴロゴロしている。
姫路城の高台の麓の「射楯神社」も単に「峰、岬」があることを表現しているに過ぎません。
◎縄文語:「射楯」 =「エテュ・タ」=「岬・の方」
奥州との地名の一致は決して人々の移動を示している訳ではありません。こういう漢字表記や似た発音を結びつけて歴史を創作する作業はいい加減やめていただきたい。
「塩竈神社」にしてもしかり。決して「四竃」を誤った訳ではありません。
◎縄文語:「塩竃」 =「シ・オク・オマ」=「大きな・窪みが・ある(ところ)」
の意で、「塩竈神社」前の”大きな谷”を指しています。「四竃」は「大きな平山」、「塩竃」は「大きな窪み」。真逆の地勢です。一緒くたにすることはできません。
■塩竈神社 ※大きな窪みがあるところ。
第五百五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【宮城】新羅の里、支倉(長谷倉、馳倉)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
△「新羅の里、支倉(長谷倉、馳倉)」について(『奥州隠れキリシタン/第一次製鉄時代』久保田玄立 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【昭和四十五年(1970)ごろのある日、突然、新羅の渡来人の子孫と名乗る人々が十五、六名、柴田郡川崎町支倉を訪れ地元民を驚かせた。目的は彼らの先祖がこの地に集団移住したことを古文書によって確かめられ、一度でいいから先祖の眠る土地を自分の目で見ておきたかったということであった。
その後、民族学関係の専門家が二、三人あいつでこの地を訪問され、始めてそのことが実証され、宿(しゅく)地区に次のような次のような標識が掲げられたのである。
△新羅の里
現在支倉の地名がついているが、古くは長谷倉とか馳倉と呼んだ。それ以前は新羅であったという。
永承六年(一〇五一)安倍頼時が、平泉によって反乱を起こして勢力を張ったので、朝廷は源頼義・義家父子に征討を命じた。前九年の役である。その時、源氏の武将、新羅三郎義光が、新羅(朝鮮)の帰化人三十七人を率いてきた。二十人は槻木の入間田に、十七人をこの地に住まわせた。
長谷倉に住んだ新羅人は優れた技術を持っていたので、砂鉄を精錬して武器と農具を作って、戦後の用に供した。それ以来、新羅の郷と呼ぶようになった。それを証明するように、ここ沼の橇をはじめ、この森一帯に金屑が見られ、何時の頃からか、この森の奥に供養碑が建てられている。
遠く故郷を望んで没した新羅の人々の冥福を祈ってやまない。
昭和五十八年十二月 川崎町教育委員会
支倉には既に鎌倉時代から新羅系製鉄技術が導入されており、金子平、白木坂などの地名にその面影を偲ばせている。更に支倉円福寺の尊像は、朝鮮で制作された塑像であるとも言われ、非常に貴重なものである。
これが当地での製鉄技術の第一期の伝承と想像されるが、その後の消息は不明である。】
支倉になぜ「新羅の郷」があるのか。それは単に「山裾」を指す縄文語地名だからです。地名由来に新羅国はまったく関係ありません。
◎縄文語:「新羅の郷」 =「シル・オ・ケ・サン・タ」=「山・裾・のところの・平山・の方」
これは「新羅の郷」の標識が立つ「宿」地区の北東に隣接する「塩沢」地区とまったくの同義です。「塩」は「新羅」同様に「シル・オ=山・裾」に頻繁に充てられる漢字です。
◎縄文語:「塩沢」 =「シル・オ・サン・ワ」=「山・裾の・平山・の方」
◎縄文語:「宿」 =「シル・ケ」=「山・のところ」
「山裾の平山」の解釈を裏づけるように「熊野神社」があります。
◎縄文語:「熊野(神社)」 =「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」
熊野神社の目の前の山、塩沢地区の山のことです。江戸期の熊野信仰の流行を除き、 「熊野神社」の多くは「横に平べったい岬」付近に設けられます。
どこの古文書に「新羅国」が関係あるような物語が書かれていたのか、また、この説を実証したという民族学の専門家の説も教えて頂きたいものです。
■熊野神社前の山 ※山裾の平山。
■「山裾の平山(シル・オ・ケ・サン・タ)」を背景に「新羅の郷」の標識 ※熊野神社の反対側から望む
■熊野本宮大社前の山 ※横に平べったい山。
金屑が発見されたとうい「沼ノ橇」もなんとも変わった地名ですが、これも縄文語解釈すれば簡単です。
◎縄文語:「沼ノ橇」 =「ヌム・ノツ・オリ」=「木の実の・岬の・丘」
ちなみに「支倉」は
◎縄文語:「支倉」 =「ポッチェ・キル」=「ぬかるんだ・山」
です。 「支倉」のこの地区は旧「富岡村」であり、「仁田子(にたご)」という地名もあります。
◎縄文語:「富岡」 =「トマム・オカ」=「湿地の・跡」
◎縄文語:「仁田子」 =「ニタ・コッ」=「湿地の・窪地、谷」
「仁田子」は支倉川がちょうど盆地から抜けるところで、両側から山が迫った狭隘な蛇行する谷となっています。水の抜けが悪い土地なので、湿地になるのも頷けます。
「支/長谷(ハセ)」は「ポッチェ(・イ)=(泥などで)どろどろした(・ところ)」、「倉」は「キル=山」に充てられることの多い漢字です。
■川崎町仁田子付近 ※湿地の窪地、谷。
この支倉地区を調べる際に「滝前不動のフジ」が目に付きました。小さな渓流沿いに「滝」があることが地名由来とされていますが、これは
◎縄文語:「滝前不動」 =「トコム・エ・ペッチャ」=「小山の・頭の・川岸」
と解釈できます。「不動明王」などは縄文語地名を上書きする常套手段です。
「四天王」も「シテュ・ウン・ノッ=大きな峰・にある・岬=上町台地」、「(穴)薬師」も「(アゥナ)ヤケシ=(隣の方の)岸の末端」ですから。初期寺社の名称はことごとく縄文語地名の仮借漢字表記です。
■滝前不動のフジ ※小山の頭の川岸。
第五百六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【宮城】槻木・入間田 【埼玉】入間・新座~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「槻木入間田」について(『宮城県地名考』菊池勝之助 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【和名抄にある柴田郡の新羅郷は、村田と川崎との中間にある支倉・菅生の地方ではなかろうかと思われていたが、この地方には未だなんらの手がかりとなる様な遺名とか史的事実が見当たらなかったのである。然るに埼玉県内の入間郡・新羅郷の調査からヒントを得て、槻木地方の入間野・入間田の地を調べた結果、恐らくこの地域であろうと推測するに至ったのである。
新羅の名称は古くは武蔵国入間地方にあり、新羅郡と称した。その後新座(にいくら)郡と呼んだようである。〈中略〉
柴田郡の新羅郷は、是等武蔵国から、更に新羅系の人々を移住せしめたものか、または直接かの国から移民して来たものであるかは明らかでないが、少なくともそれに関連するものと思われる。古史の伝える所によれば、新羅の瓦師を陸奥に配したという記録があり、それが仙台地方の古瓦(新羅瓦)の制作に関係あるともいわれている。
槻木駅付近の入間野、その北方の入間田の入間が、埼玉県の入間郡や入間川の入間と同様に、朝鮮東海の鬱陵島(うるま)すなわちその訛語「いるま」から起ったものと見られているばかりでなく、この地方の位置や地勢、そして史跡などに富む点から見て、古の新羅郷の地であろうと推定される。】
上記、武蔵国「入間」地方、朝鮮半島「新羅国」「鬱陵島」、陸奥「新羅郷」の「入間」を結んで多くの説が並んでいますが、何一つ正鵠を射てはいません。なぜなら単に漢字表記を結びつけたファンタジーだからです。
日本黎明期の歴史は、通説、俗説問わず、このようなこじつけで満たされています。そもそも漢字表記は縄文語地名の仮借なので、そこに意味を求めること自体ナンセンスです。
「新羅」が「シル・オ・ケ=山・裾・のところ」というのは何度も登場しているので置いておいて、「鬱陵島」と「入間」が同語源だという説から見てみます。
周辺地勢や発音を考慮すると、語源が異なる可能性もあります。
◎縄文語:「鬱陵島(うるま)」 =「ウル・ムィ」=「丘の・頂、頭」
「鬱陵島」は、岬や山が折り重なるような地勢です。現在名は「鬱陵(島)=ウルルン(ド)」です。
◎縄文語:「鬱陵島(うるるんど)」 =「ウル・ルム・ド」=「丘の・岬、頭の・島」
「うるま」の言い換え表現となっていることが分かります。
■鬱陵島(wikipedia) ※丘の岬の島。
■鬱陵島(wikipedia)
一方、埼玉県の入間地方は、
◎縄文語:「入間」=「イル・ムィ」=「一続きの・頂」
と解釈が可能です。発音も鬱陵島の「うるま」よりこちらの方が近いです。
埼玉県の入間は秩父山地から延びる丘陵地帯。「横に長く続いている丘陵」を指しているとすれば、地勢と完全に一致します。
東京都調布市「入間町(いりまちょう)」は武蔵野台地の境界。そして宮城県柴田郡柴田町「槻木」の「入間田」「入間野」も山地から延びる丘陵地帯です。
◎縄文語:「入間田」=「イル・ムィ・タ」=「一続きの・頂・の方」
◎縄文語:「入間野」=「イル・ムィ・ノッ」=「一続きの・頂の・岬」
また、「槻木(つきのき)」は
◎縄文語:「槻木」=「テュク・ノッケ」=「小山の・岬」
の意で、同一地勢の言い換え表現になっていることが分かります。
■埼玉県入間市周辺 ※一続きの丘陵地帯。
■東京都調布市入間町周辺 ※一続きの丘陵地帯。
■宮城県柴田郡柴田町入間田周辺(南東の丘陵先端まで入間田地区) ※一続きの丘陵地帯。
「鬱陵島」と「入間」が同語源か否かは微妙なところです。
しかしながら、はっきりとしているのは、新羅も日本も同じ縄文語(アイヌ語)圏で同一地勢に同一地名が与えられることは至極当然のことなので、似ている発音の地名を結びつけて人々の移動と解釈することに妥当性はまったくないということです。
たとえ実際に新羅系渡来人が移住していたとしても、地名由来とは無関係です。地名の漢字表記と由来創作に関わったというのであれば、可能性は否定できません。
東夷南蛮、朝鮮半島南部、そして日本全域は、縄文語(アイヌ語)圏です。中国雲南省の少数民族のイ族が日本語の一部、恐らくは縄文語由来の単語を理解できるというのはそういう理由です。
「新座郡」が「にいくら」と呼ばれたのは、どう考えても
◎縄文語:「新座」=「ニークル」=「林」
意で、「新羅=シル・オ・ケ=山or大地・裾・のところ」とは一致しません。新座郡の場合は「武蔵野台地の外れ(シル・オ・ケ=山裾、大地裾)に林(ニークル)がありました」というだけです。
このような地勢が日本国中にどのぐらいあるか数えてみて下さい。それをいちいち新羅系渡来人に結びつけることがいかに馬鹿げているか。そんなことを日本の歴史は繰り返しています。
【 第五百一回/ 第五百二回/ 第五百三回/ 第五百四回/ 第五百五回/ 第五百六回/ 】
