
【 第四百六十一回~第四百七十回 】
第四百六十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【大分県】薦神社(大貞八幡宮)・御澄池~」
×「薦神社(大貞八幡宮)・御澄池」について(『大分県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【相原の東約二キロに大貞八幡とよばれる神社がある。別名薦神社ともよび、宇佐八幡の元宮といわれている。一説によると八幡神社はヤハタの神といい、帰化人秦氏の氏神だったという。秦氏は日本に渡来後、土木技術をもって南下してきた。そして水利の不便だった下毛原(中津平野)に多くの溜池を造成して水田をひらいた。このため秦氏にとっては池は守り神でもあったので、溜池のひとつを三角(みすみ)池または御澄(みすみ)池と称してこれを内宮とし、池畔に外宮の神殿を建てた。これが薦神社で、御澄池のなかには鳥居が建てられており、水面に朱ぬりの神殿と緑の社叢がうつるさまは神々しくうつくしい。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
縄文語地名を上書きして上記のようなデタラメを語るのが神社というものです。
繰り返しになりますが、”秦氏”が活躍するのは全国の”水辺”と決まっています。
◎縄文語:「秦(氏)/機織り/服部」=「ハッタル」=「淵、水が深くよどんだところ」
日本全国の水辺の地勢を結びつけたのが秦氏の活躍となります。秦氏だけでなく、天日槍や 都怒我阿羅斯等、阿知使主など、記紀風土記に記載される渡来人の活躍物語は、このように日本国中どこにでもあるありきたりな縄文語地名の仮借の漢字表記を結びつけることによって創作されています。
よって、各地で秦氏を名乗る者達のつながりを保証するものは何もありません。血縁であるかも、渡来人であるかさえも不明です。ただ単に「ハッタル」の近くにいたので「秦」の字が充てられ、関連づけられたと考えられます。
秦氏が得意とする「機織り」についてもしかり。得意かどうかも不明です。
「八幡神」は、日本全国の「川端」で活躍します。なぜなら、その語源が、
◎縄文語:「八幡」=「ペッチャム」=「川端」
だからです。
「ヤハタ」「ヤワタ」の読みであれば、
◎縄文語: 「ヤハタ」 =「ヤン・ハッタル」=「陸岸にある・淵、水が深くよどんだところ」
◎縄文語: 「ヤワタ」 =「ヤン・ワッタル」=「陸岸にある・淵、水が深くよどんだところ」
です。縄文語(アイヌ語)では「ハッタル=ワッタル」で同じ言葉です。いずれにせよ、水辺なので秦氏も活躍する訳です。
言うまでもなく、八幡神以外の他の八百万の神についても、そのほとんどが縄文語地名の仮借漢字表記のこじつけ解釈から生まれています。
「大貞八幡」とその別名とされる「薦神社」は
◎縄文語: 「大貞(八幡)」 =「オオ・サ・タ」=「大きな・浜・の方」
◎縄文語: 「薦(神社)」 =「コッ・モィ」=「窪地の・入り江」
で、「御澄(みすみ)池」のほとりを指しています。
「御澄池」は「大貞」あるいは「薦神社」と同義で、同じ地勢の言い換え表現となっています。
◎縄文語: 「御澄(池)」
=「メム・サマ」=「泉・のほとり」
or「ムィサム」=「入り江のほとり」
本当に嘘八百の神社に神々しさを感じるのでしょうか。
■薦神社(大貞八幡宮)※水辺(御澄池)のほとりの神社。
第四百六十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【大分県】宇佐八幡・比売大神・菱形山・広幡八幡・馬城峰・御許山・秦氏・行橋市・京都郡・三毛郡・安曇神・香春~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「比売大神」について(『国東半島の歴史と民族』梅原治夫 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【宇佐の比売大神のことは、風土記逸文に「豊前国宇佐の郡。菱形山。広幡八幡(ひろはたやはた)の大神。郡家の東、馬城(まき)の峰の頂きに坐す」とある。紀の宇佐島と風土記の馬城峰とは同じ山、現在宇佐神宮の奥ノ院である御許山のことで、このお山に天降ったと伝承している。
御許山をご神体としているが、それはこの山頂に三つの巨石があり、巨石を磐境としてはじめて影向され、ここに巨石崇拝の原始信仰が生れ、宇佐の祖神となった。】
×「宇佐八幡」について(『消された邪馬台国/八幡宮の原像』安藤輝国 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【八幡宮の原像については幾つかの見方がある。それを大別すると①大陸からの渡来者が奉じた外来神で新羅の神、鍛冶の神、銅の神とする説②原始部族国家の信仰神とする説③蛇神信仰とする説──などである。
まず①の外乱神説であるが、八幡神は「ハチマン」ではなく「ヤハタ」と読む。ヤハタは「弥秦(いやはた)」がなまったもので、渡来人秦氏が祭った鍛冶、銅の神である、というもの。
秦氏といえば、豊前地域はその渡来拠点であったことが、大宝二年(七〇二)に編纂された正倉院文書の「豊前国戸籍」で明らかにされている。
それによると、豊前国の中心をなす仲津郡(現在の行橋市と京都郡)と上三毛郡(豊前市と築上郡)などで、総人口(六一一)の九三%が秦部、勝の姓をもつ秦氏系で占められている。記載されてない企救、田川、宇佐などでも、おそらく同じ傾向だったと見てよい。
このことは、八幡神が秦族の信仰神だったとみられるに充分な根拠をもつ、といってもよさそうだ。
本項の最初に紹介した『宇佐宮託宣集』のなかでも、「辛国の城に始めて八流の幡を天降して我は日本の神になった」という八幡神の託宣がある。
辛国とは、いうまでもなく古代の韓国(朝鮮)であり、八流の幡(白旗四、赤旗四の意味といわれる)は八幡─ヤハタに結びつく。そして「天降して日本の神になった」ということは、辛国(韓国)から渡来した神、ということを明言しているとも考えられるのだ。
次に②の原始部族国家の信仰神というのは、中野幡能氏の説である。
中野氏によると、原始部族国家は必ず信仰神をもっていた。たとえば宇佐、国東半島を中心とした宇佐国は「比売神」を、田河(田川)京都郡地方の豊国は「香春神」を、上毛、下毛郡地方の山国は「安曇神」を、というように。
宇佐国と山国は統合されるが、さらに、その山国は豊国を連合して山豊国となり、これが「八幡神」を祭ることになる。
八幡の名称は、ヤマトヨ─ヤマタイ─ヤバタイ─ヤバタ─ヤハタと変化して八幡(ヤハタノカミ)となった。これが八幡神の最初の原像である。
この最初の八幡神が、六世紀末、大和王朝の蘇我馬子のバックアップで宇佐在来の比売神と合体して七世紀以後の応神八幡神ができあがった。(『八幡信仰の研究』)
この中野説は、宇佐神宮のすべての古文書と、全国の神社を回って集めた史料が基本になっているだけに、学会でも高く評価されている見解である。
また③の蛇神信仰であるが、これは富来隆氏の説である。
豊後大神氏の祖に蛇神婚の伝承があることは、すでに述べた。富来氏によると、蛇神はトビ、トビノオ、トウベ、あるはナガラなどと呼ばれていたが、大神氏の勢力拠点であった祖母山麓の豊後地方には、富ノ尾、飛ノ尾、登尾といった蛇神を祭る神社が多く、古来から”憑きものの神”として恐れられていたという。
また、俗にヤアタロと呼ばれる蛇に”青大将”があるが、八幡神はヤアタロの神であり、ヤアタロがヤアタ─ヤワタ─ヤハタと転訛。さらに八幡と呼ばれるようになった。と説く。
さらに富来氏は、トビ、トベ、ナガラなどの蛇神を追跡していくうち、カリ、カル(またはコリ、コル)といった名称が、いつもトビ、ナガラにまつわりついていることを発見、それを調べていくと、カリ、カルは”カネ”の古語であり、韓語のクリ(銅)に結びついていることを突き止める。
さらに追跡していくと、八幡宇佐宮の神領地に香春採銅所があり、ここが古代にはカハルと呼ばれ、奈良・東大寺大仏の鋳造にひと役買っていたことがわかったという。(『卑弥呼』)
この香春銅山には新羅神・ 都怒我阿羅斯等の伝承があり、辛国息長大姫と豊比咩を祭る古い神社もある。ということは、大神氏の八幡神は新羅と無関係ではなく、結局、秦族が祭った①の外来神に結びついていく。
そこで、大神氏も秦氏につながる渡来者ではないか、という見方ができるが、こうなると宇佐、辛島氏の系統と同根ということになり、信仰争いをした経緯からみて割り切れないものが残る。それに大神氏は、虚空蔵寺をバックに新羅仏教を奉じた宇佐、辛島氏と異り、百済仏教の法鏡寺で大行した歴史がある。
大神氏の出自が朝鮮半島からの渡来者であることは、まず間違いない。が、新羅系か百済系か、ということになると、以上、見てきたとおり、まだ多くの謎を残しているのである。】
上記の宇佐八幡の起源は言うまでもなく、通説俗説にありがちな漢字表記をこじつけた説なので、すべて的外れです。信憑性はありません。
そもそも論として、日本の八百万の神の起源の捉え方が間違っています。多くの場合、八百万の神は渡来系や先住民がもともと信仰していた神が発生源ではありません。
神社とは北方系渡来人である為政者周辺の出自の正当化、装飾を目的として設けられたもので、そこで語られる由緒は記紀風土記と密接に連携しています。
初期神社仏閣の名称は所在地の縄文語地名由来で、周辺地勢とも完全に一致しています。しかし、日本語(上代日本語)の解釈で公に語られるそれらの由緒には、縄文語本来の意味のかけらも見当たりません。南方系先住民文化を徹底して上書きする態度で書かれています。
必然的に神社が設けられた時期は、大和が北方系渡来人の手に落ちた後ということになりますから、六~七世紀以降のこととなります。欠史八代周辺に起源があるとする神社もまれに見受けられますが、その由緒に縄文語解釈や自然崇拝がない場合は、当然眉唾物です。初期天皇の系譜に結びつけられた渡来人伝説と同類です。
当然、八百万の神もそのほとんどは縄文語地名の仮借の漢字表記にこじつけた語呂合わせが起源です。つまり、それらを正面から真面目に研究したところで、まともな解など得られる訳もなく、逆にただ歴史改竄に寄与する結果を招くことになります。
【参考】神社の縄文語解釈
◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャム」=「川端」※全国の八幡神社の地勢。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カシ・ケ」=「その上・のところ」(高台)※奈良の春日大社の地勢。
◎縄文語:「愛宕(神社)」=「アッ・タプコプ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or尾根の先端の突起の山)」 ※全国の愛宕山の地勢。
◎縄文語:「熊野(大社)」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」 ※熊野本宮大社前の山。
◎縄文語:「白山(神社)」=「ハク・サン」=「浅い・平山、出崎」(薄っぺらな平山)※白山の地勢。全国の白山神社(から望む景色)の地勢。
◎縄文語:「薬師(神社、寺)」=「ヤ・ケシ」=「岸の・末端」(岸辺) ※奈良の薬師寺ほか、全国の薬師寺、薬師神社の地勢。
◎縄文語:「金刀比羅(神社)」=「コッチャル・ピラ」=「谷の入口の・崖」※香川象頭山の地勢。
◎縄文語:「新羅神社」=「シル・オ・ケ=山・裾・のところ」
◎縄文語:「高麗神社」=「コム・マ」=「湾曲した・谷川」
【参考】初期寺院の縄文語解釈
◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レル」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩寺」=「エンコル・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。
上記の説を一つ一つ検証していきます。
まずは、これまでの何度も登場している「八幡神」から。 日本全国の八幡様は「川端」にあります。
◎縄文語:「八幡」=「ペッチャム」=「川端」
宇佐八幡境内の「菱形池」は、
◎縄文語:「菱形(池)」=「ピシ・カ・タ」=「浜・のほとり・の方」 ※浜のほとりの方の池。
で、「宇佐」とほぼ同義です。
縄文語:「宇佐」=「ウシ・ヤ」=「湾の・陸岸」
つまり「宇佐八幡」とは「湾の岸辺の川端」という意味になります。
宇佐八幡は「広幡八幡の神」と言われていますが、これでも地勢と一致します。
◎縄文語:「広幡」=「パラ・ハッタル」=「広い・淵、水が深くよどんだところ」
◎縄文語:「ヤハタ(ヤワタ)」=「ヤン・ハッタル(=ワッタル)」=「陸岸の(内陸の)・淵、水が深くよどんだところ」
「ハッタル=ワッタル」ですから、ヤハタでもヤワタでも同じ意味です。宇佐八幡境内の「菱形池」の地勢そのままを表現していることが分かります。「菱形」は山ではありません。
宇佐八幡の「比売大神」が天降ったとされる「馬城峰」の別名は「御許山」ですが、これは同じ地勢の言い換え表現となっています。
◎縄文語:「馬城(峰)」=「マク」=「奥」
◎縄文語:「御許山」=「オマン・テュ・サン」=「奥に行く・峰の・出崎、棚のような平山」
■御許山 ※奥の山。
ヒメコソ神社で祭られる「比売大神」は「泉」の解釈が可能で、宇佐八幡では境内の「菱形池」を指したと解釈できます。
しかし、御許山の頂にある巨石を考慮すれば「石の頂」の解釈も可能です。
◎縄文語:「比売(大神)」=「シムプィ」=「湧水」※宇佐八幡境内の菱形池
◎縄文語:「比売(大神)」=「ピ・ムィ」=「石の・頂」※御許山
いずれか判断がつきかねますが、両方の地名が存在した可能性もあります。
「比売大神」を祀る「ヒメコソ社」の場合は、姫島の「比売語曽社」には「拍子水温泉」が隣接し、大阪の「比売許曾神社」周辺は上町台地の湧水が有名です。
◎縄文語:「ヒメコソ」=「シムプィ・コッ」=「湧水の・窪地」
また、大阪の比売許曾神社に鎮まっているとされる「阿加流比売」、近隣の「赤留比売命神社」は、
◎縄文語:「アカルヒメ」=「アカ・ルム・シムプィ」=「なだらかな尾根の・岬の・湧水」※上町台地の湧水
と解釈できます。比売許曾神社の主祭神が下照比売命となっていることから混乱を招いていますが、「下照比売命」も上町台地を指しただけで、縄文語地名にこじつけられた神であることが分かります。
◎縄文語:「下照比売命」
=「シテュ・タ・ルム・シムプィ」=「大きな峰・にある・岬の・湧水」
or「シテュ・ウテュル・シムプィ」=「大きな峰の・間の・湧水」 ※上町台地の湧水
また、「下照」と「四天王寺」は言い換え表現ともとれます。「四天王寺」は当初、上町台地の突端、大阪城あたりにありました。
◎縄文語:「四天王(寺)」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地
これらのことから、記紀にあるような朝鮮半島の天日槍や都怒我阿羅斯等が追ってきたアカル姫は存在しないということになります。八百万の神の多くはこうして生まれています。
繰り返しになりますが、秦氏が活躍するのは、日本全国の水辺です。
◎縄文語:「秦(氏)/機織り/服部」=「ハッタル」=「淵、水が深くよどんだところ」
日本全国無数にある縄文語地名の「ハッタル」に「秦」という漢字を充てて活躍物語を語っているに過ぎません。
”池沼”の豊富な「京都郡」もそのまま「水辺」を表す地名です。「秦氏」も活躍する訳です。
◎縄文語:「京都(郡)」=「メム・ヤケ」=「泉の・岸辺」
◎縄文語:「三毛(郡)」=「メム・ケ」=「泉・のところ」
また、「トビ」「トペ」「ナガラ」は、
◎縄文語:「トビ/トベ」=「ト・ペ」=「湖沼の・上手」
◎縄文語:「ナガラ」=「ナィ・カ・ラ」=「川・岸の・低地」
と解釈可能で、これも地勢と完全に一致します。
この地名に「カラ」「カル」が結びついているのは、
◎縄文語:「カラ/カル」=「カル」=「まわる」※地形が湾曲している様。「川の蛇行」「湾」「丸山」など。
で、”湾曲する水辺”の地勢を指しているからです。地勢上、親和性の高い言葉なので、当然同じ地域に重なるようにあっても不思議はありません。他地域の「カル」「カラ」もこれまでも数多く登場しましたが、いずれも湾曲する地勢と完全に一致しています。朝鮮半島はまったく関係ありません。(※「カル」「カラ」については第四百二十一回コラムをご参照下さい。)
話を元に戻します。要するに、正倉院文書の「豊前国戸籍」にいかに「秦氏」が多かろうと、決して”秦氏が大活躍した!”ということにはならず、”池沼がたくさんありました”という意味にしかなりえないということです。それら秦氏が同族である根拠もまったくありません。あくまで八幡神は秦氏と結びついている訳ではなく、水辺の地勢と結びついているということです。
『宇佐宮託宣集』に「辛国の城に始めて八流の幡を天降して我は日本の神になった」とあるようですが、このように渡来人に都合のよい神を創作して礼賛するのが神社の基本姿勢です。
行橋市は長井浜の岬(覗山)を指したのでしょうか。この峰の西側に「馬場」の地名がありますが、これは「行橋」と同義です。
◎縄文語:「行橋(市)」=「ヤケ・パ・ウシ」=「岸辺の・岬・のところ」
◎縄文語:「覗山」=「ノッケ・ヤマ」=「岬の・山」
◎縄文語:「馬場」=「パン・パ」=「川下の・岬」
■覗山(行橋市)※岸辺の岬。川下の岬。
「勝」が朝鮮語で「村主」の意だというのが通説ですが、本当でしょうか。朝鮮半島南部も縄文語圏です。
◎縄文語:「勝/村主」=「シルクル」=「山」
秦氏と同様に解釈すれば、単に京都郡の山や行橋市の岬を指した可能性があります。
本当に「村主」の意だとすれば、筆者が欠史八代で「大夫」と解釈した「彦」と同義です。
◎縄文語:「村主/彦」=「シ・クル」=「大きな、本当の・人」
新羅も縄文語圏ですから解釈に齟齬はありませんが、しかし「新羅」は
◎縄文語:「新羅」=「シル・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
ですから、朝鮮半島でも「シルクル=山」の解釈もありえます。「山」を「村主」の比喩として用いた可能性があります。
宇佐八幡の神領地である香春採銅所周辺はすでに取り上げています。「香春(かわら)」は古代には「カハル」と呼ばれていたようです。
◎縄文語:「香春」=「カパル」=「水中の平岩」 ※香春神社前を流れる金辺川。
香春神社の祭神である「辛国息長大姫大目命」に含まれる「辛国」は「韓国」の意ではありません。「韓」は前述の「カル=まわる」に頻繁に充てられる漢字です。また、「神功皇后(気長足姫)」でもありません。単にありきたりな地勢が一致しているだけです。
◎縄文語:「辛国」=「カル・コッネイ」=「まわる、巻く・谷のところ」 ※曲がっている谷。金辺川。
◎縄文語:「息長」=「オク・ナィ・カ」=「窪んだ・川・のほとり」
◎縄文語:「気長足(姫)」 =「オク・ナィ・カ・トラィ・ウシ」=「窪んだ・川・のほとりの・湿地の水たまり・のところ」
「大神氏」も「遠賀川」も「息長」と類似語源の可能性があります。
◎縄文語:「大神/遠賀」=「オク・カ」=「窪み(川)・のほとり」
香春町には「現人神社」があり、「都怒我阿羅斯等(別名:于斯岐阿利叱智干岐)」が祀られていますが、これも単に似た地勢、同じ地名がこじつけられているだけです。「都怒我阿羅斯等」は敦賀半島の立石岬、「現人神社」は所在地の地勢を指したものに過ぎません。
◎縄文語:「現人(神社)」=「アル・シテュ」=「もう一方の・大きな岬」
◎縄文語:「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」
=「テュ・ルッケイ/アル・シテュ」=「岬が・崩れているところ/もう一方の・大きな岬」(立石岬/敦賀半島)
◎縄文語:「于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)」
=「ウシ・ケ/アル・シテュ・カプケイ」=「湾の・ところ/もう一方の・大きな岬が・禿げているところ」(立石岬/敦賀半島)
ヒメコソ社、香春神社の詳細は、騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム第四百四十一回「~【福岡】高祖神社・香春神社【大分】比売語曽神社【大阪】比売許曾神社・赤留比売命神社~」をご参照下さい。
下毛郡地方の「山国」と「安曇神」は同じ地勢の言い換え表現と捉えられます。
◎縄文語:「安曇(神)」=「アッチャ・モィ」=「対岸の・入り江」
◎縄文語:「山国」=「ヤマ・コッネ・イ」=「山の・窪んでいる・ところ」
ちょうど「山国町中摩」も類似解釈が可能です。
◎縄文語:「(山国町)中摩」=「ナィ・カ・モィ」=「川・岸の・入り江」
「アズミ」は海辺であれば、
◎縄文語:「安曇(神)」=「アテュィ・モィ」=「海の・入り江」
の解釈も考えられます。縄文語と漢字は一意で結びつけられている訳ではないので、周辺地勢との一致を優先させる必要があります。
■山国町中摩 ※「中摩=ナィ・カ・モィ=川・岸の・入り江」
第四百六十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【壱岐】触(ふれ)・カラカミ(加良香美)~」
×「触」について(『長崎県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【壱岐の農村の単位は”触(ふれ)”とよばれる。これは朝鮮語のプリ=プール(村)の意で、外来語だという説と、いまひとつは江戸時代、平戸松浦蕃が農地の地割をするさいに行政上の小単位として小字ごとに農家をまとめて触とし、藩の布達などがひとりの責任者によって触れ(達し)まわられる範囲とも考えられ、北松浦郡にみられる”免”と共通するものだという説がある。 】
△「勝本町」について(『勝本の文化財/地名のおこり』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【”勝本”の地名の発祥は、聖母(しょうも)神社のある可須浦と、 印鑰(いんにゃく)神社のある本浦とを呼びあわせた”可須本浦”のなまりとされている。
上代には”カス”と称されているが、中世以降は”風本(かざもと)”とも呼ばれたようであり、日韓の数多くの文献にその名をとどめている。】
×「カス」について(『勝本の文化財/地名のおこり』 ※『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(勝本の地名が)「上代には”カス”と称されていた」そのカスとは、中島利一郎氏の『日本地名学研究』によると、古代朝鮮語のコス(首長)ということからきたものだとある。】
△「カラカミ遺跡」について(『勝本の文化財/カラカミ遺跡』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【「加良香美」「韓神」「唐神」の文字があてられるカラカミ遺跡は、立石東触から同仲触にかけて存在する高地性の弥生遺跡で、同時代の平地遺跡である芦辺・石田両町にまたがる原ノ辻遺跡と地形的に好対照をなす。しかし出土品はほとんど同じで、弥生時代中期~後期にかけてのもの。青銅器・鉄器を多くみる。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
まず、壱岐の「触」の地名は、壱岐に「丘」の地勢が多いことに由来しています。
◎縄文語:「触」=「フル(=ウル)」=「丘」
■壱岐の景色( 壱岐市芦辺町深江南触) ※丘の多い地勢。
「勝本=可須本浦=カス=コス(古代朝鮮語)=首長」というのは単なる連想ゲームで根拠はありません。
◎縄文語:「勝(可須)/本」=「コッチャル(orコッチャ)/モ・オタ 」=「谷の入口(or窪地の岸)/小さな・砂浜」
の意で、そのまま「勝本」の地勢を表現しています。
■壱岐勝本 ※谷の入口の小さな砂浜。
日本と韓国に同じ言葉が残っているのは、いずれも縄文語(アイヌ語)圏だったからです。
「カス」は、
◎縄文語:「カス」=「上を越す、徒渉する 」
の意で、「山を越える」ところや、「川の渡河」地点を指します。
◎縄文語:「カシ」=「その上」
であれば「高台」などを指します。「春日大社=カシ・ケ=その上・のところ=高台にある神社」など。
「カラカミ遺跡」に「韓」や「唐」の漢字を充てて、いかにも渡来系だとのニュアンスを強く含ませていますが、まったく違います。
◎縄文語:「カラカミ」 =「カル・カ・ムィ 」=「曲がった川の・岸の・山の頂」
の意です。これまでも幾度となく登場していますが「カル=まわる」の意で、曲がっている地勢を表現しています。”川の曲がり”、”山の曲がり(丸山など)”です。朝鮮半島はまったく関係ありません。
伊勢の外宮の東方にはカラカミ遺跡と同名の「韓神山」があり、ご多分に漏れず”朝鮮半島系の神だ!”との説が強くありますが、これもまったく違います。「曲がった川のほとり」というだけで、壱岐のカラカミと同じ地勢です。
奈良の「軽」も高取川の曲がりを指しています。
■香良加美神社(カラカミ遺跡南方)※曲がった川の岸の山の頂。
■韓神山 ※曲がった川の岸の山の頂。
■奈良県の「軽」周辺 ※高取川が曲がっているところ。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)
第四百六十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【対馬】龍良山・卒土山・八丁廓・天道様・天神・金倉・壇山~」
×「対馬」について(『長崎県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【対馬は”津の島”が語源で、大陸と本土との交通の中継地を意味するものらしい。】
×「対馬の祭祀遺跡、八丁廓・天道様・カナグラ」について(『対馬の自然と文化/祭祀遺跡』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【△八丁廓(はっちょうかく)
龍良(たてら)山の南麓、千古の原始林の仲に、秘境八丁廓がある。緑の苔むした積石塚が、段上のピラミッド型になっているが、これは祭りの壇で、磐境とよばれた古代さながらの社のない祭場である。
△天道様
各地の村里に、天道様とよばれる霊場がある。社はなく杜のなかに小さな祀堂があったり、巨木の根に〆縄を掛けただけのものが多く、古い祭祝のしきたりである。
△カナグラ
金倉様とよばれる霊地があるが、調べてみると、古い祭祀の跡が認められることが多い。カナグラとは神座(かなぐら)であった。地名と遺跡を保存してほしいものだ。】
×「壇山」について(『対馬の韓国「民間信仰」』任東権(韓国) ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【昨年、十年ぶりに対馬を訪れ、三週間ほど現地調査を行ってみたところ、「壇山(だんさん)」という名称の山の多いのに気付いた。古文献から、壇山は神とのつながりのあることが確認される。韓国では村邑に必ず存在する「堂山(だんさん)」に相当するもののようだ。
この堂山は初期の段階では土の壇であるが、第二段階は石の壇で高くなる。これは集団で築いたことを示す。また第三段階は祠へと変わっていく。経済力の向上や厚い信仰心によるものといえよう。この形態が韓国と対馬は非常に類似している。
現在では山の麓や村の入口に祭られるばあいが多いが、山の頂上に祭られる神がもっとも神聖である。これは天とかかわりをもつからだ。そこで、天道神を考えてみたい。
対馬では天道神を天道・天神・御日照り様・天照り・八龍・金倉様ともよんでいる。特徴は周囲に樹木がこんもり繁っていることだ。また海辺や入江にもみられ、石をそのまま積み重ねたものがあるが、これは韓国の城隍堂(そなだん)と類似している。
この天道様は、対馬ではいつごろから祭られるようになったのだろうか。天道様の祭られている峰が「卒土(そと)」とよばれるが、これは韓国の「蘇塗(そと)」につながるものだ。蘇塗は高句麗や三韓時代の馬韓において天神を祭った神壇を指す。〈対馬では〉龍良山のことを卒土山ともよんでいる。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
対馬は”津の島”が語源ということはありません。この手の漢字表記こじつけ説にほぼ真実はありません。
◎縄文語:「対馬」=「テュ・スマ」=「岬、峰の・岩」
で、対馬の岩の岬の多い地勢を表現したとするのが妥当です。
■対馬(女連の立岩)
「龍良(たてら)山」の南麓には「八丁廓」、北麓には「裏八丁廓」があって、「天道神」が祀られています。
これらも「龍良山」周辺の地勢を表現したものと捉えられます。
◎縄文語:「龍良山」=「タン・テュ・ラ」=「こちらの・峰、岬の・低いところ」
◎縄文語:「天道(神)」=「タン・テュ」=「こちらの・峰、岬」
◎縄文語:「八丁廓」=「ピッチェ・カッ・ク」=「禿げた・形が・弓」※弓の形のはげ山。
「龍良山」の別名とされる「卒土山」は、
◎縄文語:「卒土山」=「サッ・ヤマ」=「水が涸れている、乾いている・山」=八丁廓(弓の形のはげ山)
「カッ・ク=形が・弓」の山はこれまでも何度も登場しています。奈良の香久山も同義です。下部に全国の「形が弓の山」の例をご紹介します。
「卒土」 単独の場合は、
◎縄文語:「卒土」=「シ(orシアン)・テュ」=「大きな・山」
の解釈も可能です。
「龍良(たてら)山」の隣の山は「木斛山(もっこくやま)」です。
◎縄文語:「木斛山」=「モ・コッ・ケ・ヤマ」=「小さな・窪み・のところの・山」
すべて山の地勢を表現していますから、たまたま同じ地域にあることもあるでしょう。
■龍良山(奥左)と木斛山(奥右)※出崎の低いところの山と小さな窪みの山。弓の形のはげ山。
「壇山」は『対馬の韓国「民間信仰」』では「だんさん」と読んでいますが、「だんやま」だと思うのですが。。「堂山」と結び付けたいがために「だんさん」と読んでいるのでしょうか。これは
◎縄文語:「壇山」=「タン・ヤマ」=「こちらの・山」
の意で、朝鮮半島の堂山とは無関係です。
「天道神」の解釈にも登場した「タン=こちらの」はよくある対比表現で、近隣に同様の地勢、多くの場合はより大きなものがあります。対馬の「壇山」の場合は近隣に”より大きな山”があるということです。例えば「舞石ノ壇山」「大坂壇山」「柳ノ壇山」「野田ノ壇山」のいずれも対比となる”より大きな山”が近隣にあります。
「天神」も「天道神」も「壇山」と同義の解釈が可能です。
◎縄文語:「天神」=「タン・シル」=「こちらの・山」
◎縄文語:「天道(神)」=「タン・テュ」=「こちらの・峰、岬」
とすれば「壇山=天神=天道」です。
そして、これら似た発音の縄文語地名に結びつけられて、石積みの「天道神」が設けられた可能性もあります。
石積みの「天道神」は、
◎縄文語:「天道(神)」 =「タク・テュ」=「石の・峰、岬」
と解釈できます。
「天道様」の解釈に二種登場しましたが、古代人は似ている発音であればルール無用で縄文語に漢字を充てているので、それぞれの解釈は周辺地勢との整合性を優先させる必要があります。
◎縄文語:「天道(神)」
=「タン・テュ」=「こちらの・峰、岬」
or「タク・テュ」=「石の・峰、岬」
「金倉様」は、
◎縄文語:「金倉(様)」=「カンナ・キル」=「上にある・山」
と解釈可能です。 「倉」は「キル=山」に充てられることの多い漢字です。
天道、天神、金倉様は、すべて山を指していますから、山の頂や麓に祭られる訳です。
縄文語の「弓の形の山」の表現は日本全国に存在します。以下、日本の歴史がいかにデタラメを語っているかをご覧下さい。
■鏡山大神社より香春岳二ノ岳、三ノ岳を望む ※弓の形の山。三ノ岳別名、天香山。
×豊前国風土記逸文(『万葉集註釈』)【豊前国風土記にいう。田河郡。鏡山。郡の東にある。昔、気長足姫尊(神功皇后)がこの山にいて、遥かに国の形を見て、勅してうけいを行った。「天神(あまつかみ)も地祇(くにつかみ)も我がために福(さきわ)へ給え」と仰った。すると、御鏡を持って、ここに安置なさった。その鏡は、石となって今も山の中にある。よって名づけて鏡山という。】
■香久山/香具山(大和国)※弓の形の山。
<伊予国風土記逸文>(『日本書紀纂疏』) 「風土記によると、天上に山があったという。分かれて地に落ち、一つは伊予国の天山となり、もう一つは大和国の香具山となった。」
<阿波国風土記逸文>(『万葉集註釈』) 「阿波国風土記の場合は、空から天降ってきた山の大きな方は、阿波国に降ったアマノモト山という。その山が砕けて、大和国に降り着いた山を天香具山というと書いてある。」
■香山(かぐやま)里(播磨国)(兵庫県たつの市新宮町香山)※弓の形の山。
<播磨国風土記>「本の名は、鹿来墓(かぐはか)である。<中略>伊和大神が国占めした時、鹿が来て山の峰に立った。山の峰も墓に似ていた。だから、鹿来墓と名づけた。その後、道守臣(ちもりのおみ)が宰(みこともち)だった時になって、名を改めて香山とした。」
■鏡坂(豊後国)(大分県日田市上野)※弓の形の山。
◎縄文語: 「カッ・ク・ムィェ・サン・ケ」=「形が・弓の・頂の・出崎の・ところ」
<豊後国風土記>「景行天皇が、この坂の上に上り、国の形をご覧になり、【この国の形は鏡の面に似ている】と言った。よって鏡坂という。」
■鏡渡(鏡山)(肥前国)(佐賀県唐津市鏡山)※弓の形の山。
◎縄文語: 「カッ・ク・ムィェ・ウン・ワッタル」=「形が・弓の・頂・が(orに)ある・淵」
<肥前国風土記>「昔、宣化天皇の世、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)連を遣わして、任那国を鎮め、また、百済国を救った。大伴狭手彦は命を受けてやって来て、この村に到った。篠原村の弟日女子(おとひめこ)と妻問婚した。日下部君らの祖である。弟日女子はとても容貌が美しい女性であった。狭手彦は別れる日に弟日女子に鏡を与えた。弟日女子は悲しみ泣きながら栗川を渡ったが、そのとき、鏡の紐が切れて川に沈んでしまった。よって鏡渡と名付けられた。」
■隠れ里の稲荷(鎌倉)(神奈川県鎌倉市佐助)※弓の形の山。
◎縄文語: 「カッ・ク・ネ・テューテュク」=「形が・弓・である・岬」
<佐助稲荷神社由緒>「伊豆の北条政子のもとで病に臥していた源頼朝の夢枕に【かくれ里の稲荷】という翁が立ち、平家討伐の挙兵を促した」
■各務(原)(岐阜県)※弓の形の山。
◎縄文語: 「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」
※その他の「弓の形の山」。
・鏡山(広島県東広島市)※鏡山には大内氏の鏡山城跡があります。 ⇒google ストリートビュー
・加賀美(旧加々美荘/山梨県) ⇒google ストリートビュー
・鶴来ヶ丘(常陸国)(茨城県鹿嶋市緑ヶ丘)=「カッ・ク・ラィイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
・鏡坂(豊後国)(大分県日田市上野)※弓の形の山。 ⇒google ストリートビュー
・小熊山古墳(豊後国)(杵築市/3世紀後半~4世紀初頭/前方後円墳)⇒googleストリートビュー
・鏡塚古墳(石清尾山古墳群)(香川県高松市/古墳時代前期/積石塚の双方中円墳) ※弓の形の山に築かれた古墳。⇒googleストリートビュー
・柄鏡塚古墳(福井県福井市)※弓の形の山に築かれた古墳。 ⇒googleストリートビュー
・カクメ石古墳=「カッ・ク・ムィ・シリ」=「形が・弓の・頂の・山」
(飯塚市/古墳時代中期~後期/円墳)⇒googleストリートビュー
第四百六十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【対馬】多久頭魂神社・高御魂神社~」
×「堂山」について(『対馬の韓国「民間信仰」』任東権(韓国) ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【堂山は初期の段階では土の壇であるが、第二段階は石の壇で高くなる。これは集団で築いたことを示す。また第三段階は祠へと変わっていく。経済力の向上や厚い信仰心によるものといえよう。この形態が韓国と対馬は非常に類似している。】
×「堂山の祠と日本の神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【朝鮮ではのちにはいってきた仏教が中心となったため、祠はそれ以上の段階へ変わることはできなかった。だが、日本ではそれがさらに神社・神宮ともなっていくのである。
たとえば、「豆酘(つつ)」でも佐護(さご)でも、 多久頭魂神社と天道様が集合している」(永留久恵『古代史の鍵・対馬』というぐあいであるが、豆酘にある高御魂(たかみむすび)神社もそれと同じであった。】
△「多久頭魂神社・高御魂神社」について(『日本神話』上田正昭 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【それ(皇祖神)は対馬あたりと密接な関係をもった文化を背景にする神であった。皇祖神アマテラスオオカミが主宰した高天原という記紀神話完成時の姿以前に、皇祖神タカミムスビの主宰する高天原があったということになる。この結論がただしいとすれば、高天原にかんする神話的思考の原理は、国の内よりも国の外に求めなければならないだろう。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
日本神話は北方系の為政者周辺の出自の正当化、装飾を目的に書かれているので、日本神話の思考を朝鮮半島に求めるのは妥当です。しかし、彼らはあくまで古墳時代の渡来です。
黎明期の日本の歴史は彼らに都合良く改竄されているので、アマテラスやタカミムスビも日本神話がデタラメである前提で検証し直さなければなりません。その下に邪馬台国も眠っています。
隣り合う「多久頭魂神社」「高御魂神社」も他の神社同様、所在地(厳原町の豆酘浦)の縄文語地名の仮借の漢字表記です。もともと信仰が存在したというのであれば、それは南方系先住民による自然崇拝です。
◎縄文語:「多久頭魂(神社)」=「タク・テュ・トモ」=「石の・岬、峰の・中」
◎縄文語:「高御魂(神社)」=「タク・ムィ・ウシ・ぺ」=「石の・頂・にある・もの」※石の岬。
◎縄文語:「豆酘」=「テューテュク」=「出崎」
「多久頭魂神社」に「天道様」が習合しているのは「タク・テュ」の発音が一致するからだと考えられます。
◎縄文語:「天道(神)」
=「タン・テュ」=「こちらの・峰、岬」
or「タク・テュ」=「石の・峰、岬」
■多久頭魂神社(豆酘)、高御魂神社 ※石の岬、峰の中の神社。
■豆酘崎 ※石の岬。
■佐護の天道山(左)、麓には多久頭魂神社 ※石の岬、峰の中の神社。
第四百六十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【佐賀/長崎】多良岳・高麗小路・高麗島・高麗曽根~」
×「多良岳、高麗小路、高麗島、高麗曽根」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【私は、「多良岳南麓に二遺跡二十数基」(佐々木博『「韓人」渡来の足跡』)の支石墓があるということもあって、その多良見町、多良岳の多良という地名がちょっと気になっていた。多良見町というのはともかく、多良岳の多良とは、古代南部朝鮮にあった加耶諸国の一国だった多良(羅)からきたものではなかったかと思われたからである。
地名となるとまた、その多良岳南麓の諫早市栄町には「高麗小路(こうらしゅうじ)の井戸」というのがあり、さらにまた、これも長崎県となっている西方海上の五島列島には、「高麗島(こうらいじま)」「高麗曽根(こうらいそね)」などというところがある。】
×「高麗島、高麗瀬(高麗曽根)」について(wikipedia)
【高麗島(こうらいじま)とは現在の長崎県の五島列島の小値賀島の西に位置する高麗瀬にあったとされている島。かつては繁栄していたが、ある日、不心得者が石地蔵の顔を赤く塗ってしまい島が沈んだとされている。
高麗島の伝説は五島列島のうち小値賀島以外にも宇久島、久賀島、福江島などにも伝わっており、
・高麗島から移ってきた牛の子孫は風の方向を向く
・高麗島の海没後、島から流れ着いた経巻を寺に収めた
・高麗島にいた悪者を寺の開祖が牡牛の応援を得て征伐した
などの話がある。
民俗学者柳田国男によれば、中国の古い説話にある「石像の顔色を塗り替えることで島が沈む話」が日本の古典に引用され、それを基礎として高麗島伝説が作られ、琵琶法師、行商人などから各地に伝播したのではないかと推測している。 】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
たとえ民俗学者の柳田国男であろうとも、漢字表記にこじつける上記のような説には信憑性がありません。「高麗島が沈んだ」という物語が創作された謎も、縄文語解釈すれば簡単に解読可能です。
いずれにせよ、地名由来に朝鮮半島は関係ありません。関係があるとすれば、仮借の漢字表記、こじつけ物語の創作です。
まずは、朝鮮半島南部の多羅と結びつけられている「多良岳」から。多良岳東麓には「多良」地区があります。
◎縄文語:「多良(岳)」=「タン・ラ(・タク・ケ)」=「こちらの・低いところ(・石の・ところ)」
これは「多良岳」の石、岩が豊富で起伏の激しい地勢を表現したものか、あるいはその多良川下流の「多良」地区の低地を指したものと捉えられます。
「タン=こちらの」はよくある対比表現で、近隣に同様の地勢があります。
■南方の雲仙市吾妻町より多良岳火山を望む ※低いところ(起伏)がたくさんある山容。
(Houjyou-Minori, CC BY 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/3.0>, via Wikimedia Commons)
■多良岳東麓の多良地区 ※川下の低地。
諫早市の「高麗小路(こうらしゅうじ)」ですが、これは蛇行する小河川沿いにあります。
◎縄文語:「高麗小路」=「カル・ウシ・チゥ」=「曲がりが・たくさんある・水流、水脈」
■高麗小路(諫早市) ※蛇行する小河川。曲がりがたくさんある水流、水脈。
そして、「高麗島」。いったい、なぜ島が沈んだのか。それは、もともと島などないからです。
◎縄文語:「高麗島」=「カル・エ・スマ」=「曲がっている・頭の・岩」
◎縄文語:「高麗曽根」=「カル・エ・ソ・ネ」=「曲がっている・頭の・水中のかくれ岩・である、のような」
「高麗島」と「高麗曽根」が同じ地勢の言い換え表現であることが分かります。島の探索も行われたようですが、無駄です。
△『長崎大学水産学部研究報告/高麗曽根漁場の地形』山田鉄雄・柴田恵司・梶原武
【高麗曽根は,五島列島小値賀島のSW約20'に在る暗礁で,そのNE6'にある白瀬と 共にアジ・サバ・イワシなどの回游魚が春の上り秋の下りに滞留し,対馬海峡におけるまき網の最も重要な漁場となり,またブリ・カンパチ・アラなど大物瀬付魚のすぐれた釣場でもある。頂部は巨大な白い岩盤で,船上から見え,その最浅部は約4m,所々に付着し ている黒褐色の海藻が波にゆらゆらとなびいている*。
*往時は一小島であったとか,高麗の陶器運搬船がこの曽根で遭難沈没したとかの伝説があり,今でも高麗焼の逸品が時々発見されるという。 】
■高麗曽根(高麗島伝説の地)※曲がっている頭の岩。
第四百六十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【佐賀】稲佐神社・五十猛・百済聖明王・阿佐太子(聖明王王子)~」
×「稲佐神社・五十猛・百済聖明王・阿佐太子」について(『佐賀県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【稲佐神社は『日本三大実録』にもしるされた古い神社で、天神・女神・五十猛命のほかに日本に仏教を伝えたといわれる百済の聖明王とその子阿佐太子(あさたいし)を合祀してある。】
×「百済聖明王・阿佐太子」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【 新羅系の神(「上古の時、神といいしは人也」新井白石『東雅』)である五十猛命はわかるとしても、そこに「百済の聖明王とその子阿佐太子を合祀してある」というのはどういうわけか、よくわからない。なぜかというと、聖明王が日本に仏教を伝えたのは、大和への「公伝」としてのそれであって、当時の九州とはあまり関係なかったはずだからである。
おそらく、百済聖明王とその子阿佐太子は、「日本に仏教を伝えた」ということとは関係なく、この地にいた百済氏系氏族が祭ったものではなかったかと思われる。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
「稲佐神社」に祭られる「聖明王」「阿佐太子」は、いずれも稲佐神社の地勢を表現した縄文語地名の仮借の漢字表記なので、謎でもなんでもありません。当然、”百済氏系氏族が祭った”ということもありません。
「五十猛命」も同様にこの土地の地勢の言い換え表現で、スサノオの子とは直接の関係はありません。
繰り返しになりますが、日本の八百万の神、神社というものは、”六~七世紀に大和王権を簒奪した北方系渡来人である為政者周辺の出自の正当化、装飾”を目的として設けられていて、その内容は記紀風土記と密接に連携しています。
言うまでもなく、新井白石の言である「上古の時、神といいしは人也」はデタラメということになりますが、それを始めたのは千年以上前の北方系渡来人を中心とする勢力です。新井白石も含め、古代人がしかけた罠にまんまとはまり続けている訳です。
◎縄文語:「稲佐(神社)」=「エン・ノッ」=「突き出た・岬」
◎縄文語:「五十猛(命)」=「エテュ・キル」=「岬の・脚」
◎縄文語:「聖明王」=「シル・ムィ・アゥ」=「山の・頂の・枝分かれ」
◎縄文語:「阿佐(太子)」=「アゥ・サン」=「枝分れた・平山、出崎」
すべて稲佐神社の地勢を表現しています。
■左に突き出た峰の上に稲佐神社(佐賀県)
※突き出た岬。岬の脚。山の頂の枝分かれ。枝分れた平山、出崎。
第四百六十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【佐賀】與止日女神社(河上神社、造化大明神)・金敷城山~」
×「與止日女神社(淀姫神社)」について(『佐賀県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【佐賀駅の北西約七キロ、川上川にのぞんだ景勝地に河上神社(淀姫神社)がある。『肥前国風土記』に「川上に石神あり、名は世田姫」とあるように神体は巨石らしい。淀姫の名は、川上川の急流が扇状地にでて、”淀む”ところにこの社が建てられたためであろう。】
×「與止日女神社(淀姫神社)」について(wikipedia)
【『肥前国風土記』逸文(神名帳頭注)によれば、欽明天皇25年(564年?)11月1日に與止姫の神が鎮座したという。 世田姫神社の北に川上があり鮎や謂魚が逆流して潜ったりしていたとあり、同書に収録された川にまつわる説話から、水神信仰として成立したものと見られている。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
「與止日女神社」の”石神”とは、川上川対岸の 「金敷城山(かなしきじょうやま)」の中腹にある巨石がゴロゴロしているご神体の磐座で、「造化大明神(與止日女神社上宮)」と呼ばれています。
◎縄文語:「世田姫/與止姫/淀姫」 =「イェ・タ・シ・ムィ」=「石、岩・にある・大きなorもっとも先端の・頂or入り江」
◎縄文語:「河上(神社)」=「カン・ウカゥ・ムィ」=「上にある・石が折り重なった・頂」
◎縄文語:「造化(大明神)」=「ソー・カ」=「水中の平岩、磯・のほとり」※ 川上峡のほとり
佐賀県周辺には「淀姫神社」が多数ありますが、多くは
◎縄文語:「ヤ・タ・シ・ムィ」=「陸岸・にある・大きなorもっとも先端の・頂」
と解釈可能で、「岸辺の岬の突端」を表現したものと思われます。
平地、水辺にある場合は、姫島や大阪の「ヒメコソ社」と同様に「ヒメ(コソ)=シムプィ(・コッ)=湧水(・の窪地)」と解釈できます。
繰り返しになりますが、縄文語には似た発音であれば節操なく漢字が充てられているので、厳密に一意で結び付ける必要はありません。それよりも所在地の地勢との一致を優先させる必要があります。
■佐賀県周辺の淀姫神社
「金敷城山」は「城山」の表記を含みますが、”城”の遺構はありません。これも類似解釈が可能です。
◎縄文語:「金敷城山」
=「カンナ・シル・クチ・ヤマ」=「上にある・水際の断崖の・岩崖の・山」
or「カンナ・シ・クッ・ヤマ」=「上にある・大きな・岩崖の・山」
また、 「金敷城山」の南麓は「久池井(くちい)」地区です。
◎縄文語:「久池井」 =「クッ・エ」=「岩崖の・頭」
■金敷城山中腹の造化大明神(與止日女神社上宮)
■與止日女神社、造化大明神、久池井
「金敷城山」の南、「與止日女神社」の対岸には「都渡城(ととぎ)」というめずらしい地名がありますが、これもついでに解釈します。典型的な縄文語地名です。
◎縄文語:「都渡城」=「テューテュク」=「出崎」
佐賀の『歴史文化お宝帳』HPには以下の記述がありますが、漢字表記にこじつけた地名由来はすべて見当違いです。
×「都渡城の地名由来」について(『歴史文化お宝帳』HP)
【久米邦武氏は「佐嘉」は「坂」が多いので「さか」が「さが」となり、坂を下る車の音が轟くことから「とどろき」が「ととぎ」に転化したと言われている。】
第四百六十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【佐賀】白鬚神社・関行丸古墳・帯隈山神籠石~」
×「白鬚神社・関行丸古墳」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【いまみたはじめのほうに「関行丸古墳」というのが出ているが、この「関行丸」というのは、これも帯隈山山城跡(神籠石/朝鮮式山城)と同じ久保泉町川久保にある白鬚神社と関係のある名称のようである。白鬚神社とは、新羅神社または新羅明神ということである〈後略〉】
△「白鬚神社・関行丸古墳」について(『佐賀県の文化財/白鬚神社の田楽』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【白鬚神社は、継体天皇の頃近江の国白鬚大明神の分霊を勧請した古社と伝えられ、祭神は豊受比売命、猿田彦命、武内宿禰の三柱である。
勧請に奉仕した十九の家があって、いずれも姓に丸字(石丸・関行丸など)をつけているので、丸持ちの家といわれ、この神社の主な祭典を行なうので、これを丸祭りと呼び私祭の古式が伝承されている。】
○「帯隈山神籠石」について(『佐賀県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【熊本山北方約二〇〇メートルの帯隈山一帯は、武雄市のおつぼ山とならんで神籠石で有名だ。〈中略〉ここの神籠石は帯隈山(一一七メートル)の北側、四合目あたりから南下、いちめんみかん山になった清兵衛山・鳥越山・天童山などの南斜面をとおり、ほぼ馬蹄形に築かれている。延長約二・四キロに及ぶ。
花崗岩でつくられた列石の前面には三メートル間隔の柱穴がでてきたし、列席と柱穴のあいだには柱根をささえる添石がうめてあった。列石のうしろには幅一〇メートルの土塁も発見された。帯隈山最高峰から北にややくだったところは列席がされており、門のあとが発見され、神籠池にめんした西斜面の列石の切れ目には小水門跡が発見された。ほかの水門は水田や溜池の堤防下にあんっている。神籠石は古墳時代後期の朝鮮式山城の一種といわれている。】
※関行丸古墳、熊本山古墳については下部参照。
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「白鬚(神社)」=「シル・オ・ぺ・ケ」=「山・裾の・水・のところ」
「白鬚神社」と「新羅(神社)」は縄文語地名にこじつけて結びつけられているだけです。朝鮮半島の新羅国はまったく関係ありません。天日槍を祭る新羅神社は日本全国「山裾」にあります。決して天日槍の活躍を示している訳ではありません。
近江国、琵琶湖畔の白鬚大明神は、
◎縄文語:「白鬚(大明神)」=「シル・オ・ピケゥ」=「山・裾の・石ころ」
とも解釈可能です。縄文語と漢字は一意で結びつけられてはいないので、周辺地勢との整合性を優先させる必要があります。
佐賀市川久保の「白鬚神社」と近隣の「関行丸古墳」は同じ地勢の言い換え表現となっています。
◎縄文語:「関行丸」=「シルクル・キル・マ・オロ」=「山の・脚の・谷水・のところ」=白鬚神社
この辺一帯は「山裾の水辺」だったことが分かります。縄文語の子音の「ル」は日本語の「ュ」に変換される例が多く見受けられます。「シル→シュ」「キル→キュ」などです。
余談ですが、「シルクル」は「スグリ」の語源とも考えられます。日本全国「シルクル=山」があるので、「スグリ=新羅系渡来人」の公式も少々怪しくなってきます。
閑話休題。川久保周辺に「丸」のつく姓が多いのは、
◎縄文語:「丸」=「マ・オロ」=「谷水・のところ」
の意なので当然です。
日本各地にある丸山古墳の多くは「水辺の古墳」あるいは「周濠」を持つ古墳の意になります。前方後円墳の名称であっても不思議はありません。
■白髭神社前の巨瀬川 ※山裾の谷川。
関行丸古墳の北方の帯隈山には神籠石(朝鮮式山城)があります。 朝鮮式山城は白村江の戦いで敗れた日本が、唐新羅連合軍の襲来に備えて築いた城との説が一般的です。脊振山地南麓の佐賀県の川久保地域や、さらに西方の武雄市おつぼ山にもあります。どうせ築くなら、沿岸地域や大和へのルート上が優先されるべきだと思うのですが。
筆者は、この朝鮮式山城(百済系)が南方系の日本先住民をも意識したものであった可能性があると考えています。
私見では、大和王権が北方系渡来人勢力に簒奪されたのは六~七世紀のことですから、白村江の戦い(六六三)はまさにその頃のことで、後の壬申の乱を見ても、安定した日本支配はほど遠い状況でした。大規模古墳を築いた南方系先住民が盤踞している地方はなおさら不安定だったはずです。もし、同じ南方系の新羅が日本に攻めてきた場合、縄文語を共有する先住民が呼応しないとも限りません。
当時の国府は北方百済系ですから、これらの状況を考慮すれば、国府を守るように後背に百済系の朝鮮式山城が築かれることは極めて自然な成り行きだったのです。
九州の神籠石(朝鮮式山城)の分布を見ると、九州南部を意識しているようにも見えます。特に九州西部の肥後(熊本)対策と仮定すると、神籠石の分布はほぼパーフェクトです。六世紀、熊本宇土地方と出雲は手を結んで大和勢力に対抗したとの説があります。
○ 「六世紀の出雲と熊本」について(『しまねの遺跡 発掘調査パンフレット』島根県教育庁埋蔵文化財調査センター)
【6世紀の出雲では、各地に分散していた大型古墳が突然意宇平野周辺に集中して築かれるようになります。これは、各地域の首長が何らかを目的に一地域に集まったことを示しています。
ちょうどその頃、九州では筑紫君磐井の乱(527年)がヤマト王権に鎮圧されましたが、その後勢力を伸張させた熊本県宇土地方からは、石棺式石室が出雲に取り入れられました。
このことは、ヤマト王権からの圧力に、熊本地方と出雲地方が連携して対応したことを示していると考えられています。】
■九州の神籠石の分布 ※九州南部の勢力を意識しているようにも見える。
川久保周辺は、鍋島半親類四家のひとつ「神代(くましろ)氏」の領地だそうですが、「クマ=横に平べったい山」は「熊野神社」などを筆頭に地名に頻繁に登場します。
川久保地域周辺にも「クマ」を冠する地名が見られます。
◎縄文語:「熊本山」=「クマ・モ・テュ」=「横に平べったい・小さな・峰、岬」
◎縄文語:「帯隈山」=「イオピ・クマ・ヤマ」=「それを捨て去った(孤立した)・横に平べったい・山」
■熊本山古墳周辺の景色 ※平べったい小さな峰。
■帯隈山 ※「イオピ・クマ・ヤマ」=「孤立した・横に平べったい・山」
■和歌山熊野本宮大社周辺。 ※熊野本宮大社から見て熊野川対岸。 横に平べったい岬 。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「関行丸古墳」について(『さが歴史・文化お宝帳HP』佐賀市地域文化財データベースサイト)
【脊振山南麓の狭い扇状地上に立地する。東に神籠石(こうごいし)で知られた帯隈山(おぶくまやま)、西に139.5メートルの山丘によって囲まれた平地に位置する前方後円墳である。〈中略〉後円部径35メートル、周囲の水田面からの比高差4.5メートル、幅13メートル、高さ1メートルで主軸の方向は西25度南である。葺石(ふきいし)・埴輪(はにわ)などの外部施設は認められない。
内部主体は短い羨道(せんどう)をもった単室の横穴式石室で後円部にあり、北側くびれ部に向かって開口する。〈中略〉
副葬品は、鏡4面、金鋼製冠帽、貝輪、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、小玉、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす)、辻金具、鋲(びょう)金具、三環鈴(さんかんれい)等が出土している。当古墳は6世紀初頭ごろの築成と考えられる。 】
○「神代氏・熊本山古墳・帯隈山神籠石」について(『佐賀県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【このあたり(佐賀県佐賀市久保泉町川久保 )は鍋島半親類四家のひとつ、神代(くましろ)氏の領地だ。川久保バス終点から東へ一〇分ほどの民家の東隣にあるモウソウダケのはえた小丘が関行丸古墳だ。〈中略〉
関行丸古墳から東南約三〇〇メートルほどのところに、昭和三八年、みかん園造成のためにブルドーザで開墾中、舟形石棺が出土した熊本山古墳がある。熊本山(三五メートル)には北峯と南峯があり、いずれからも箱式石棺がでた。〈後略〉】
第四百七十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【佐賀】姫小曽神社・媛社神社~」
×「姫小曽神社・媛社神社」について(『佐賀県史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【脊振という地名は、その北麓の早良郡の名とともに、韓語のソウルと関係があろう。ソウルは大きな集落、したがってまた都を意味することもある。早良の西の糸島郡は『魏志倭人伝』の伊都国の地であるが、『筑前国風土記』逸文によれば、その県主は天日槍の子孫を称したという。日槍は新羅から帰化〈渡来〉したと伝えられる人で、その子孫が各地にひろがった。背振山中に白木〈新羅〉という集落がある。北九州海岸に移住した大陸移民が早く背振山中にも定着繁栄したことがあったろう。……
『肥前国風土記』によれば、東から基山、姫方、神埼川上の各地に荒ぶる神がいて往来のものをなやますので祭〈神社〉を営んでこれをなだめたといい、姫方社、櫛田社、淀姫神社など肥前の古社の起源がおもわれる。〈後略〉】
×「姫小曽神社・媛社神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【姫小曽・媛社の「小曽・社(こそ)」とはどちらも古代朝鮮語「居世(こせ)」という尊称(様)からきたものであるが、その神社は同時に新羅・加耶系渡来人集団=天日槍集団の天日槍と関係があるとともに、脊振山地を開発した渡来人とも関係があった〈中略〉
(『肥前国風土記』にいう「姫社の社」とは)脊振山地東南麓となっている鳥栖市姫方の姫小曽神社、小郡市大崎の媛社神社がそれであった。どちらも天日槍集団の守護神であった比売神を祀るものだった〈後略〉】
×「ヒメコソ社」について(『日本の神々─神社と聖地─』谷川健一『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【比売許曽神社伝承地は、記紀にみえる豊前国姫島の比売語曽神社や難波の姫島神社(大阪市西淀川区)、比売許曽神社(大阪市東成区)、赤留比売神社(大阪市東住吉区)などが著名であり、その伝承が新羅─筑紫─摂津というように、西から東に移動している。・・・
ところで、この小郡の媛社神社には、嘉永七年(一八五四】奉納の石鳥居の扁額に「磐船神社」「棚機神社」の名が刻んである。磐船は、ニギハヤヒが天降りするとき乗った天磐船を思わせるし、・・・・・・また、この媛社神社の西一キロの小郡市福童には天照国照彦火明命(ニギハヤヒの別名)を祀る福童神社がある。このことからみても、当社における媛社神と物部氏とのつながりがうかがわれる。・・・・・・】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
上記、漢字表記を結びつけた通説、俗説はメチャクチャです。無理が通れば道理が引っ込む説です。
朝鮮半島南部も縄文語圏なので「脊振」と「ソウル」は確かに同語源の可能性が高いですが、朝鮮半島由来の根拠もありません。「早良」についても同様です。
◎縄文語:「脊振/ソウル、ソブル」=「シアン・フル(=ウル)」=「大きな・丘」
縄文語(アイヌ語)では「フル=ウル=丘」です。
「早良」はその地勢から判断すると
◎縄文語:「早良」=「サン・ウェン・ラ」=「前にある・難所の・低地」
が妥当です。
脊振山地に「白木」の地名が多いのは当然です。
◎縄文語:「白木/新羅」=「シル・オ・ケ(orシロケシ)」=「山・裾・のところ(or山裾)」
通説のように、漢字表記こじつけ説がまかり通るのであれば、日本国中にある「山裾」の数を教えて頂きたいものです。それが新羅系渡来人の活躍になるのであれば、人口より多くなります。天日槍を祀る新羅神社もすべて「山裾」にあります。
「天日槍」の名は「城崎温泉」を指しています。
◎縄文語:「天日槍」=「アム・ヌピ・ポクケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」
◎縄文語:「城崎(温泉)」=「ケナシ・ケ」=「川端の木原・のところ」
そして 「姫古曽神社」「媛社神社」。『日本の中の朝鮮文化』には「姫小曽神社」とありますが、正確には「姫古曽神社」のようです。
◎縄文語:「姫古曽(神社)/姫方」=「シ・ムィ・コッチャ(orコッチャル)」=「もっとも・頂の・谷の岸(or谷の入口)」※岬のもっとも先端の谷の岸。
「姫古曽神社」所在地の「姫方町」も同義、同類の解釈が可能です。 「方」は「カ・タ=ほとり、岸・の方」とも考えられます。
みやき町にも「姫方」の地名がありますが、これも同じ地勢です。寒水川沿いに舌状台地が発達した地勢です。
■姫古曽神社(姫方) ※岬のもっとも先端の谷の岸。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)

■みやき町姫方 ※岬のもっとも先端の谷の岸。岬のもっとも先端のほとりの方。
一方「媛社神社」は「姫古曽神社」と解釈が異なります。別名は「七夕神社」です。
◎縄文語:「媛社(神社)」=「シムプィ・コッ」=「湧水の・窪地、谷」
◎縄文語:「七夕(神社)」=「タン・ナ・ハッタル」=「こちら・の方の・淵、水が深くよどんだところ」
織女神である「万幡秋津師比売命命(よろずはたあきつしひめのみこと)」を祀っていることから「媛社=湧水の窪地、谷」の解釈としました。「秦氏(ハッタル語源)」が頻繁に「機織り」と結びつけられているのと同様です。
そしてこれは、代表的なヒメコソ社である大分県姫島の「比売語曽社」、大阪の「比売許曽神社」と同義でもあります。こちらも”湧水”のほとりにあります。
◎縄文語:「比売語曽(社)/比売許曽(神社)」=「シムプィ・コッ」=「湧水の・窪地」
繰り返しになりますが、縄文語と漢字は厳密に一意で結び付けられてはいません。よって、所在地の地勢との整合性を優先させて解釈する必要があります。
■媛社神社(国土地理院の電子地形図を加工して作成)
大阪の比売許曽神社の主祭神である「下照姫」と同一神の説のある「赤留比売」は上町台地の言い換え表現なので、論争の必要もありません。いうまでもなく赤留比売神社も同義です。
◎縄文語:「下照姫」=「シテュ・タ・ルム・シムプィ」=「大きな峰・にある・岬の・湧水」 ※上町台地の湧水
◎縄文語:「赤留比売」=「アカ・ルム・シムプィ」=「なだらかな尾根の・岬の・湧水」 ※上町台地の湧水
天日槍とツヌガアラシトがわざわざ朝鮮半島から追いかけてきた「赤留比売」の正体は「上町台地の湧水」だったということです。よほど喉が渇いていたのでしょう。アカルヒメは西から東に移動したのではなく、最初からあった同一地勢、縄文語同一地名です。本当にバカバカしい。
ついでに「四天王寺」も上町台地を指した表現ですが、公に流布される由来は「聖徳太子が蘇我氏との戦いの戦勝を四天王に祈願して~」みたいな創作物語です。これが日本黎明期の歴史です。
◎縄文語:「四天王(寺)」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」 ※上町台地の突端
初期神社仏閣の名称はいずれも縄文語地名の仮借の漢字表記ですが、真実が語られることは一切ありません。
また、谷川健一氏の『日本の神々』には、媛社神社の別名が「磐船神社」だったともとれる記載がありますが、これも縄文語解釈すれば、
◎縄文語:「磐船(神社)」=「イワ・ペナ」=「山・山よりの方」 ※山よりのところ
の意となります。こんなどこにでもある地名をもとに「物部氏」と結びつけられてはたまったものではありません。
媛社神社の西方にある「火明命」を祀る「福童神社」も例外なく所在地の縄文語地名です。
◎縄文語:「火明(命)」=「ポン・アカ・ルム」=「小さな・なだらかな・岬」
◎縄文語:「福童(神社)」=「パケ・テュ」=「岬の・峰」
■福堂地区 ※小さななだらかな岬。岬の峰。
「櫛田社」は、
◎縄文語:「櫛田(社)」=「クシ・チャ(orタ)」=「対岸の・岸(orの方)」
佐賀県周辺の「淀姫神社」の多くは
◎縄文語:「ヤ・タ・シ・ムィ」=「陸岸・にある・大きなorもっとも先端の・頂」
と解釈可能で、「岸辺の岬の突端」を表現したものと思われます。
平地、水辺にある場合は、大崎、姫島、大阪の「ヒメコソ社」と同様に「ヒメ(コソ)=シムプィ(・コッ)=湧水(・の窪地)」と解釈できます。
また、周辺に巨石がごろごろしている川上峡の「與止日女神社(淀姫神社)」は
◎縄文語:「與止日女(神社)(淀姫神社)」 =「イェ・タ・シ・ムィ」=「石、岩・にある・大きなorもっとも先端の・頂or入り江」
と解釈しています。
■佐賀県周辺の淀姫神社 ※多くは「岸辺の岬の突端」の地勢。平地の場合は「岸辺の泉」。
■與止日女神社上宮(金敷城山中腹の造化大明神) ※石、岩にある大きな頂。
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