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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第四百一回~第四百十回 】

第四百一回第四百二回第四百三回第四百四回第四百五回第四百六回第四百七回第四百八回第四百九回第四百十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百十回『"忌部氏"と"麻"はまったく関係ない!縄文語地名を日本語解釈しただけだ!~【徳島県】忌部神社・大麻比古神社・麻植郡~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「大麻比古神社」について(大麻比古神社公式HP)
【神武天皇の御代、天太玉命の御孫天富命勅命を奉じて洽く肥沃の地を求め阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して殖産興業の基を開き国利民福を進め給ひ、その守護神として、太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。】

×「忌部神社」について(wikipedia)
【『延喜式神名帳』に載せる「阿波国麻殖郡 忌部神社」は名神大社にも列していたが、中世以降、兵火などにより所在が不明となり、近世以降、複数の神社が式内・忌部神社を主張していたため、明治4年(1871年)に暫時「所在地不明」のまま国幣中社に列格し、翌5年に麻植郡山崎村(現 吉野川市山川町)の村社忌部神社を式内忌部神社に決定した。これに対して美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社(現 当社境外摂社御所神社)が式内忌部神社を主張し、翌々7年(1874年)に改めて山川町の忌部神社を比定するという太政官布告が出されたものの、その後も論争が続いたため、同14年(1881年)に五所神社を式内忌部神社に変更したが、今度は山崎側が大いに反発し、結局太政官による妥協策として名東郡富田浦町(現 徳島市)に新たな社地を定めるという通達を出し、同18年(1885年)に眉山中腹の現在地を選定、そこに鎮座する郷社金刀比羅神社に仮遷座して五所神社を境外摂社とし、社殿竣工により同25年(1892年)5月15日に現在地に遷座した。】

×「麻植郡」について(『徳島県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
麻植郡はかつて麻殖の字をあてていた。伝承によれば忌部氏がこの地にはじめてアサ(麻)を植えた古事によるという。山川町には忌部の祖神をまつる忌部神社があり、木屋平村(現美馬郡)には忌部の子孫と称する三木市が現住している。<中略>
 麻植は、吉野川と盛衰をともにしてきた。吉野川は日本三大荒れ川のひとつで、毎年のように氾濫して沿岸に甚大な被害をあたえてきた。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

  式内社であろうとなかろうと、神社の由緒は例外なくウソだらけです。

 なぜ、”忌部氏が麻を植える”物語が創作されたのか。最も大きな問題はそこにあります。これらも縄文語地名にこじつけられているだけです。大麻比古神社や忌部神社の地勢を見れば一目瞭然です。

 まずは「忌部」の縄文語解釈から。

◎縄文語:「忌部」=「エ・エン・ぺ」=「頭が・尖っている・もの」=尖り山

 これは大麻比古神社の奥宮の建つ大麻山、および、忌部神社周辺の山の地勢を表現しています。


■忌部氏の祖を祀る大麻比古神社(奥宮)が頂にある大麻山(中央) ※尖り山。


■忌部神社(山川町忌部山) ※忌部山(左手前)の後背には尖り山の高越山(右奥)。


 山川町川田忌部山の種穂山(たなぼやま)の頂にも種穂神社(別名忌部神社)があります。明治期、こちらも式内社を主張しています。

◎縄文語:「種穂山」=「タン・ナ・ポ・ヤマ」=「こちらの・方の・子の、小さい・山」※尖り山の小さいもの

 これは種穂山の後背の高越山との対比で「尖り山の小さいもの」と表現したものと思われます。地勢から言えば、種穂神社が最も忌部神社にふさわしいと言えます。


■種穂忌部神社 (川田忌部山/右前)とその後背の高越山(左奥) 
※大きい尖り山(高越山)と小さい尖り山(種穂山)。




 そして、その「尖り山」周辺を拠点としたと思われる「忌部氏」がなぜ「麻を植える」ことになったのか。その謎を解く鍵は大麻比古神社(奥宮)のある大麻山の地勢にあります。

◎縄文語:「大麻山」=「オオ・アサ・ヤマ」=「深い・(谷の)奥の・山」

 「アサ」は「湾や入り江、洞窟などの奥」を指し、「入り江」などの表現は山中の同様の地形にも使用されます。大麻山は吉野川北岸で、大きく内陸に入りこんだ谷の奥にあります。

 余談ですが、各地に「浅間山」があるのはもちろん「アサ・ヤマ=奥の・山」が日本全国に無数にあるからで、「浅間信仰」も「木花咲耶姫」も関係ありません。「せんげん」の読みであれば「サン・ケ=出崎or平山・のところ」ではないかと思います。

■大麻比古神社周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


 つまり、

”オオ・アサ(深い入り江の奥)にある”エ・エン・ペ”(尖り山)」=「”麻”を植える”忌部”氏」

 と変換された訳です。まさにオヤジギャグレベル。

 そして、忌部氏はわざわざ房総半島の「安房」にまで来て”麻を植えた”そうです。「総=麻」だとか。当然、まったく違います。
 「総=プッ・サ=川口の・浜」です。なぜ、安房に忌部氏が登場したのかと言えば、それも「安房=アゥ・ワ=隣の・岸(対岸)」が「阿波」の地勢と一致していて、同じ縄文語で呼ばれていたからです。

 この辺は日本全国の「新羅=シ・オ・ケ=山・裾・のところ」「高麗=コ(・マ)=湾曲したもの(・谷水)※”丸山”or”湾曲した川”」「百済=クッチャ=湾や湖沼の入口」の地勢を結びつけて渡来人の活躍を語る物語とまったく同じロジックです。

 「忌部氏が麻を植えた」とするのは斎部広成(いんべのひろなり)が記した『古語拾遺』ですが、言うまでもなく記紀、風土記も同類で、登場する八百万の神はほぼすべてこの類のこじつけ物語です。それらを祀る神社が式内社であろうとなかろうと、延喜式自体がお手盛りで、その実態が”大ボラ吹き”であることに変わりはありません。
 これを真に受けて分析してもウソにウソを積み重ねた歴史がさらに追加されるだけです。残念ながらそれが黎明期の日本の歴史です。

 神社とは”為政者周辺の出自を正当化”するために設けられたものです。同時に北方系言語(百済語、高句麗語)と同類の上代日本語の解釈で語られるその由緒は、”先住民による縄文語地名の本来の意味を抹殺”する役割も担っています。


 「麻植郡」も「麻植」という漢字を充てて物語を創作しただけで、縄文語解釈すれば、

◎縄文語:「麻植/麻殖」」=「オ・ウェン」=「そこで・交通困難である(場所)」

 となります。これは吉野川の氾濫原の湿地帯のことを指したものと思われます。


 つるぎ町にあった御所神社については、尖り山を確認できませんでしたので、wikipediaにあるように忌部氏後裔が勧請したというのが実情に近いものと考えます。

■「御所神社(つるぎ町)」について(wikipedia)
【旧貞光町の山間部、御所平と呼ばれる場所に鎮座。当地に蟠踞した忌部氏の後裔氏族、三木氏(みき)が奉斎したもので、同氏が式内名神大社の忌部神社を分祀したものではないかと考えられている。】


 また、神社名の「御所」と所在地名の「つるぎ」はほぼ類義語ですが、やはり「尖り山」の意は含んでいません。

◎縄文語:「御所」=「コッ・チャ」=「谷の・岸」
◎縄文語:「つるぎ(町)」=「チ・ケ」=「水流、水脈・のところ」



■御所神社(つるぎ町)





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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百一回「渡来人活躍物語のからくりを暴く!朝鮮半島と日本の同一地勢、同一縄文語地名を結んだだけだ!~【島根県】素戔嗚尊・ 都怒我阿羅斯等・神村(神邑)・神主・飯田・都野津~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「素戔嗚尊・ 都怒我阿羅斯等・神村(神邑)・飯田」について(『神武東征と賀茂建角身命』七田真 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【江津には神村という名の古代から拓けた土地がある。崇神天皇の時代、岩見で唯一の神邑(かむら)と定められたところで、神代の昔から人の住むたいへん古い土地である。<中略>
 ここは古代の文化の√を考える時、非常に重要な土地で、過日「古代の岩見」に書いた素戔嗚尊が出雲に、あるいはツヌガアラシト<都怒我阿羅斯等>が敦賀に行く時経由したところで、古代文化伝播の中継所といってもいいかと思う。
 ツヌガアラシトはこの神村で牛を使って田を耕すことを教え、良田を多く拓き、やがて敦賀に移っていくのである。アラシトが拓いた土地を飯田といい、成務天皇の御代には、この飯田の米が非常に良質の米なので、朝廷の大炊(おほい)料(しろ)として定められているのである。】

×「都怒我阿羅斯等」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
都怒我阿羅斯等伝承というのは、「日本に水稲耕作を伝えた農耕集団」(林屋辰三郎『古代の但馬文化』)、すなわち新羅・加耶系渡来集団の象徴となっている天日槍のそれと同じもので、この集団はあるところでは「新羅の王子天日槍」の渡来として語られ、またあるところでは「加羅(加耶)の王子都怒我阿羅斯等」の渡来として語られている。
 そして前者のコースは北九州の筑前(福岡県)から豊後(大分県)瀬戸内海をへて難波(大阪府)へとなっており、後者のそれは穴戸だった長門(山口県)から日本海岸をへて、越前の敦賀へとなっている。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 上記の世間に流布している説を読むと、上代日本人がどのようにして物語を創作したかがよく分かります。

 まず、「(二宮町)神村」という土地が江津にあります。

◎縄文語:「神村」=「カン・モ・ラ」=「上にある・小さな・低地」

 縄文語と漢字表記は一意で結びつけられていませんので、周辺地勢や地名との整合性を見る必要があります。

 神村地区には延喜式内社の「夜須神社」があります。神村の西隣は「(二宮町)神主」で、ここには岩見国二宮「多鳩(たばと)神社」があります。

◎縄文語:「夜須(神社)」=「ヤチ」=「泥」
◎縄文語:「多鳩(神社)」=「タン・ハッタ」=「こちらの・淵、水が深くよどんでいるところ」

 「(二宮町)神主」の南は「都野津(つのづ)町」

◎縄文語:「神主」=「カン・ノッ」=「上にある・顎(岬)」
◎縄文語:「都野津」=「テュ・ノッ」=「峰の・顎(岬)」※峰の出っ張ったところの意。

 そしてなぜここに「スサノオ」と「ツヌガアラシト」の伝承が残っているか。その解は至極簡単。 「スサノオ」と「ツヌガアラシト」の発音に似た縄文語地名があったからです。

 まずは「ツヌガアラシト」。「ツヌガアラシト」は敦賀に上陸したことで有名ですが、この名前は敦賀の立石岬を指しています。別名の「于斯岐阿利叱智干岐」も単なる言い換え表現です。

◎縄文語:「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」
=「テュ・ルッケイ/ア・シテュ」=「岬が・崩れているところ/もう一方の・大きな岬」
(立石岬/敦賀半島)
◎縄文語:「于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)」
=「ウ・ケ/ア・シテュ・カケイ」=「湾の・ところ/もう一方の・大きな岬が・禿げているところ」(立石岬/敦賀半島)

 次にスサノオ。

◎縄文語:「スサノオ」=「スィェ・サン・ノッ」=「その穴・前にある・岬」=洞窟の岬

 筆者は、これを 多古の七ツ穴のある島根半島だと解釈しています。 内陸の「須佐神社」にもスサノオの拠点とする説がありますが、単に近隣に「八雲風穴」があるので、縄文語地名(地勢)が一致していることを機縁として物語が創作されただけです。弥生遺跡や大規模古墳を考慮すれば宍道湖、中海周辺が文化の中心であったことは明らかです。

◎縄文語:「須佐(神社)」=「スィ・サン」=「穴の・出崎」=洞窟の出崎

 
 そして、肝心の江津にも敦賀と同じように「岬が崩れているところ」があるのか。また、島根半島と同じように「洞窟の岬」があるのか。答えは”ノー”です。

 江津の場合は、単に縄文語地名の発音が似ているというだけで結びつけられています。これは地名と地勢の両方が重なる上記「須佐神社」の例とは異なります。

 前述のように縄文語と漢字表記は一意で結び付けられていません。そのような厳密な法則性をもって漢字が充てられている訳ではないということです。厳密に考察すればするほど、あべこべにデタラメな解が導き出されることになります。

 江津の「ツヌガアラシト」と「スサノオ」を縄文語解釈します。

◎縄文語:「ツヌガアラシト」=「テュ・ノッ・カ/ア・シテュ」=「峰の・顎(岬)・のほとり/もう一方の・大きな岬」=「都野津(テュ・ノッ)・のほとり/もう一方の・大きな岬」

 地勢を見れば一目瞭然。都野津町の峰の先端に枝分かれた山があります。そして、この地域の「スサノオ」は「都野津の岬(ツヌガアラシト)」の言い換え表現となっています。

◎縄文語:「スサノオ」=「シ・ノッ」=「山の隣の・岬」


■江津市神村周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 こういった似た発音の縄文語地名を片っ端から結びつけて物語を創作するとどうなるか。必然的に、

”同じ縄文語圏である中国東夷南蛮から朝鮮半島南部、日本全域を結ぶ大きな道ができる”

 ということになります。これが渡来人活躍物語のからくりです。

 新羅王子である天日槍は「新羅(シ・オ・ケ)」は「山裾」、「ツヌガアラシト」は主に「石がごろごろした岬」を結んで活躍が語られます。

 記紀風土記や神社の由緒等によって創作されたこの類の物語を下敷きに、現在に至るまで通説俗説が累々と積み重ねられ、実に千年以上にわたって日本の歴史の改竄が行われ続けているということです。  

 
 おまけで「飯田」も解釈します。これは、飯田八幡神社後背の山の地形を指しています。全国の八幡神社は「川端」にあります。

◎縄文語:「飯田/八幡」=「エエン・テュ/ペッチャ」=「尖った・峰、岬/川端」

 また、「大炊/料」も縄文語地名に結び付けて物語が創作された可能性があります。

◎縄文語:「大炊/料」=「オホイ・シ」=「深い・山」


■飯田八幡神社後背の山 ※尖り山。



□□□ 通説・俗説・文献 □□□

×「コソ」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【ここ(須佐)に日の神の太陽神を祭った比売許曾のそれがあったとみられる「日社(ひのこそ」というところがある。
 なかなかむずかしい地名であるが、この日社の「社(こそ)」とは、伴信友も「神社を古曾〈許曾〉と云ふ事」として、「比売許曾は下照姫の社にて姫社の義也」といっているように、比売許曾の許曾ということなのである。そのことは須佐の西方海上に「姫島」があることからもわかる。
 この姫島は、いずれも比売許曾神からきている筑前・糸島郡の姫島、豊後・国東半島の姫島、難波・西淀川区の姫島と同じそれであるはずである。ついでにいうと、難波の大阪には私の知っているだけでも比売許曾神社が四、五社ある。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 伴信友の”コソ=神社”も読書感想文のような根拠のない説です。古文献を読んで”なんとなくこう思います!”と語っているに過ぎません。

◎縄文語:「コソ(古曾/許曾/己所)」
=「コッ」=「谷、窪地」

or「コッチャ」=「谷の入口」
or「コッ・チャ」=「谷、窪地の・岸」

 日本全国の「コソ」のつく神社の所在地を調べてみてください。例外なく「水辺」であることが分かります。
 難波周辺に比売許曾神社が多いのは、単に上町台地周辺に湧水が多いからです。

◎縄文語:「比売許曾(神社)」
=「シプィ・コッ」=「湧き水の・窪地」

or「シ・メ・コッ」=「大きな・泉の・窪地」
or「ピ・メ・コッ」=「石の・泉の・窪地」
◎縄文語:「阿麻美許曾(神社)」 「アゥ・モ ・メ・コッ 」=「枝分かれた・小さな・泉の・窪地」※大和川南岸の湖沼地帯の岸。

 「コソ」についての詳細は第二百八十六回コラムをご参照下さい。

 「姫」について可能性として考えられる解釈は以下です。

◎縄文語:「姫/比売」
=「シプィ」=「湧き水」

or「シ・ムィ」=「大きな、もっとも・頂」or「大きな・入り江」
or「シ・メ」=「大きな・泉」
or「ピ・ムィ」=「石の・頂」or「石の・入り江」
or「ピ・メ」=「石の・泉」

 ありきたりな地勢ですから、日本全国どこにでもあります。これらを結んで「新羅の太陽信仰である姫が~!」と言ってしまえば、日本全国新羅由来の太陽信仰だらけになります。このような解釈を積み重ねているうちは、真実の歴史には到底たどり着けません。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百二回『漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【山口県】穴門/穴戸(長門)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「穴門/穴戸(長門)」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【「穴門・穴戸」とは、古代南部朝鮮にあった加耶(加羅)諸国のうちの安那(安耶・安羅ともいう)からきたものではなかったかと思っている。穴門・穴戸というのは、「安那人の居所」ということで、そのことは『日本書紀』垂仁段にある都怒我阿羅斯等の渡来のくだりをみてもうかがい知れる】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 もちろん「穴門・穴戸=安那人の居所」な訳がありません。地名と朝鮮半島南部の「安那」はまったく関係ありません。ただし、朝鮮半島南部も縄文語圏なので、「穴門・穴戸」の「穴」と「安那」は同義です。

◎縄文語:「穴門・穴戸」=「アゥ・ナ・ト」=「枝分かれた・方の・湖沼、海」

 縄文語の「アゥ=枝(分かれた)、隣」は、地名に頻繁に登場します。多くは近隣にさらに大きい同様の地勢があり、その対比表現として用いられます。

 「穴門・穴戸(長門)」の場合は、中心地を「深川湾」岸とすると、仙崎を挟んだ東隣の「仙崎湾」との対比表現と考えられます。


■長門(穴門・穴戸)の深川湾(西)と仙崎湾(東)。※枝分かれた海。


 淡路島、淡海、安房、阿波も同語源です。それぞれ「枝分かれた島」「枝分かれた海」「枝分かれた岸」「同前」です。「淡海(琵琶湖)が”淡水湖”であるから」などという古代人のウソに騙されてはいけません。

 ちなみに「近淡海」の対比で登場する「遠淡海(浜名湖)」は「テューテュ・モィ(orメ)=出崎の・入り江(or泉)」です。砂州の汽水湖を指したと思われます。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百三回『漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【山口県】綾羅木・綾木・豊浦郡・唐戸~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「綾羅木」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【綾羅木郷とうい「綾羅」「綾羅木」ということからして、さきの項でみた穴門(長門)がそうであったように、これも古代南部朝鮮にあった加耶(加羅)諸国のうちの安耶(安羅・安那)からきたものだったはずである。<中略>
 綾羅木の「綾」は安耶(安羅・安那)ということであり「羅・那・耶」は朝鮮語で国土ということであるから、すなわちその安耶の国土から来(木)たもの、ということではなかったかと思う。同じ山口県の美祢郡美東町には綾木というところがあるが、これなども安耶来ということからきたものだったにちがいない。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 上記には真実がまったく含まれていません。

◎縄文語:「綾羅木」=「アゥ・ヤ・ラケ」=「枝分かれた、隣の・陸岸の・低地」

  綾羅木の地勢を見れば一目瞭然、 綾羅木川を挟んだ「対岸の低地」の意です。川を挟んで南北に「綾羅木」「綾羅木本町」がありますが、川の流路の変遷が不明なので、いずれの岸を指したかは断定できません。

 『日本の中の朝鮮文化』には「”荒木”も同様に”安羅来”の意だ」と書かれていますが、これも的外れです。

◎縄文語:「荒木」=「アケ」=「片割れのところ、一方のところ」

 これも「アゥ」と同様に対比表現で頻繁に地名に登場します。「荒川」などもそうです。決して”暴れ川”の意ではありません。近隣の大河との対比、あるいは本流との対比で支流を指しています。


■綾羅木周辺 ※隣の岸の低地。対岸の低地。


 「綾木」の解釈は次のとおりです。もちろん朝鮮半島南部の「安耶」と地名由来はまったく関係ありません。

◎縄文語:「綾木」=「アゥ・ヤ・ケ」=「枝分かれた、隣の・陸岸・のところ」


■美東町綾木 ※枝分かれた、隣の岸のところ。



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「豊浦郡」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【豊浦郡には荒木・荒木温泉があるが、江戸時代の考証学者である狩谷棭斎によると、豊前・豊後(大分県)のことを豊国ともいった、その豊国とは韓国(からくに)のことだそうであるから、もしそうだとすると、こちら豊浦郡の豊ということからして韓(加羅)だったということにもなる。しかしそれはどちらにしても、綾羅木郷遺跡は、さきにみた土井ヶ浜遺跡と同様、古代南部朝鮮渡来のそれであることにまちがいはない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 「豊国=韓国」の根拠はなんでしょうか。なんとなくものを言っては困ります。

◎縄文語:「豊(国)」=「ト・ヤ」=「海or湖沼・岸」

 「豊」のつく地名は「海岸」または「湖沼岸」です。一般的に「海上交通で豊かになった」などという説が散見されますが、決して「豊かさ」を意味している訳ではありません。

 土井ヶ浜遺跡や綾羅木郷遺跡から、弥生人骨や朝鮮半島南部由来の副葬品が出土しても驚くに値しません。なぜなら朝鮮半島南部も縄文語圏、倭人と同族が居住する地だったからです。それは日本全域の縄文人も同様で、骨格が違うからと言って、言語も異なるとは限りません。

 筆者が進めた縄文語解釈では、東夷南蛮、朝鮮半島南部、日本全域の人々は、縄文語を共有していた可能性が高いことを示しています。言語を共有している以上、この地域一帯は、有史以前の太古から、海を越えた交流が続けられていたと考えるのが妥当です。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「唐戸」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【これ(下関市唐戸)も元は九州の唐津が韓津であったように、韓戸または韓門だったものではなかったかと思う】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 「唐津」と「唐戸」の地名由来も「韓」とはまったく関係ありません。地勢を見れば一目瞭然です。

◎縄文語:「唐津」=「カ・チャ」=「曲がっている・岸」
◎縄文語:「唐戸」
=「カ・ト」=「曲がっている・海、湖沼」

or「カ・チャ」=「曲がっている・岸」

 「カ=曲がっている様」は地名に頻繁に登場しています。川、山、峰、湖沼が曲がっている様を表現することが多いようです。
 下関市の「唐戸」は後世の開発で地勢が分かりにくいので、他地域の同地名も併せてみてみます。

◎縄文語:「唐戸」 =「カ・テュ」=「曲がっている・峰」※丸山

 の地勢も散見されます。


■唐津湾 ※曲がっている岸。


■唐戸(下関市)※曲がっている海、岸。後世の開発で地勢が不分明。


■唐戸(大分県姫嶋)※曲がっている海(湾)、岸。北浦の地勢。


■唐戸川(滋賀県甲賀市)※曲がっている岸、峰の川。


■唐戸島(宮城県松島市)※曲がっている海(湾)、岸。


■唐戸(三重県津市)※丸山。


■唐戸(香川県多度津町)※曲がっている岸、岬。丸山の意か。


■唐戸(高知県高知市)※丸山。


■唐戸崎(徳島県吉野川市)※曲がっている峰。


■唐戸(奈良県五條市)※曲がっている峰。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百四回『漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【山口県】長門国一宮住吉神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「住吉神社」について(wikipedia)
【『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后住吉三神(住吉大神)が神託してその渡海を守護し、帰途、大神が「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を神主の長として、その場所に祠を建てたのを起源とする。】

○「住吉神社と大内氏」について(『山口県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【この社殿は一三七〇(応永三)年、大内弘世が再建し、数次にわたり修理をへたものだが、よく創建当初のおもかげを残し、室町初期の神社建築の特異な様式を伝えている。】

△「住吉神社と大内氏」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(『日本書紀』の神功皇后の三韓征伐の条は)典型的な皇国史観によるそれで、いまどきこのようなことをそのまま信じる者はいないであろう。とすると、「この社殿は一三七〇(応永三)年、大内弘世が再建し」ということがある意味をもってくることになる。
 すなわち、長門国一の宮となった住吉神社はもしかすると、この地一帯を領していた大内氏族の氏神で、はじめはその祖である百済聖明王などを祭ったものであったかも知れない。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 『日本書紀』は北方系渡来人の出自を正当化するために編纂されているので、その神格化のために神功皇后と住吉三神の物語が創作されているだけです。

 上記、住吉神社の祭神が”百済の聖明王”である説は単なるこじつけですが、六~七世紀にヤマト王権を簒奪した北方系渡来人も”百済王族”と近しい存在だと考えられるので、偶然ですが当らずとも遠からずというところです。

 気合いを入れてこじつけなくても、基本的に神社はすべて”北方系”です。なぜなら、その由緒は例外なく百済王族語、高句麗語と特徴を共有する(上代)日本語で書かれていて、その多くは記紀風土記の物語と連動していているからです。

 「住吉三神」はもともと先住民による六甲山の自然崇拝です。

◎縄文語:「底筒男」=「ソコッ・テューテュ・オ」=「滝壺の・出崎の・尻」
 =滝がたくさんある出崎のふもと
◎縄文語:「中筒男」=「ナィコッ・テューテュ・オ」=「水のない涸れた沢の・出崎の・尻」
 =断層谷のある出崎のふもと
◎縄文語:「表筒男」=「ウェン・テューテュ・オ」=「険しい・出崎の・尻」
 =岩崖の出崎のふもと

 これらは、六甲山の言い換え表現です。

◎縄文語:「六甲山」=「ルッケイ(山)」=「崩れているところ(の山)」=断層の六甲山
◎縄文語:「向津(峰)」(六甲山の別名)=「ムィェ・カィ・テュ」=「山頂が・波のように折れ砕けている・峰」

 つまり、住吉神社の本宮をさぐるのであれば、それは現在の三大住吉神社(福岡、山口、大阪)ではなく、六甲山のふもとにある本住吉神社ということになります。


■六甲山蓬莱峡   ■六甲山蓬莱峡   ■六甲山風吹岩(芦屋ロックガーデン)   ■六甲山馬の背(須磨アルプス) 

 大阪の住吉大社はもともと「スミノエ」と読んだようです。

◎縄文語:「住吉」=「スマ・ノッ・ヘ(orエ)」=「岩の・岬の・頭」

 上町台地の岬とすればピッタリの表現です。六甲山の形容としても合致します。

 一方、他の三大住吉神社を見ると、長門国(山口県)一の宮の住吉神社、筑前国(福岡)一の宮の住吉神社のいずれも、”岩”との関係を見つけることができません。
 縄文語と漢字表記が一意で結びつけられていないということは繰り返し述べていますが、これら住吉神社にも当てはまるようです。

 それぞれの住吉神社の周辺地名を見ると、住吉神社の周辺が湿地帯であったことが分かります。

 山口県の住吉神社の場合は、前項で見たように、「綾羅木」の地名があります。住吉神社の西方の地名です。

 ◎縄文語:「綾羅木」=「アゥ・ヤ・ラケ」=「枝分かれた、隣の・陸岸の・低地」

 その周辺にも湿地を表現する地名があります。

 ◎縄文語:「富任」=「トマ・ト」=「湿地の・湖沼」
 ◎縄文語:「安岡」=「ヤチ・オカ」=「泥の・跡」
 ◎縄文語:「有富」=「ア・トマ」=「一方の・湿地」


 ■住吉神社(山口県下関市)


 そして、福岡の住吉神社の周辺。

 ◎縄文語:「福岡」=「プケ・オカ」=「大水、洪水の・跡」
 ◎縄文語:「御供所(町)」=「コッ・クッチャ」=「窪地の・入口」 ※住吉神社の北。
 ◎縄文語:「別府」=「ペペ」=「水たまりがたくさんあるところ」 ※住吉神社東方。
 ◎縄文語:「吉塚」=「ヤチ・テュ」=「泥の・小山」 ※住吉神社東北方。

 これらの周辺に湿地のある住吉神社の解釈としてふさわしいのは、

 ◎縄文語:「住吉(神社)」
=「サ・ヤチ」=「隣の・泥」
※隣の湿地の意
or「ス・ヤチ」=「西の・泥」※西の湿地の意
 
 です。残念ながら大内氏の祖を祭ったものではありません。


■住吉神社 (福岡市)




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百五回『漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【山口県】百済部神社・韓の浦・阿多田古墳・白鳥古墳・熊毛半島~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「百済部神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【平生湾に面した平生町をたずねたのは、その湾口に百済部神社があったからだった。<中略>
 神社のこちらの集落も、百済部(くたなべ) となっているところであった。<中略>
 百済部のそこの平生湾は「韓の浦」でもあったところで、そのことが『万葉集』にこうある。

 沖べりり汐みちくらし韓の浦
 あさりする鶴(たず)鳴きてさわぎぬ】

○「阿多田古墳/白鳥古墳」について(『平生町勢要覧/ごあいさつ』一九六五年当時の市長松岡英介 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【平生町は歴史と観光に興味深い処で、四千年前の岩田遺跡、二千年前の弥生時代から一三〇〇年代にわたる白鳥古墳阿多田古墳、東前寺古墳などがあり、中でも白鳥古墳は周防の県主の墓といわれております。
 又、伝説に富む用明天皇の皇妃般若姫の陵も町内般若寺にあり、姫の供奉の遺臣この地に留まり、その名が今は地名として数々残っております。平生湾は古代朝鮮貿易の基点でありまして、百済国の領事館風のものもあった証拠があります。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 言うまでもなく、「百済部神社」も「韓の浦」も名称由来は朝鮮半島とはまったく関係ありません。近隣の「白鳥古墳」「阿多田古墳」も間違いなく縄文語由来ですから、その築造年代(五世紀)で縄文語の使用状況が分かります。

 ”百済国の領事館風のものもあった”というのは地名に引きずられた結果でしょうか。であれば、その根拠は甚だ怪しいと言わざるを得ません。

 所在地の平生町は、江戸期の大規模な干拓により、その地勢が大きく変わっています。干拓前は、平生町の平地の大部分は海だったようです。

■「平生町の干拓」について(※山口県の文化財HP/『土手町南蛮樋』)
【 1658年(万治1)に8年の年月をかけて干拓された平生開作は、120ヘクタールの耕地と20ヘクタールの塩田をもつ周防東部最大の広さである。】


■平生町周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)
※標高差の色分け(青)全域が干拓地を指している訳ではありません。



 「百済=湾や湖沼の入口」や「韓=曲がっている様」は、頻繁に地名に登場します。

◎縄文語:「百済部(神社)」=「クッチャ・ぺ」=「湾や湖沼の入口の・水」
◎縄文語:「韓(の浦)」 =「カ」=「曲がっている(浦)」

 繰り返しになりますが、ほぼすべて地名の「白」は「山裾」の意です。他に、「新」「塩」「将」などが充てられます。”新羅神社”は”山裾の神社”、”白浜”は”山裾の浜”です。

 「白鳥古墳」は大阪、愛知にもありますが、いずれも山裾(羽曳野丘陵、熱田台地のふもと)にあります。ヤマトタケル伝説も”山裾の川岸の高所”あるいは”山裾の海、湖沼”の地勢に「白鳥」物語を結びつけただけです。

◎縄文語:「白鳥(古墳)」
=「シ・オ・タオリ」=「山(大地)・裾の・水際の高所」

or「シ・オ・ト・オロ 」=「山(大地)・裾の・海、湖沼・のところ」
 ※五世紀前半、前方後円墳、墳丘長120m
◎縄文語:「阿多田(古墳)」=「アッチャ・タ」=「対岸・の方」
 ※五世紀、前方後円墳、全長40m ※当時は島だった。
◎縄文語:「神花山(古墳)」=「チゥ・カ・ヤマ」=「水流、水脈・のほとりの・山」
 ※五世紀前半、前方後円墳、墳丘長30m


 百済部神社やこれらの古墳は、熊毛半島の付け根にあります。
 「熊」も何度も登場しています。熊野信仰の流行でつけられた神社名、地名を除けば、「クマ」はほぼすべて「横に平べったい山」の意です。熊野本宮大社も熊野川対岸の山の地勢を指しています。

◎縄文語:「熊毛(半島)」=「クマ・ケ」=「横に平べったい山・のところ」

 
■熊毛半島 ※横に平べったい山。


■和歌山熊野本宮大社周辺。「クマ・ノッ=横に平べったい・岬」 ※熊野本宮大社から見て熊野川対岸。  


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百六回『漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【山口県】下松・妙見信仰・妙見宮・金輪神社・鼎大明神・琴平神社・桂木山(宮ノ洲山)・大日古墳~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「下松/妙見信仰」について(『防長の琳聖太子伝説』二宮啓仁 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【『大内譜諜』に、琳聖太子の来朝に先立つこと二年(すなわち推古十七年)、この下松の海辺(都濃郡鷲頭青柳浦)の松の木に、大星が降りかかって七日七夜光り輝いた。そのとき神がかりした巫が北辰妙見であることを言い、異国の王子が来朝するので、その守護のために来臨したのであるとの託宣を述べた。土人はそこで社を建て、その星を北辰尊星大菩薩とまつり、浦の名を降松(くだまつ)と改めたのである。とある。
 ところでその大星降臨の地は、今の下松駅のすぐ北側で、いま金輪神社が建てられている。<中略>老松一本の傍に新しい石碑があって、それに「下松発祥の地、七星降臨鼎之松」と刻されている。<中略>
 ところで巫の託宣のとおりに、やがて琳聖太子が来朝したので、いよいよ妙見信仰は盛んとなり、その神霊を桂木山宮ノ洲山)にまつり、ついで高鹿垣(たかせがき)山に写して社殿を建てたが、その北辰妙見の光輝は赫々として、海をわたる船の航海を悩ますほどであったので、三たび移して鷲頭山に祭ったという。
 鷲頭山最奥の上宮には北斗七曜石と虚空蔵菩薩とを、そして中宮には聖徳太子・推古天皇・妙見尊星王・琳聖太子・千手観音菩薩をそれぞれ祭神としている。<中略>
 維新の神仏分離令によって、まず社坊の鷲頭寺が社を文理して市内の中市に去り、祭神は天御中主神一体と改まり、社名は下松神社とかわった。】

×「下松/百済津」について(『山口県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【はじめ北辰星のあまくだった松は、降臨松・連理松・相生松の三樹が鼎立していたため鼎の松ととなえられた。鼎大明神をまつった金輪神社としてこんにちに及び、青柳浦の地名を降臨松とあらため、さらに下松とかくようになったと伝えられている。なお、下松の地名については、百済津説もある。百済の往来の要港でだったため、くだらつがなまって、下松になったという説である。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 ”松”は字義通りの「松」ではありません。「マツ=波打ち際」のことです。よって「鼎の松」などそもそも存在しません。残念ながら朝鮮半島の百済ともまったく関係ありません。


 「下松」と「鷲頭(庄)」が言い換え表現となっています。

◎縄文語:「下松」=「クッ・タ・マーテュ」=「崖・にある・波打ち際」
◎縄文語:「鷲頭(庄)」=「ウェイシ・チャ」=「水際の崖の・岸」

 金輪神社南東約800mに「琴平神社」があります。東方に「琴平町」があり、その南には「桂木山(宮ノ洲山)」があります。

◎縄文語:「琴平」=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」
◎縄文語:「桂木(山)」=「コッチャ・ケ」=「谷の入口・のところ」
◎縄文語:「宮ノ洲(山)」=「メ・ヤ・ノッ」=「泉の・岸の・岬」

 「琴平」も「下松」とほぼ同義となっています。香川県の金刀比羅神社の場合は所在地の象頭山を表現しています。

 「金輪神社」と「鼎の松」も同義です。

◎縄文語:「金輪(神社)」=「カンナ・ワ」=「上にある・岸」
◎縄文語:「鼎の松」=「カンナ・マーテュ」=「上にある・波打ち際」


■金輪神社周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


 「青柳浦」は

◎縄文語:「青柳」=「アゥ・ヤケ」=「枝分かれた、隣の・岸辺」

 の意です。

  「金輪神社」の所在地は北斗町ですが、隣接地名には「豊井」があります。

◎縄文語:「豊井」=「トヤ・エ」=「海岸の・頭(先端、岬)」

 「北斗町」の町名は妙見信仰に影響されたのでしょうか。しかし、上記妙見信仰の物語は縄文語地名を上書きするためのデタラメ創作です。本当にタチが悪い。

 大内氏の祖とされる「琳聖太子」は百済聖明王の第三王子ということになっていますが、それを語っているのは朝鮮半島と商売をしたかった大内氏周辺だけなので、現在では単なる系譜の装飾と判断されています。それをもとに何を語っても信憑性がありません。

◎縄文語:「妙見」=「ムィ・オ・キ」=「頂が・たくさんある・山」

 「妙見」は北極星、北斗七星の信仰ではなく、縄文語地名由来です。

 これは、金輪神社後背の大谷山、茶臼山、鷲津山の山並みを表現したものです。それを渡来信仰である「妙見菩薩」が北極星や北斗七星の神を語り、本来の地名由来をうやむやにしている訳です。


■妙見信仰の金輪神社(山口県下松市)後背の大谷山、茶臼山、鷲津山の山並み。※頂がたくさんある山。


 また、防府市下右田の片山にも妙見宮があったようです。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「妙見宮(下右田)」について(『防長の琳聖太子伝説』二宮啓仁 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【下右田の片山にも琳聖太子ゆかりの北辰星をまつる妙見宮のあったことが『注進案』にある。<中略>昭和四十二年に上右田の熊野神社の境内社になり、現地にはいま社趾のみである。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 説明は無用です。ストリートビューをご覧ください。

妙見宮のあった防府市下右田の右田ヶ岳(中央) ※頂がたくさんある山。片山は右田ヶ岳の西南麓(山の左側)。



 防府市国衙町にも岸津妙見社があります。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「岸津妙見社」について(『山口県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
岸津妙見社は、大内氏が祖と自認する琳聖太子が上陸した地にまつったものといわれる】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 これも説明は無用です。ストリートビューをご覧ください。
 そもそも存在しない人が上陸した浜など存在しません。「妙見=頂がたくさんある山」にかこつけて、琳聖太子の物語を語っているだけです。


■岸津神社(防府市国衙町)後背の山。※頂がたくさんある山。

 ちなみに「岸津」も解釈すると

◎縄文語:「岸津」=「ク・チャ」=「川向こうの・岸」=対岸

 となります。


■岸津神社。※対岸。



 日本全国の神社仏閣は多かれ少なかれ、この類です。実は、ありがたそうな由緒や儀式はまったくのデタラメで、その実態は仰々しい名前と建物だけの中身のない張りぼてです。神社仏閣は、縄文語地名を上書きするために、漢字表記にこじつけた居もしない神仏を語り、節操なくあらゆるウソをつきます。聖徳太子の伯父の敏達天皇あたりから北方渡来系となっていますので、法隆寺、四天王寺、飛鳥寺等、初期の寺院の時代から大ウソつきなのです。(※決して現在信仰している人や携わっている人々に罪がある訳ではありません。)

 
 日本三大妙見は、相馬妙見(福島県相馬市)、能勢妙見山(大阪府豊能郡能勢町)、八代神社(熊本県八代市妙見町)のようですが、相馬妙見は相馬氏が妙見を信仰した結果なので、地勢とは無関係です。熊本の八代神社は、後背の横岳に上宮を設けたのが始まりです。いずれも「妙見=頂がたくさんある山」の意です。

 全国の妙見信仰の地を調べた訳ではありませんが、他の神社仏閣の例から、演繹的に判断はできます。信仰の流行で相馬妙見のように地勢と一致しない例もありますが、大元は間違いなく縄文語地名です。以下の例をご覧下さい。

 主な神社と初期寺院の縄文語解釈例も併せて再掲します。


■日本三大妙見/能勢妙見山(妙見宗総本山 本瀧寺/大阪府)の山並み ※頂がたくさんある山。


■日本三大妙見/八代神社(妙見宮)後背の山並み ※頂がたくさんある山。



 以下おまけ。

妙義山(群馬県)※頂たたくさんある山。
Mt. Myogi 2

妙高山遠景(新潟県) ※「ムィ・オ・コッ=頂が・たくさんある・窪地」

【参考】神社の縄文語解釈
◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャ」=「川端」※全国の八幡神社の地勢。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カ・ケ」=「その上・のところ」(高台)※奈良の春日大社の地勢。
◎縄文語:「愛宕(神社)」=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or尾根の先端の突起の山)」 ※全国の愛宕山の地勢。
◎縄文語:「熊野(大社)」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」 ※熊野本宮大社前の山。
◎縄文語:「白山(神社)」=「ハ・サン」=「浅い・平山、出崎」(薄っぺらな平山)※白山の地勢。全国の白山神社(から望む景色)の地勢。
◎縄文語:「薬師(神社、寺)」=「ヤ・ケ」=「岸の・末端」(岸辺) ※奈良の薬師寺ほか、全国の薬師寺、薬師神社の地勢。
◎縄文語:「金刀比羅(神社)」=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」※香川象頭山の地勢。
◎縄文語:「新羅神社」=「シ・オ・ケ=山・裾・のところ」
◎縄文語:「高麗神社」=「コ・マ」=「湾曲した・谷川」

【参考】初期寺院の縄文語解釈
◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩寺」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。


 琳聖太子の墳墓の説がある大日古墳について。

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
△「大日古墳」について(『現地案内看板』文部省社会教育局文化財保存課 斉藤忠 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【大日の丘陵上に在って、ほぼ南西西に面する前方後円型の古墳である。後円部に南面して、横穴石室が存する。石室は羨道と玄室の二部に分れ、花崗岩の割石で以って築成された壮大なもので、羨道の長さ約三十一尺、幅約四尺八寸、高さ約四尺七寸、玄室のほぼ中央に凝灰岩製の石棺が安置されている。棺は刳抜式で、蓋、身の二部より成り、蓋は屋根型を呈し、前後及び左右両側に二個大型の縄掛け突起が造り付けられている。
 この古墳は、百済王子琳聖太子の御墓と伝えられている。横穴式で、石棺を具えたものとしては、此の地方に於ける希有の例に属する。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 ”琳聖太子”は朝鮮半島との商いを望む大内氏の経歴を装飾するための物語なので、実在はしないとされています。よって、その墳墓のはずはありません。

 縄文語解釈すると、当地の県主であった「土師猪手」と古墳名、地名の「大日」が言い換え表現となっていて、周辺地勢とも一致します。

◎縄文語:「大日(古墳)」=「ティネ・テュ」=「(泥で)どろどろしている・岬」
◎縄文語:「土師猪手」=「ポッチェ・エテュ」=「(泥で)どろどろしている・岬」

 大日古墳周辺には池沼が点在しています。


■大日古墳 ※池沼が点在する峰。



■「大日古墳の被葬者」について(wikipedia)
【被葬者は明らかでないが、『防長風土注進案』に載る伝承の中には百済の琳聖太子(大内氏祖)の墓にあてるものがあるほか、当地の県主である土師猪手(大仁土師娑婆連猪手)に比定する説、来目皇子(第31代用明天皇皇子)の殯宮に比定する説(宮内庁は桑山塔ノ尾古墳出土遺物埋納地に治定)などが挙げられている。】

■「琳聖太子」について(wikipedia)
【現在の研究では、大内氏は周防国の在庁官人が豪族化して勢力を拡大したという結論に至っており、琳聖太子という人物名は、当時の日本や百済の文献にみることはできない。 大内氏の百済との繋がりを名乗り始めた大内氏当主が、朝鮮半島との貿易を重視した大内義弘であるとみられる。その中でより朝鮮半島(当時は高麗)との関係を重視するため、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称したとみられる。】



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百七回『鴨神社、加茂神社のデタラメを暴く!”カモ”は単なる”丸山”、”カモ大明神”などいない!~【山口県】鴨神社・賀茂別雷命・百済皇后(聖明王妃)・宝鏡・磐船・久津村~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「賀茂神社・百済聖明王妃」について(『百済王族の来日伝説』二宮啓仁 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(百済聖明王の)王妃薨じて一世紀半の歳月が流れ延暦七年(七八八)に至って王妃をまつる神祠をまず久津村に建てたという。中央に王妃が護持し来った十一面観世音菩薩をまつり、磐船(実は百済より将来の銘石)と宝とを左右におき「百済皇后」と称し信仰した。
 ところで、それからわずか十数年経た大同三年(八〇八)の四月、今度はその社殿に京都の下・上加茂大明神を迎えていつきまつることになった。そしてそれは一つの奇蹟によって実現したのであるという。すなわち白い鴨が二羽、雲間から飛来して社に入り、農民たちが射おとそうとして騒ぐうちに姿を消してしまった。ところがその夜、王妃に供奉した家々のものが一様に霊夢を蒙り、我は京都の下・上鴨大明神なり云々のお告げがあり、ここにその分霊を勧請するに至ったという。そして、鴨神社の祭神は次のようになった。
 主神として下・上の鴨大明神二柱、そして左右に、(1)百済聖明王、(2)聖明王妃(宝鏡をまつる)、(3)北辰妙見(琳聖太子)、(4)琳聖太子妃、および苦労大権現(銘石)、(5)十一面観世音の六柱をまつった。従って、延暦七年の三体に対して、聖明王と琳聖太子夫妻があらたに加えられたわけである。<中略>
 (百済から渡来した)王妃の長途の旅とあれば、やはり供奉の面々がいなければならない。そして彼らは妃の厚狭永住に伴ってことごとく当地に定着し、その子孫もまた神祠をまもる任に当った。】

×「鴨神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【もとは「百済皇后」と称して信仰したその祠が鴨神社となったのは、久津村のその地が京都・加茂(鴨)神社の社領となったからであった。そこでその鴨神社の祭神も主神が「下・上の鴨大明神二柱」となったが、しかしながら、琳聖太子系の祭神はそれでさらに多くなって強化された。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 上記に信憑性がまったくないのは言うまでもありません。京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)からしてデタラメなので、その鴨大明神が霊夢となって現れるなどということはあり得ません。

 「鴨」は「高麗」と同様に、縄文語の「コ=湾曲している様」に充てられることが多い漢字です。その場合の解釈は二種。

◎縄文語: 「賀茂/鴨/加茂」
=「コ・マ」=「湾曲している・谷川」
or「コ」=「湾曲する様」
=丸山

 京都の上賀茂神社の由緒を見てみます。

■「賀茂別雷神社(上賀茂神社)」について(wikipedia)
【社伝では、神武天皇の御代に神山(こうやま、賀茂山ともいう)の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。】

■「賀茂別雷命」について(wikipedia)
【『山城国風土記』逸文には、賀茂別雷命について次のような記述がある。賀茂建角身命(賀茂御祖神社の祭神)の娘の玉依姫(同じく賀茂御祖神社の祭神)が石川の瀬見の小川(賀茂川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた。それを持ち帰って寝床の近くに置いたところ玉依姫は懐妊し、男の子が生まれた。これが賀茂別雷命である。賀茂別雷命が成人し、その祝宴の席で祖父の賀茂建角身命が「汝の父と思はむ人に此の酒を飮ましめよ(お前のお父さんにもこの酒をあげなさい)」と言ったところ、賀茂別雷命は屋根を突き抜け天に昇っていったので、この子の父が神であることがわかったという。丹塗矢の正体は乙訓神社の火雷神であったという。】

 これらの物語の正体を暴きます。上賀茂神社の背後にはズバリ「丸山(御生山)」という名の山があります。


■上賀茂神社(京都)背後の丸山



 あくまで「上賀茂神社北方の”神山”に降臨した」のだと強情を張るならば、それも見てみます。残念ながら、こちらも「丸山」です。

 つまり、いずれにしても縄文語の「コ=湾曲している様(丸山)」由来であることが分かります。

 賀茂別雷命の「別雷」も縄文語解釈してみます。

◎縄文語:「別雷」 =「ワッカ・エ・イカ・テューテュ」=「水・そこで・越える・出崎」

 「川を渡るところの山」程度の意味です。加茂川沿いの上賀茂神社の地勢そのままです。賀茂別雷命の由緒がまったくのデタラメであることが分かります。

 傍証として他の丸山の例もいくつかご紹介します。


■神山(上賀茂神社北方約2km) ※丸山。


■鴨居
(神奈川県横須賀市)※浦賀城跡の丸山。
◎縄文語:「鴨居」=「コ・エ」=「持ち手の曲がりのような・頭(岬)」 

■大磯高麗山  ※持ち手の曲がりのような湾曲した山(丸山)。


■JR山陰本線「胡麻」駅前の山 ※丸山。

■福岡町加茂
(富山県高岡市)※湾曲した山。丸山。鴨城跡の丸山。 
■鴨阪
(兵庫県丹波市)※余田城跡の丸山。
◎縄文語:「鴨阪」=「コ・サン・ケ」=「持ち手の曲がりのような・出崎の・ところ」

瓶山(かめやま)(米子市) ※湾曲した山、丸山。


■鴨庄
(山口県山陽小野田市)※丸山の裾。
◎縄文語:「鴨庄」=「コ・シ・オ」=「持ち手の曲がりのような・山の・裾」 
■鴨庄
(香川県さぬき市)※丸山の裾。
◎縄文語:「鴨庄」=「コ・シ・オ」=「持ち手の曲がりのような・山の・裾」 

 下鴨神社はwikipediaを見ると以下のようにあります。

■「賀茂御祖神社(下鴨神社)」について(wikipedia)
【京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置されたともされる。また一方、文献上の初見は『続日本後紀』承和15年(848)ともいう。 】

 残念ながら御蔭山の地勢は確認できていません。


 話を山口県に戻します。
 なぜ、山口県の鴨神社に京都の下・上鴨大明神が登場することになったのか。それは、山口県にも「コ=湾曲する様(丸山)」があったからです。

 そして、その左右になぜ「宝鏡」と「磐船」が祭られることになったのか。

◎縄文語:「鏡」 =「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」 ※物見山周辺の地勢。弓の形の山。
◎縄文語:「磐船」 =「イワ・ポィナ」=「岩山の・石」 ※三条山山頂の大岩。

 下のストリートビューをご覧下さい。左に「鴨=丸山」、右に「鏡=弓の形の山」があります。 そして、丸山の左側は民家と樹木で隠れていますが、三条山に続いています。その三条山の頂には「大岩」があります(→google 画像検索)。

 つまり、左から、

「磐船(大岩の山頂[三条山])」──「鴨(丸山)」──「鏡(弓の形の山[物見山周辺])」

 と並んでいることになります。

 これが、鴨神社由緒の創作物語の元ネタです。鴨大明神など初めから存在しません。そこに丸山があっただけです。

 また、「鏡山=弓の形の山」の類例も全国にあるので、解釈確度は非常に高いと言えます。(※『日出ずる国のエラーコラム[総集編]』参照
 山口県の物見山は、カグツチ(「カッ・ク・テューテュ=形が・弓の・出崎」)を祭る京都の愛宕山にそっくりです。


■丸山と弓の形の山(物見山)


京都市愛宕山と小倉山 ※弓の形の山。


 また、なぜ百済の聖明王妃が登場することになったのか。それは地名が「久津村」だったからです。

◎縄文語:「久津(村)」 =「クッチャ」=「湾や湖沼の入口」

  この周辺は、山中に池沼が点在しています。その入口という意味です。 朝鮮半島の百済とも同語源です。

 さらに、想像をたくましくすれば、「百済皇后」というのは、

◎縄文語:「皇后百済」 =「コッコッ・クッチャ」=「たくさんの窪地の・入口」

 と解釈することも可能です。


■久津村周辺(山陽小野田市鴨神社周辺)※池沼の入口。



 これらのウソをついたのは誰か。『百済王族の来日伝説』に登場するような、”聖明王妃に供奉したとする方が都合がよい人々”。それは、言うまでもなく、百済系渡来人です。

 彼らが渡来して、縄文語地名に漢字表記にこじつけた渡来系の神を当てはめ、上代日本語の解釈を流布しました。ヤマトとまったく同じことが地方でも行われていたということです。

◎縄文語:「百済」 =「クッチャ」=「湾や湖沼の入口」

 と朝鮮半島の百済も縄文語解釈可能なのは、もともと百済は南方系の倭人と同系の人々が居住する地域だったからです。扶余、高句麗系の人々が南下して百済国を建てました。よって百済は庶民と王族で言語が異なったと言われています。庶民の縄文語王族の百済語(上代日本語と同系)日本とまったく同じ構図です。

 ところが、この鴨神社も明治時代に至って琳聖太子ら百済系の人々を祭るのをやめさせられたようです。「外国人を神として祭るのは許されぬ」「琳聖太子一族の神霊はすべてこれを廃棄した」(『百済王族の来日伝説』二宮啓仁 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)ということですが、「?????」しかありません。

 神社はもともと”百済系の為政者周辺の出自を正当化するため”に設けられたものです。百済語、高句麗語と同系の上代日本語で書かれた記紀風土記のデタラメ神話と由緒が密接に連携しているのがその証拠です。百済系である神社が百済系の琳聖太子一族を排除するというのは、”神社(日本の神々)が先住民系である”という日本国民の大いなる勘違いが作用している結果です。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百八回『秦氏のウソを暴く!日本全国秦氏が活躍するのは縄文語地名の水辺だ!~【島根県】幡屋神社・畑野・辛畑・古機・御機谷・神機谷・広機・長機・高麻山(高麻神社)~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「島根県のハタを冠する地名」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【島根県の地図をみると、あちこちに幡・畑(はた)・畑野・辛畑などという地(名)があって、ざっとみただけでもそれが二十ヵ所以上もあるばかりか、一畑電鉄というものもあったりしている。
 地図のそれをみた私は、それらの地は『和名抄』や『出雲国風土記』にみられる波多郷と関連があるのではないか、つまり、出雲にも朝鮮語バタ(海)からきたという波多=秦氏族lがひろがっていたのではないかと思った。しかし、秦氏族のことはそれまでにも何度かみていたので、「またか」と思われるのもいやだったから、そのままということにしたのだった。】

×「幡屋神社」について(『神国島根/幡屋神社由緒・沿革』島根神社庁 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【創立年代は不詳であるが、神代において、天孫瓊々藝尊の降臨の際、五伴緒の神の内、太玉命の率いられた後裔忌部氏の一族がこの幡屋(機殿とか幡箭とか書いた時がある。出雲風土記には幡箭山と記されている)に止まって織布を職としていた。(近くに高麻山があるー植林した山)これが瓊々藝尊を斎い奉ったのがはじめであり、今日に至っている。(社の近くに古機、御機谷、神機谷、広機、長機等の地名がいまもなお残っており、神機谷に前記五伴緒の神を奉斎した五人若宮神社がある)】

×「幡屋神社」について(『幡屋神社由緒書』幡屋神社 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【幡屋村の西方、加茂村との村境となっている高麻山高麻神社は、同山の頂上分水天にあって、往古その村境を争い、社地の大部分はいま加茂村に属せり。高麻山の名の如くこの辺一帯、麻の適地なりしことは太古より知られたり<中略>
 天孫降臨以後は忌部氏この地に於て、製麻機織の業に従い、以て天孫に奉したるものなり。降りて応神天皇の御代に至り、融月君帰化し、絹布を製作しこれを献ぜしに天皇これを嘉賞し秦の姓を賜はりしが、この値の織法もまた秦氏の影響を受け、その部民の斬新なる織法を伝へたり。その証としては、当社に太古苛奉仕せし神職は秦氏として、連綿今日に及べり】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 あえて言います。またか。

 相変わらず日本全国に存在するありきたりな「ハタ」を冠する地名が”秦氏”に結びつけられています。何度も言いますが、これは間違いなく持論に都合の良いこじつけ、牽強付会です。

 日本地名の「ハタ」の多くは縄文語の「ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」由来です。それだけでなく、秦氏の得意な「機織り」、支族の「服部」も同語源です。朝鮮語の「バタ(海)」でさえもその可能性があります。日本の歴史は古代人の言葉遊びにいつまで付き合わなければならないのでしょうか。

 秦氏が活躍するのは日本全国の”水辺”です。秦氏の拠点である京都の太秦周辺も水辺です。

◎縄文語:「秦」=「ハッタ」=「ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」(桂川)
◎縄文語:「太秦」=「ウテュ
・マサ」=「間の・水辺の草原」(桂川と支流、または鴨川の間の草原)
◎縄文語:「桂(川)」 =「コッチャ」=「谷の入口」(保津峡の入口)
◎縄文語:「松尾」 =「マーテュ・オ」=「波打ち際の・尻」(桂川の岸辺)

 『日本の中の朝鮮文化』に登場する「畑野」「辛畑」「一畑電鉄」。いちいち地勢を確認しなくても見当がつきます。

◎縄文語:「畑野」 =「ハッタ・ノッ」=「淵、水が深くよどんでいるところの・岬」
◎縄文語:「辛畑」
=「カ・ハッタ
=「曲がっている・淵、水が深くよどんでいるところ」
or「カン・ラ・ハッタ=「上にある・低地の・淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「一畑」 =「エテュ・ハッタ」=「岬の・淵、水が深くよどんでいるところ」

 そして、幡屋神社。
 幡屋神社はかなり山奥にあります。一見、「水辺」とは無関係に見えますが、下の地図をご覧ください。幡屋神社の前を流れる幡屋川は、斐伊川の支流の赤川のまたその支流です。斐伊川は氾濫を繰り返した川で有名です。その流域の標高地形を見れば一目瞭然です。斐伊川流域は、宍道湖、中海周辺で最も内陸に入りこんでいる低地と言えます。

 そして、その低地の先に幡屋神社がある訳です。周辺の「ハタ」のつく地名もそれを表しています。決して秦氏の活躍の名残ではありません。

◎縄文語:「古機」 =「フ・ハッタ」=「丘の・淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「御機谷」 =「オン・ハッタ・ティネイ」=「古い・淵、水が深くよどんでいるところの・泥」
◎縄文語:「神機谷」 =「カン・ハッタ・ティネイ」=「上にある・淵、水が深くよどんでいるところの・泥」
◎縄文語:「広機」 =「ピ・ハッタ」=「傷状の(細い)・淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「長機」 =「ノッケ・ハッタ」=「岬の・淵、水が深くよどんでいるところ」


 これらを総括すると


「上流の標高の高いところにある山に囲まれた細い淵」

 ということになります。


■幡屋神社周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 幡屋神社由緒には「高麻山に麻を植えた」とありますが、そんな訳ありません。日本の歴史はオヤジギャグレベルです。

◎縄文語:「高麻山」 =「トセ・ヤマ」=「突起した・山」

 見たままです。
 つまり、「忌部氏がこの地で製麻機織をした」という可能性は極めて低いということになります。

 「ハタ」のつく苗字についても、縄文語の「ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」由来の可能性が高く、京都の秦氏に結びつける説は極めて怪しいと言わざるを得ません。なぜなら、他の苗字の由来の多くが縄文語地名由来と考えられるからです。


■高麻山(中央) ※「トセ・ヤマ」=「突起した・山」





騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第四百九回『”妙見”は縄文語地名の”頂がたくさんある山”!北極星も北斗七星もデタラメ信仰だ!~【徳島県】妙見山・撫養城・阿波、安房~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「妙見山・撫養城」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【鳴門市の中心部が眼下となる妙見山頂の鳥居記念博物館(当時)は、そこはもと撫養城だった<中略>
 私はこれまで武蔵国の武蔵が朝鮮語モシ・シ(麻の種)からきたものであるということなど、何度か鳥居龍蔵氏の文章を引用したことがある<中略>
 妙見山頂のそこには妙見神社がある。
 この「妙見」は長門・周防などにとくに多くみられる。そこの豪族だった大内氏族が信仰したものだったからで、その大内氏の祖となっている百済聖明王の第三子琳聖太子がもたらしたという、北辰信仰のそれである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 ”武蔵”は「麻の種」?
 ”忌部氏の始祖の天太玉の孫の天富命が阿波や安房で麻を植えた”とかいうデタラメ物語の影響でしょうか。なんでも「麻=総」だそうで、それがもとで「総国」になったとか・・・・・。

 日本の古文献の黎明期はオヤジギャグレベルです。※忌部氏と麻の関係のウソは次回詳説します。

◎縄文語:「総」 =「プッ・サ」=「川口の・浜」

 徳島と千葉に同じ「アワ」という地名があるのは、決して忌部氏が活躍したことが理由ではありません。単に同じ地勢だからです。

◎縄文語:「阿波/安房」 =「アゥ・ワ」=「枝分かれた、隣の・岸」

 「海を挟んだ対岸の岸」程度の意味です。淡路島も「アゥ・テュ=枝分かれた、隣の・峰」、淡海も「アゥ・メ(orモィ)=枝分かれた、隣の・泉(or入り江)」です。

 「武蔵」は

◎縄文語:「武蔵」
=「ムィ・サ・シ」=「入り江の・ほとりの・大地、山」

or「ムィ・サ・ウシ」=「入り江の・浜の・ところ」

 大内氏が百済聖明王の第三子である琳聖太子の後裔を名乗ったのは、朝鮮半島と商売をしたかったからです。琳聖太子は大内氏関連の資料にしか現れない人物なので、実在が危ぶまれています。その人物が妙見を信仰したというのですから、妙見信仰も推して知るべしです。

 山口県でも多くの例を挙げましたが、妙見は例外なく「頂がたくさんある山」の意でした。

◎縄文語:「妙見」=「ムィ・オ・キ」=「頂が・たくさんある・山」

 日本の地名の「妙見」の由来は、縄文語です。北極星も北斗七星も関係ありません。関係あるのは、その漢字表記とデタラメ物語を付加した渡来人です。

 もちろん、鳴門市の妙見山も「頂がたくさんある山」です。


■妙見山(徳島県鳴門市) ※頂がたくさんある山。




 以下、「妙=頂がたくさんある」の例です。山口県の例は第四百六回コラムをご参照ください。

■日本三大妙見/能勢妙見山(妙見宗総本山 本瀧寺/大阪府)の山並み ※頂がたくさんある山。


■日本三大妙見/八代神社(妙見宮)後背の山並み ※頂がたくさんある山。


妙義山(群馬県)※頂たたくさんある山。
Mt. Myogi 2

妙高山遠景(新潟県) ※「ムィ・オ・コッ=頂が・たくさんある・窪地」


 撫養もついでに解釈します。

◎縄文語:「撫養」=「モィ・ヤ」=「入り江の・陸岸」

 地勢そのままです。


■撫養町の妙見山公園 ※入り江の岸。





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◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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