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継体の不審死と磐井の乱~磐井を賊にして王朝交代は隠蔽された~騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム特別編

【 第五百十一回~第五百二十回】

第五百十一回第五百十二回第五百十三回第五百十四回第五百十五回第五百十六回/ 】 ※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
継体の不審死と磐井の乱~磐井を賊にして王朝交代は隠蔽された
第五百十四回「継体、欽明、敏達、王朝交代周辺の縄文語解釈と継体陵墓、今城塚古墳」
  宮内庁から継体天皇の陵墓に治定されているのは大阪府茨木市の太田茶臼山古墳ですが、五世紀中葉の築造なので継体天皇の没年と整合性がとれません。実際の陵墓は、考古学の見地から東北東約二キロメートルほどにある今城塚古墳だとされています。

 この「今城塚古墳」は簡単に縄文語解釈可能です。江戸時代の絵図には「今城陵(いまきのみささぎ)」とあります。

◎縄文語:「今城(塚古墳)」 =「エコ」=「水源」

 奈良の「今木」も同語源で、地勢とも一致しています。決して「最近(今)渡来人がた」ことを意味する「今来」が語源ではありません。単に縄文語地名の仮借漢字表記なので、表記自体に意味はありません。

 そして、これは「継体天皇」の漢風諡号の解釈と完全に一致します。

◎縄文語:「継体」 =「キタィ」=「水源」

 漢風諡号は後世に淡海三船がまとめて命名したというのが通説ですが、これも都合の良い仮借漢字を充てたというだけで、もととなった縄文語を想定するのは妥当です。
 筆者が見るところ、古い歴史書が灰燼に帰したとされる乙巳の変以前の諡号は縄文語解釈が可能で、多くの場合、それぞれの拠点(皇居)や陵墓の名称と深い関係性があります。

 また、継体天皇の前代の「武烈天皇」は、

◎縄文語:「武烈」 =「ペ・エ・ラィ・チゥ」=「水が・そこで・死んでいる・水脈」※水が流れずにたまっている水脈

 と解釈可能なので、「継体天皇」の諡号も鑑みれば、”王統を水流で表現”していると捉えることもできます。つまり、前代武烈天皇で水脈が死んで、次の継体天皇で新しい水源となったということです。
 ただ、アイヌ語は河口を「入口」と表現するので、「水源」は逆に「最後」を意味したのかもしれません。とすれば、「その系統の最後の大王」ということになります。

 継体天皇の孫とされる「敏達天皇」も水流関連で解釈が可能です。

■敏達天皇の縄文語解釈
◎縄文語:漢風諡号「敏達天皇」=「プッチャ・チゥ」=「入口を欠く・水脈」
◎縄文語:「他田(訳語田)天皇」=「オサッ・チゥ」=「川口が涸れている・水脈」
◎縄文語:和風諡号「渟中倉太珠敷」=「ヌィナ・ク/ペト・タ・モシ」=「隠している・人/川口を・切る・国の端」

 敏達天皇の兄弟(用明、推古、崇峻)も一貫して「涸れた水脈、川」の解釈が可能なので、筆者はこの敏達天皇で王権中枢の勢力が南方系から北方系に切り替わったと考えています。(詳しくはこちら→日出ずる国のエラーコラム[総集編]

 ついでに敏達天皇の皇居である「百済大井宮」は

◎縄文語:「百済大井(宮)」=「クチャ・オオ・イ」=「百済人が・多い・ところ」

 と解釈可能です。

 さらに、敏達天皇の父親の欽明天皇を縄文語解釈してみます。

◎縄文語:「欽明天皇」 =「キ ・エ」=「山の・頭」 or「金氏の・頭」  

 これは「金氏の系統の先頭」という意味にも捉えられます。
 金氏と言えば、新羅王族、金官加耶の王族の姓です。金官加耶の比定地は現在の「金海市」です。

◎縄文語:「金海」 =「キ ・ヘ」=「山の・頭」
or「金海(キメ)」 =「キ ・エ」=「山の・頭」

  縄文語では「ヘ=エ=頭」ですから、欽明天皇の解釈と完全に一致します。

 金官加耶と任那の存在は重なるので、任那を北方系渡来人の拠点、日本へ渡るための経由地と捉えれば最適解となります。こう解釈することで、加羅諸国神話と日本神話の類似性にも説得力を持たせることができます。神武東征神話のモチーフにもピッタリです。


 また、欽明天皇の和風諡号である「天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)」はなんとなく日本語で読めてしまいますが、逆にこれは縄文語解釈ができません。

 そして次代が「百済大井宮(百済人が多い宮)」の「敏達天皇(入口を欠く水脈)」で、和風諡号が「渟中倉太珠敷(隠している人川口を切る国の端)」な訳です。

 これらのことから、筆者は欽明天皇が創作された天皇ではないかと疑っています。根拠が希薄なので、さらに傍証を積み重ねる必要があります。


 敏達天皇の甥の聖徳太子あたりから日本建国の動きが激しくなるのは、単に彼らの都合に合わせて身内の活躍が大げさに喧伝されるようになったということを示しているに過ぎません。

 例えば、聖徳太子が建立したとされる法隆寺(斑鳩寺)、四天王寺の名称は、縄文語地名の仮借漢字表記由来ですが、 由緒、由来でそれら真実が語られることは一切ありません。他、名だたる神社仏閣も同類です。

◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レ」=「小さな・山かげ」※松尾山麓の丘陵
◎縄文語:「斑鳩寺」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓
◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端の岬

■四天王寺の創建(『日本書紀』要約)
【崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の合戦の際、形勢の不利を見て取った蘇我氏側の聖徳太子は、自ら四天王像を彫り「もし敵に勝たせてもらえるならば、必ず四天王のための寺塔を建てましょう」と誓った】

 仏教を巡って対立する蘇我氏と物部氏ですが、物部氏は継体天皇の擁立に動いていて、蘇我氏は欽明天皇以降王権に入りこんでいます。
 もし継体天皇とその皇子ら全員が何らかの政変で殺されたのであれば、それを担いだ物部氏も狙われるのは当然です。前述のとおり、筆者は、欽明天皇は創作された天皇で、次代の敏達天皇からヤマトの中枢の権力が北方系勢力に握られたと考えています。つまり、

【北方系】蘇我氏、欽明天皇(敏達天皇)、聖徳太子ら VS 【南方系】物部氏、継体天皇とその皇子、磐井

 ということで、蘇我氏と物部氏の対立を”仏教を巡る争い”という括りにしていますが、実際は、”北方系”と”南方系”の勢力争いだったのではないかということです。

 そして、のちの乙巳の変で蘇我氏本宗家も滅び、諡号の縄文語解釈が不可能になっていきます。ここで使用言語が切り替わるのは、それまで蘇我氏が実権を握っていたことを示していて、蘇我氏が滅ぶことによりさらに南方系先住民勢力が弱体化したものと考えられます。



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継体の不審死と磐井の乱~磐井を賊にして王朝交代は隠蔽された
第五百十五回「継体陵墓、今城塚古墳と同じ馬門ピンク石製石棺採用の古墳分布と縄文語解釈」
 継体天皇の陵墓と目されている今城塚古墳の後円部の横穴式石室には三種の石棺がありましたが、そのうちの一つに肥後の馬門ピンク石製のものが含まれています。馬門ピンク石は宇土市網津町馬門でしか産出しない希少な石で、採用されている古墳は限られているので、九州地方との密なつながりが窺えます。
 今城塚古墳だけでなく、継体天皇と関わりの深い越前や近江、擁立した勢力の奈良盆地東部の古墳にも見られます。

◎馬門ピンク石製石棺の広がり(『筑紫君磐井と「磐井の乱」』柳沢一男 新泉社)
【これまで判明している馬門ピンク石製石棺は、六世紀末葉の奈良県植山古墳を除くと、今城塚古墳、大阪府古市古墳群の二例、奈良盆地東部域の六例、滋賀県琵琶湖沿岸域の三例、それに岡山県築山古墳の計一三例である。石棺だけが遺存する二例は不明だが、前方後円墳や大型円墳などの首長墓ないしそれに匹敵する古墳に採用されている。
 このうち今城塚古墳と同時期の六世紀前葉の例についてみておこう。まず奈良盆地東部地域の馬門ピンク石製石棺は、水谷千秋さんが指摘するように和爾・物部・大伴氏など、継体大王擁立派ともいうべき中央有力族の本拠地(奈良市・天理市・桜井市周辺)に分布する。
 いまひとつの琵琶湖沿岸例は、継体の父・彦主人の別業の旧高島郡三尾から琵琶湖を挟んだ野洲市大岩古墳群の二基の大型円墳の円山古墳と甲山古墳である。
 このように、馬門ピンク石製の石棺は五世紀後葉の大王墓群と近江の長浜古墳群にはじまり、六世紀前葉には継体擁立派のほか、継体親族や継体妃出身氏族などの首長墓級の大型墳に採用されたのである。】


 筆者の見立てでは、全国の大規模古墳名の多くは縄文語解釈可能です。それはもちろん、それらの古墳が築造された年代のその地域に南方系先住民の大勢力が盤踞していたことを示しています。

 馬門ピンク石製石棺を採用した古墳の名称も縄文語解釈可能であれば、この説を補強するのはもちろんのこと、九州地方や継体天皇と親密な関係にあったと思われる勢力が、縄文語を話す南方系先住民であったということになります。
 縄文語(アイヌ語)は上代日本語とは単語も文法もまったく異なるので、言うまでもなく、記紀風土記を編纂したのちの大和朝廷中枢とは異なる民族です。それは継体天皇以降のどこかで王朝交代が起こった可能性が極めて高いということを示しています。

 結論から言うと、縄文語使用の可能性が低い地域はありません。日本全国、もともとは南方系先住民の縄文語(アイヌ語)を使用していたのですから、地名は必ず縄文語由来です。さらに大規模古墳の名称もその多くは縄文語解釈が可能で、必然的に馬門ピンク石採用古墳の築造時期、地域の縄文語使用は極めて確率が高いと言えます。継体天皇とその親族、擁護派が南方系先住民であったということです。
 ここから継体天皇と九州の代表勢力である磐井が反目し合うとはとても想像できません。というか、継体天皇が北方系に転換するとは到底思えません。

 馬門ピンク石製石棺を採用した古墳は以下です。

■”馬門ピンク石製石棺”を採用した古墳 
※縄文語解釈確度凡例 ◎=非常に高い ○高い △どちらとも言えない ×低い
◎今城塚古墳(六世紀/前方後円墳/墳丘長約190m/大阪府高槻市)
◎長持山古墳(五世紀/円墳/径40m/大阪府藤井寺市/古市古墳群 市ノ山古墳陪冢)
○峯ヶ塚古墳(六世紀初頭/前方後円墳/全長96m/大阪府羽曳野市/古市古墳群)
◎別所鑵子塚古墳(姫塚古墳)(六世紀前半/前方後円墳/墳丘長57m/周濠/奈良県天理市)
△野神古墳(五世紀末/前方後円墳/墳丘長30~40m/奈良市/大安寺古墳群)
◎東乗鞍古墳(六世紀前半/前方後円墳/墳丘長83m/奈良県天理市 杣之内古墳群)
△兜塚古墳(五世紀末/前方後円墳/墳丘長40m/奈良県桜井市)
◎円山古墳(六世紀前半/円墳/直径28m/高さ8m/滋賀県野洲市小篠原字円山)
◎甲山古墳(六世紀中葉/円墳/直径30m/高さ8m/滋賀県野洲市小篠原字甲山)
△村居田古墳(五世紀中葉~後半/前方後円墳?/滋賀県米原市村居田字北屋敷)
△築山古墳(五世紀後半/前方後円墳/墳丘長82m/岡山県瀬戸内市長船町西須恵)


 以下、上記古墳の縄文語解釈の詳細です。確度の高いものから優先してご紹介します。
 
 まず、おさらいとして、実際に継体天皇陵と目されている「今城塚古墳」。 この古墳は被葬者である「継体天皇」の縄文語解釈とも完全に一致しています。

■■■ 今城塚古墳(六世紀/前方後円墳/墳丘長約190m/大阪府高槻市) ■■■

◎縄文語:「今城(塚古墳)」 =「エコ」=「水源」

◎縄文語:「継体」=「キタィ」=「水源」

 漢風諡号、和風諡号と陵墓、皇居が密接に関係していること、王統を水流で表現している可能性が高いことは、第五百十四回コラムでご紹介しました。
 ただ、今城塚古墳周辺は水辺が多いので、地勢由来の可能性も捨てきれません。
 
 宮内庁から継体天皇の三島藍野陵として治定されているのは西方の「太田茶臼山古墳」ですが、「今城塚古墳」が実際の陵墓であれば、

◎縄文語:「藍野(陵)」=「アゥ・ノッ」=「隣の・岬」

 の解釈も成立します。太田茶臼山古墳は今城塚古墳に先行する古墳ですので、「藍野陵」はすでに存在していた太田茶臼山古墳の対比表現だったということになります。

 ただ、

◎縄文語:「藍野(陵)」=「アン・ナィ」=「一方の・川」

 の可能性もあり、王統の別系統の表現、あるいは女瀬川沿いの今城塚古墳周辺の地勢ともとれます。判断が難しいところです。

 「茶臼山古墳」は各地にあるので、一般名詞と考えるのが妥当です。

◎縄文語:「茶臼山古墳」
=「チャ・ヤマ」=「竪穴式住居の(形の)・山」
or「チー・ヤマ」=「中窪みの・山」※前方後円墳

 ついでに所在地名の「太田」は、

◎縄文語:「太田」=「オタ」=「砂浜」

 の意です。日本全国に「砂浜」があるので、日本全国に同じ地名があります。淀川北岸の低地を指したと捉えられます。近隣の地名も水辺、低地を表した地名が連なります。

◎縄文語:「宮田(町)」=「メ・ヤ・タ」=「泉の・岸・の方」
◎縄文語:「富田」=「トマ・タ」=「湿地・の方」
◎縄文語:「三島」=「メ・サマ」=「泉の・ほとり」
◎縄文語:「大畑」=「オオ・ハッタ」=「大きな・淵、水がよどんだところ」

 この地域での古墳築造時期の縄文語使用の確率は非常に高いと言えます。


■太田茶臼山古墳、今城塚古墳周辺の地勢




■■■ 長持山古墳(五世紀/円墳/径40m/大阪府藤井寺市/古市古墳群 市ノ山古墳陪冢) ■■■

◎縄文語:「長持山(古墳)」 =「ナィ・カ・モ・テュ・ヤマ」=「川・岸の・小さな・峰の・山」※市ノ山古墳の周濠のほとりの小さな古墳

 「長持ち山古墳」の地勢そのままを表現しています。

 「長持山」の由来が「家形石棺が墳頂に露出していたので長持山の名ができたといわれる。 」とwikipediaにありますが、こういった漢字表記こじつけ説はことごとく疑うべきです。この類いの物語が真実を語ったためしがありません。

 「市ノ山古墳」の陪冢ですので、言うまでも無く両者は同系の勢力となります。「市ノ山古墳」は典型的な縄文語で、発音も完全に一致しています。この時期のこの周辺での縄文語使用は確実です。

◎縄文語:「市ノ山(古墳)」 =「エテュノッ・ヤマ」=「岬の・山」
※市ノ山古墳(五世紀後半/前方後円墳/ 墳丘長227m 高さ23.3m/大阪府藤井寺市/古市古墳群)


■長持山古墳と市ノ山古墳   ※市ノ山古墳とその周濠のほとりの小さな古墳。




■■■ 別所鑵子塚古墳(姫塚古墳)(六世紀前半/前方後円墳/墳丘長57m/周濠/奈良県天理市)  ■■■

◎縄文語:「鑵子塚」=「カス・テュ」=「山or川を越える・小山」

 漢字表記をまともに受け取れば、「鑵子=青銅、真鍮などで造った湯沸かし。茶釜」の形のような古墳ということになります。しかし、「別所鑵子塚古墳」は前方後円墳です。「鑵子」とは似ていません。

 所在地の「別所」も縄文語解釈すれば、

◎縄文語:「別所」 =「ペー・チャ」=「水の・岸」

 となり、別名の「姫塚」と同義となります。

◎縄文語:「姫塚」 =「シプィ・テュ」=「湧水の・小山」

 「姫塚」は周濠を指したとも考えられます。各地の「姫塚古墳」の多くは周濠を持つ古墳です。
 また、繰り返しとなりますが、「ヒメコソ社」も「シムプィ・コッ=湧水の・窪地」の意で、姫島の場合は神社に隣接する拍子水温泉、大坂の場合は上町台地周辺の湧水を指しています。

 この別所鑵子塚古墳の周辺には同時期、あるいは後続すると思われる後期の巨大古墳が複数あります。これらは継体天皇擁立に動いた物部氏の墳墓である可能性が高いと言われています。

・別所大塚古墳(六世紀/前方後円墳/墳丘長125m/周濠/奈良県天天理市別所)
・石上大塚古墳(六世紀後半/前方後円墳/墳丘長107m/周濠/奈良県天天理市石上町)
・ウワナリ塚古墳(六世紀後半/前方後円墳/墳丘長110m/周濠/奈良県天理市石上町)

 「大塚」は各地に同名の古墳があることから、明らかに一般名詞です。

◎縄文語:「大塚」 =「オオ・テュ」=「大きな・小山」

 注意しなければならないのは、独特な名称の「ウワナリ塚古墳」です。
 wikipediaには『古墳名の「うわなり(後妻)」は、石上大塚古墳を「こなみ(先妻)」に擬したことに由来するとみられる。』とありますが、黎明期の日本の歴史において、このような漢字表記こじつけ説が真実を語ることはまずありません。

◎縄文語:「ウワナリ塚(古墳)」=「ウワ・ナ・テュ=「重なった縁の・平坦な高台の・小山」
※円筒埴輪を並べた前方部三面の平坦面か。

 ウワナリ塚古墳の前方部には埴輪を配置した段状の平坦面があります。古墳の形状と一致するので、縄文語使用の確率が非常に高いと言えます。ヤマト物部氏と関係があると目される六世紀築造の古墳です。

■ウワナリ塚古墳(六世紀後半/前方後円墳/墳丘長110m/周濠/奈良県天理市石上町)(現地案内看板抜粋)
「石上・豊田古墳群平尾山支群の一つで、丘陵の尾根上に作られています。前方部を北に向ける前方後円墳で、くびれ部には造り出しがあって円筒埴輪が並べられていました。前方部西北隅に方形の張出しがあるほか、前方部の全面に円筒埴輪を並べた平坦面が設けられていて、この部分まで含めると長さは128mになります。〈後略〉」


 「カンス塚」の名称については、同名の古墳が各地にあるので、何かしらの共通項があるはずです。前述の通り、前方後円墳の名称にもなっているので、「茶釜」の意ではありません。

 以下の例を見ると、ほぼすべて「山ぎわ」であることに気づきます。つまり「カス・テュ=山を越える場所にある・古墳」の意となります。兵庫県加西市のクワンス塚古墳だけ山際の水辺なので、「カス・テュ=水辺を徒渉する場所にある・古墳」と解釈する方が地勢と一致します。

【参考】古墳名に「鑵子」のつく古墳
・クワンス塚古墳(五世紀前半/円墳/兵庫県加西市)⇒google map
・掖上鑵子塚古墳(五世紀後半/前方後円墳/奈良県御所市柏原)⇒google map
・真弓鑵子塚古墳(六世紀中頃~後半/円墳/奈良県高市郡明日香村)⇒google map
・与楽鑵子塚古墳(六世紀後半/円墳/奈良県高市郡高取町)⇒google map(同上)
・別所鑵子塚古墳(六世紀前半/前方後円墳/奈良県天理市別所町)⇒google map
・近内鑵子塚古墳(五世紀前半/円墳/奈良県五條市近内町)⇒google map
・母神山鑵子塚古墳(六世紀後半/円墳/香川県観音寺市)⇒google map
・鹿隅鑵子塚古墳(香川県観音寺市)⇒google map


■■■ 円山古墳(六世紀初頭/円墳/直径28m/高さ8m/滋賀県野洲市小篠原字円山) ■■■

■■■ 甲山古墳(六世紀中葉/円墳/直径30m/高さ8m/滋賀県野洲市小篠原字甲山) ■■■

◎縄文語:「円山(古墳)」 =「マ・オロ」=「谷水・のところ」
◎縄文語:「甲山(古墳)」 =「カ・テュ・ヤマ」=「薄っぺらな・峰の・山」

 日本全国「マル」を冠する地名の多くは「水辺」 です。

 円山古墳の名称が「円墳」由来だと言われれば、それも形状と一致するので否定はできませんが、西北に隣接する「冨波乙」の地名は典型的な縄文語です。

◎縄文語:「冨波(乙)」 =「トーパ」=「沼がしら」

 周囲と比較しても低地なので、湿地帯だったと思われます。ただし、断定するには根拠として希薄です。
 「カブト山」も後段でご紹介しますが、断定に至るほどの強い根拠はありません。

 一方、円山古墳の南西方向、峰を隔てた約100mのところに円山古墳と同時期築造の「天王山古墳」がありますが、これは地勢と一致する縄文語解釈が可能です。

◎縄文語:「天王山(古墳)」 =「タン・ノッ・サン」=「こちらの・岬の・出崎、平山」
※六世紀初頭/前方後円墳/墳丘長50m/滋賀県野洲市小篠原字天王山)
 
 円山古墳と同時期の築造で、対比表現と捉えられます。

 また、これら三基の古墳はその築かれた丘陵の名から「大岩山古墳群」と呼ばれていますが、この「大岩山」がこの丘陵の有り様を的確に表現しています。築造時期の縄文語使用の確率は非常に高いと言えます。

◎縄文語:「大岩山」 =「オオ・イワ・ヤマ」=「大きな・祖先を祀る神聖な・山」

 磐井の墳墓とされる八女古墳群の「岩戸山古墳」も同類の解釈が可能で、地勢とも完全に一致しています。

◎縄文語:「岩戸山(古墳)」 =「イワ・テュ・ヤマ」=「祖先を祀る神聖な・峰の・山」


 ついでに、大岩山近隣の大塚山古墳も。円山古墳、天王山古墳に先行する古墳です。

◎縄文語:「大塚山(古墳)」 =「オオ・テュ・ヤマ」=「大きな・小山の・山」
※五世紀前半/帆立貝形円墳/直径57m/滋賀県野洲市辻町)


■円山古墳と甲山古墳(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



■■■ 東乗鞍古墳(六世紀前半/前方後円墳/墳丘長83m/奈良県天理市 杣之内古墳群) ■■■

◎縄文語:「東乗鞍(古墳)」=「ナ・キ」=「山中の平地の・山」

 地勢と一致する解釈が可能ですが、西乗鞍古墳もあるので地名由来の名称です。
 ただし、東乗鞍古墳の北西に小墓(おばか)古墳があり、

◎縄文語:「小墓(古墳)」=「オポ」=「下(の古墳)」

 と解釈可能で、他の古墳との位置関係の整合性がとれるので、固有名詞の可能性が非常に高い古墳名と言えます。現地案内看板には次のようにあります。

■小墓古墳現地案内看板
【小墓古墳は杣之内町に所在する古墳時代後期前半の前方後円墳です。東乗鞍古墳(南東約450m)や西乗鞍古墳(南東約200m)から続く尾根上の最も先端に造られています。

 墳丘は前方部・後円部とも3段に築かれたものと思われ、現状では全長80.5m、後円部の高さ7.8m、前方部の高さ6.1mの規模ですが、古墳は前方部を南西側に、後円部を北東側に向けており、周辺の土地区画などの盾形の周濠の痕跡がうかがえます】

 つまり、「東乗鞍古墳、西乗鞍古墳から見て、下の古墳」という意味です。築造時期も東乗鞍古墳と同時期です。

 ちなみに西乗鞍古墳は五世紀末築造の前方後円墳で墳丘長は118mです。


■小墓古墳と西乗鞍古墳、東乗鞍古墳(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



■■■ 峯ヶ塚古墳(六世紀初頭/前方後円墳/全長96m/大阪府羽曳野市/古市古墳群) ■■■

◎縄文語:「峯ヶ塚(古墳)」 =「メナ・カ・テュ「たまり水の・ほとりの・小山」※芦ヶ池のほとりの古墳、または、二重濠の古墳


■峯ヶ塚古墳 ※芦ヶ池のほとりの古墳、または、二重濠の古墳。



■■■ 野神古墳(五世紀末/前方後円墳/墳丘長30~40m/奈良市/大安寺古墳群) ■■■

◎縄文語:「野神(古墳)」 =不明

 野神古墳は墳丘が削平されているので、縄文語解釈できませんが、近隣に同時期築造の「杉山古墳」「墓山古墳」があり、大安寺古墳群を形成しています。

◎縄文語:「杉山(古墳)」 =「チゥ・カ・ヤマ」=「水流・のほとりの・山」
※杉山古墳(五世紀後半/前方後円墳/墳丘長154m/奈良市/大安寺古墳群) 

 古代の寺院名は、法隆寺、四天王寺、東大寺含め、縄文語地名の仮借漢字表記です。杉山古墳の所在地名ともなっている「大安寺」も飛鳥時代の創建とされていますので、当然縄文語地名の仮借漢字表記の可能性が高くなります。

◎縄文語:「大安寺」 =「タン・アゥ・チゥ」=「こちらの・枝分れた・水流、水脈」

 地勢とも杉山古墳の解釈とも完全に一致します。


■大安寺と杉山古墳  ※水流のほとりの古墳。



 「墓山古墳」は各地に同名の古墳があるということは、ありきたりな地勢の古墳、一般名詞ということです。

◎縄文語:「墓山古墳」 =「パケ・ヤマ」=「岬の・山」

 まさに、「お墓山」程度の意です。


■■■ 兜塚古墳(五世紀末/前方後円墳/墳丘長40m/高さ3.5m(後円部・前方部)/奈良県桜井市)  ■■■

◎縄文語:「兜塚(古墳)」 =「カ・テュ」=「薄っぺらな・峰」

 墳丘の高さが3.5mですから、まさに「薄っぺらな峰」ということになります。

 他にも「兜塚」「兜山」「甲塚」の名称の古墳がありますが、古墳はおしなべて「薄っぺらな峰」なので、縄文語解釈と地勢と一致するのは当然です。
 ほとんどは甲冑の「兜」に似ていることが命名由来とされていますが、前方後円墳にも「カブト塚」「カブト山」があるのには注意しなければなりません。前方後円墳は甲冑の「兜」には似ていません。甲冑の「兜」自体も縄文語由来の可能性があります。

・兜塚古墳(五世紀前半/円墳/直径80m/高さ8m/静岡県磐田市見付)
・兜塚古墳(円墳/直径43m(周溝含め直径70m)/高さ5m/東京都狛江市)
・兜塚古墳(五世紀後半/帆立貝形古墳?/後円部径62.4m、前方部15m/高さ6.8m/宮城県仙台市)
・兜塚古墳(五世紀/前方後円墳/墳長53m以上/高さ6m/福岡県福岡市)
・兜山古墳(円墳/直径60m/高さ7m/福井県鯖江市)
・兜山古墳(五世紀後半/円墳/直径45m/高さ7m/広島県三原市)
・甲山古墳(六世紀後半/円墳/直径90m/高さ11.25m/埼玉県熊谷市冑山) ※通説では甲冑の「兜」由来とされるが、私見では所在地「冑山」の台地状の地名由来
・甲山古墳(四世紀末~五世紀初頭/円墳または前方後円墳/(円墳説)直径60m (前方後円墳説)墳丘長120m/高さ8m/愛知県岡崎市)
・甲山古墳(六世紀中葉/円墳/直径30/高さ8m/滋賀県野洲市)
・甲山古墳(六世紀後半/前方後円墳/ 墳丘長59m/高さ7.7m/広島県庄原市)


 古墳名だけでは根拠が希薄なので、山の名称と地名の「カブト山」を調べてみます。
 まずは山の「カブト山」から。「甲冑の兜のような山」と「薄っぺらな峰の山」が半々です。

「兜山」秋田県湯沢市 ※甲冑の兜のような、薄っぺらな峰の山。いずれの解釈ともとれる。 
→google画像検索(兜山)


「兜山」山形県米沢市 ※甲冑の兜のような山。 →google画像検索(兜山)

「兜山」栃木県宇都宮市 ※薄っぺらな峰の山。


「兜山」石川県金沢市 ※甲冑の兜のような山。
Mt Kabutoyama (yamanashi) 01

「兜山」京都府京丹後市 ※甲冑の兜のような山。


「兜山」 京都府船井郡京丹波町 ※甲冑の兜のような山。


「兜山」島根県雲南市 ※薄っぺらな峰の山。


「兜山」福岡県久留米市 ※薄っぺらな峰の山。


「兜山」大分県玖珠郡玖珠町 ※薄っぺらな峰の山。


「甲山」兵庫県西宮市 ※甲冑の兜のような、薄っぺらな峰の山。いずれの解釈ともとれる。


 次に地名。 地名は圧倒的に「薄っぺらな峰」の解釈が多数を占めます。

■東京都中央区日本橋町 ※「カ・ト=薄っぺらな・海」※浅い海

■京都市伏見区深草兜山町 ※薄っぺらな峰の山。


■京都府木津川市台 ※薄っぺらな峰。


■愛知県名古屋市瑞穂区甲山町 ※薄っぺらな峰の山。


■広島県世羅郡世羅町甲山 ※薄っぺらな峰の山。


■埼玉県熊谷市冑山 ※薄っぺらな峰の山。甲山古墳があるが、地名由来の名称ではないか。


 総括すると、甲冑の「兜」と「薄っぺらな峰」のいずれの解釈も存在するようです。新旧で言えば、もちろん「薄っぺらな峰」の解釈の方が古く、甲冑の「兜」は渡来系か、あるいは縄文語の「カ・テュ=薄っぺらな・峰」から派生した可能性があります。

 「烏帽子」の語源も縄文語の可能性があります。

◎縄文語:「烏帽子」
=「エ・ポ・ウシ」=「頭の・小さな・もの」

or「エン・ポン・シ」=「尖った・小さな・山」

 他の「カブト山」「カブト塚」の縄文語解釈からは確証が得られませんでしたので、馬門ピンク石製石棺を採用した奈良県桜井市の兜塚古墳の名称については、残念ながら、縄文語由来と断定することができません。


■■■ 築山古墳(五世紀後半/前方後円墳/墳丘長82m/岡山県瀬戸内市長船町西須恵) ■■■


◎縄文語:「築山(古墳)」 =「テュ・ヤマ」=「小山の・山」

 築山古墳は各地にあるので、一般名詞とするのが妥当です。古墳はすべて「小山」です。


■■■ 村居田古墳(五世紀中葉~後半/前方後円墳?/滋賀県米原市村居田字北屋敷) ■■■


◎縄文語:「村居田(古墳)」=「モ・ラィ・チゥ」=「小さな・死んでいる・水流、水脈」※小さな淀んでいる小川

 所在地名の「北屋敷」とも辻褄が合うので、明らかに地勢を表現した地名由来の古墳名です。

◎縄文語:「(北)屋敷」=「ヤチ・ケ」=「泥の・ところ」


 村居田古墳に先行する古墳は、横山城跡の峰を挟んで西方の長浜茶臼山古墳で、垣籠古墳が後続します。

 「茶臼山」という名の古墳は各地にあるので、一般名詞とするのが妥当です。

◎縄文語:「茶臼山古墳」
=「チャ・ヤマ」=「竪穴式住居の(形の)・山」
or「チー・ヤマ」=「中窪みの・山」※前方後円墳

 「垣籠」は「かいごめ」と読みます。明らかに日本語ではありませんが、これも所在地名なので、縄文語使用は確実だとしても、使用時期の参考にはなりません。

◎縄文語:「垣籠(古墳)」 =「カィ・コ」=「折れている・湾曲したもの(丸山)」


■垣籠古墳横からの眺望 ※折れている丸山。
 



第五百十一回第五百十二回第五百十三回第五百十四回第五百十五回第五百十六回/ 】 ※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
継体の不審死と磐井の乱~磐井を賊にして王朝交代は隠蔽された
第五百十六回「安閑天皇皇后、春日山田皇女と佐保庄(匝布屯倉)の縄文語解釈」
 継体天皇八年一月、天皇は勾大兄皇子(安閑天皇)の妃である春日山田皇女が「皇子との間に子ができないので、皇子は批判され、自分の名も絶えてしまうだろう」と憂いたと聞き、春日山田皇女の名を屯倉として残すように皇子に詔した。

■匝布(佐保)の屯倉の設置について(『日本書紀』継体八年一月)
【天皇は詔して「わが子麻呂古よ。おまえの妃の言葉は誠に理にかなっている。どうしてつまらぬことだといって、慰めも与えないでよかろうか。匝布(さほ、佐保)の屯倉を設け、妃の名を万世にのこすように」と仰せられた。】

 継体天皇の言葉では「匝布(佐保)=春日山田皇女の名」として扱われています。「匝布(佐保)」は春日山田皇女の別名だったのでしょうか。
 天理市のHPには次のようにあります。

■佐保庄(さほのしょう、さほんしょう)(天理市HP)
【継体紀に皇太子勾大兄皇子の妃春日姫に匝布の屯倉を賜うた記事があるが、どこであろうか。ここは春日の佐保殿庄が、のちに佐保庄と呼ばれることになったというが詳かでない。さほという地名も古語で、よくはわからないが、少し小高くなった地形を指すようである。】

 これを縄文語解釈すると簡単に謎が解けます。

◎縄文語:「さほ(匝布、佐保)」 =「サン・ポ」=「平山、出崎・の小さいもの」 =少し小高くなった地形

 の意です。そして「春日山田皇女」は

◎縄文語:「春日山田(皇女)」 =「カケ・ヤマ」=「その上のところの・山」

 で、「さほ」と同義であることが分かります。春日大社も「高台にある神社」の意です。
 この時代の人名はこのように拠点とした縄文語地名からとられることがほとんどです。

 ということで、これが継体朝における勾大兄皇子(安閑天皇)の妃の物語ですから、この時代に縄文語が使用されていた確率はかなり高いということになります。



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第五百十一回「継体天皇の母、振媛拠点、越前国高向の縄文語解釈」
 継体天皇は幼少期の近江国高島郷で父の彦主王を亡くした後、母の故郷である越前国高向で育てられます。この越前国周辺の縄文語解釈を進めます。

 「振媛」の解釈は悩むまでもありません。発音が完全一致します。

◎縄文語:「振(媛)」=「フ」=「丘」

  「振=フ=丘」の解釈は、天孫降臨の「クシフルダケ」の「フル」、壱岐の地名に頻繁に見られる「触」と同義です。

◎縄文語:「クシフル岳」 =「ク・フ」=「対岸or山向こうの・丘」第四百三十九回コラム参照

 ついでに「高千穂」「添山峯(ソホリのやまのたけ)」も。

◎縄文語:「高千穂」=「タ・テュ・ホ」=「石の・峰、岬の・尻(ふもと)」
◎縄文語:「ソホリノヤマ」 =「スオ・オリ(・ヤマ)」=「断崖の谷の・丘(の・山)」

 地勢が合えば、宮崎以外の日本のどこでも天孫降臨神話は創作可能です。日本神話や渡来人活躍物語はこのように縄文語地名の仮借漢字表記を結びつけて創作されています。

 神武東征神話は北方系渡来人の朝鮮半島南部からヤマトへの道程を象徴的に表現している可能性があります。必然的に、天孫降臨の地は九州北部、響灘、玄界灘沿岸となります。

◎縄文語:「響灘」=「ピピ・ケ」=「たくさんの石・のところ」
◎縄文語:「糸島」=「エテュ・スマ」=「岬の・石」
◎縄文語:「イチキシマヒメ」=「エテュ・ケ・スマ」=「岬の・ところの・石」※宗像三女神
◎縄文語:「タギツヒメ」=「タ・チャ(orテュ)」=「石の・岸(or岬)」※宗像三女神
◎縄文語:「タギリヒメ」=「タ・ル」=「石の・岬」※宗像三女神
◎縄文語:「九州」=「ク・オ」=「対岸・のところ」※朝鮮半島南部から見て対岸
◎縄文語:「日本」=「チュ・パ」=「太陽の・上手」※東の国。

 壱岐に「触」を冠する地名が多いのは、単に「丘が多い」地勢を表現しているからです。

◎縄文語:「触」 =「フ」=「丘」


■壱岐の景色( 壱岐市芦辺町深江南) ※「フ=丘」が多い地勢

 話は戻り、「振媛」の出身地である「高向」は

◎縄文語:「高向」=「トコ・ケ」=「小山・のところ」

 で、これも「振媛」の言い換え表現となっています。

 高向の宮跡には現在高向神社が建ちます。住所は「丸岡町高田」です。
 高向神社はもともとこの地を治めた振媛一族の氏神で「古堂(ふるど)様」と呼ばれていたようです。この地域一帯は、「低地+小山」の解釈で一致しています。

◎縄文語:「丸岡(町)/高田」=「マ・オロ・オカ/ト・タ」=「谷水・のところの・あと/突起物・の方」
◎縄文語:「古堂」
=「フ・テュー」=「丘の・峰」

or「フ・トー」=「丘の・湖沼」

 「丸岡町高田」の南西に「四郎丸」という地名がありますが、これが周辺の地勢を的確に表現しています。
 日本全国「丸」を冠する地名の多くは「水辺」です。「丸山古墳」の多くは「水辺の古墳」あるいは「濠を持つ古墳」の意です。後世の命名を除けば、すべて円墳を指している訳ではありません。

◎縄文語:「四郎丸」=「シ・オ・マ・オロ」=「山が・たくさんある・谷水・のところ」 

 「振媛=丘の媛」も誕生する訳です。この「振媛」の「媛」まで縄文語解釈するとどうなるか。

◎縄文語:「振媛」=「フ・シプィ」=「丘の・泉」

 となり、これも地勢と完全に一致することになります。

 「ヒメ=シプィ=泉」の解釈は「ヒメコソ社」の「アカルヒメ」や白山神社の「菊理媛」にも見られます。
 「ヒメコソ社」は「シプィ・コッ=泉の・窪地」の意で、姫島や上町台地の湧水、祀られる「アカルヒメ」は「アカ・ル・シプィ=なだらかな尾根の・岬の・泉」で、これも上町台地の湧水、「菊理媛」は「クッ・キリ・シプィ=崖の・山の・泉」で白山の火口湖を指しています。

 ご多分に漏れず、これらも縄文語地名の仮借漢字表記にこじつけたお姫様なので、もともと存在しません。もちろん、天日槍が朝鮮半島からわざわざ追いかけてきたなどということもありません。それでも神社は 「湧水の自然崇拝」とは口が裂けても言いません。記紀風土記と手を組んで「朝鮮半島からお姫様が~」と言い続けます。

 「アカルヒメ」と同一視される比売許曽神社 の「下照比売」は「シテュ・タ・ル・シプィ=大きな峰・にある・岬の・泉」、類似表現の「四天王寺」は「シテュ・ウン・ノッ=大きな峰・にある・岬」で、これも上町台地の地勢を表現したものです。
 初期神社仏閣の名称も軒並み縄文語地名の仮借漢字表記から生まれていて、渡来系の神仏の由緒、由来で縄文語の意味が上書きされています。縄文語では同じ地勢を複数の表現で呼ぶのが一般的だったと考えられますので、そこに隠蔽された歴史を掘り起こすヒントが眠っています。

 同様に継体天皇の母である「振媛」も縄文語地名からの創作である可能性も考えられますが、残念ながら、検証する術は今のところ見つけていません。


■大汝峰から望む白山(剣ヶ峰と御前峰)と火口湖 ※菊理媛尊「クッ・キリ・シムプィ」=崖の・山の・湧水」。
(Alpsdake, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ)



 高向神社(丸岡町高田)の周辺地名も調べてみます。
 「筑後清水(ちくごしょうず)」「四つ柳」「高瀬」「板倉」「油為頭」「坪ノ内」などの地名が見られます。これらのいずれも、「湿地」「小山」に関連する解釈が可能です。

◎縄文語:「筑後/清水」=「テュ・コッ/シ・チゥorチャ」=「小山の・窪地/山の・水流、水脈or岸」
◎縄文語:「四つ柳」=「ヤチ・ヤ・ウン・ノッケ」=「泥の・岸・の・岬」
◎縄文語:「高瀬」=「ト・ウシ」=「突起・のところ」
◎縄文語:「板倉」=「エテュ・キ」=「岬の・山」
◎縄文語:「(油)為頭」=「タン・メトッ」=「こちらの・山奥」
◎縄文語:「坪ノ内」=「チゥ・ポ・ノチ」=「水流、水脈の・小さいものの・岬」


■高向神社(高向の宮跡) 男大迹王(継体天皇)の出身地。母振媛の故郷。
(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 また、この地域の首長は東の丘陵にある六呂瀬山古墳群と関係があると見られています。四世紀後半、五世紀前半築造の大規模古墳二基(1号墳、3号墳)とそれぞれの陪冢(2号墳、4号墳)があります。 この古墳群の西北方にかけての高台に百三十基程の古墳が集中して見られ、丸岡古墳群と呼ばれています。

◎縄文語:「六呂瀬山(古墳群)」=「ロ・ラ・ウシ・ヤマ」=「たくさんある・低地・のところの・山」

 この地域を貫流する「九頭竜川」も典型的な縄文語由来です。
 
◎縄文語:「九頭竜(川)」=「クッチャ」=「湾や湖沼などの入口」

 これは、朝鮮半島や日本各地の「百済」の地名と同語源です。原義は「クッ=喉」「チャ=口」の意で、「喉のように細い入口」の意です。
 上流の大野盆地と下流の越前平野を結ぶ九頭竜川の中流域は両岸から山が迫る谷になっています。まさに大野盆地への「クッチャ=喉のような入口」の川になる訳です。


■九頭竜川 ※喉のような地形。越前平野から大野盆地への狭まった入口の川。
(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 この九頭竜川が越前平野に出る南北両岸にそれぞれ古墳群があります。北は前述の丸岡古墳群、六呂瀬山古墳群で、南が松岡古墳群です。松岡古墳群も六呂瀬山古墳群に先行する四世紀中頃~五世紀にかけての築造で、九頭竜川の水利権を握っていた首長の墳墓と考えられています。

 この周辺は古墳名、地名ともに簡単に縄文語解釈が可能です。
 代表的な古墳に「手繰ヶ城山古墳(てぐりがじょうやまこふん)」があります。古墳時代前期の四世紀の築造で、墳丘長129mを誇る地域最初の大規模古墳です。

 古墳名に「城山」とありますが、どうやらいわゆる「山城の跡」に築かれてはいないようです。この謎は縄文語解釈すると簡単に解けます。

◎縄文語:「手繰ヶ城山(古墳)」=「テ・リ・チャ・ヤマ」=「腕の(ように伸びた)・高台の・ふちの・山」

 所在地の地勢を的確に表現したものであることが分かります。


■松岡古墳群の縄文語解釈(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 その他、 「鳥越山古墳」「二本松山古墳」は古墳群名である「松岡」とほぼ同義で、言い換え表現となっています。「松岡」の地名は古墳群の峰の西麓にありますから、九頭竜川が作る越前平野の扇状地の地勢を表現していることが分かります。

◎縄文語:「松岡(古墳群)」=「マーテュ・オカ(orオ)」=「波打ち際の・あと(or窪地)」※西麓の地名が「松岡」
◎縄文語:「鳥越山(古墳)」=「トラィ・コッ・ヤマ」=「湖沼のあとの・窪地の・山」※「松岡」と同義
◎縄文語:「二本松山(古墳)」=「ニン・ポン・マーテュ・ヤマ」=「しみこんだ・小さな・波打ち際の・山」※「松岡」と同義

 「乃木山古墳」「春日山古墳」は所在地の地勢を表現しています。

◎縄文語:「乃木山(古墳)」=「ノッケ・サン」=「岬の・平山、出崎」
◎縄文語:「春日山(古墳)」=「カケ・ヤマ」=「高台の・山」

 奈良の「春日大社」の名称由来も、所在地の地勢「カケ=高台」です。「石舟山古墳」は埋葬施設の舟型石棺が由来のようなので、縄文語解釈していません。

 これらの古墳名の縄文語解釈は固有名詞とは断定できないので「築造時期=縄文語の使用時期」とすることはできませんが、古墳名と地勢が完全に一致する様は、縄文語使用の痕跡、南方系先住民の足跡をはっきりと示しています。


 この地域で育った継体天皇が、壮年になって遷ったヤマトで上代日本語を使用するようになるとはあまり考えられません。

 九頭竜川に「五松橋(ごしょうばし)」という珍しい名称の橋がありますが、これも典型的な縄文語地名です。

◎縄文語:「五松(橋)」
=「コッチャ」=「谷の入口」
=「コッ・チャ」=「谷の・岸」


第五百十一回第五百十二回第五百十三回第五百十四回第五百十五回第五百十六回/ 】 ※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
継体の不審死と磐井の乱~磐井を賊にして王朝交代は隠蔽された
第五百十二回「九州系埋葬施設、石屋形を採用した越前と近江の古墳の縄文語解釈」
 九州系の埋葬施設である石屋形は五世紀末に肥後で生まれました。継体天皇にゆかりの深い近江国と越前国の古墳に採用されていて、磐井の勢力圏と思しき肥国との関係が良好であったことを示しています。

◎「石屋形」とは (『筑紫君磐井と「磐井の乱」』柳沢一男 新泉社)
石屋形とは横穴式石室内に設置された石棺状の埋葬施設で、玄室内面側長辺を解放する構造に特徴がある。五世紀末頃に肥後で成立し、六世紀前葉以降、九州中北部で広く用いられた。しかし、六世紀前葉に限れば、九州外で石屋形を用いた古墳は四例が知られているに過ぎない。そのうちの二例が継体母方本拠地の越前国坂井郡に、一例が父方本拠地の近江国坂田郡に所在する。残る一例は紀伊国在田(有田)群の椒(はじかみ)古墳である。」

 この九州系埋葬施設である「石屋形」を採用した古墳を縄文語解釈してみます。

●振媛拠点の古墳(越前国)
・神奈備山古墳(越前国/福井県あわら市、坂井市)
・椀貸山古墳(越前国/福井県坂井市)
●彦主人拠点の古墳(近江国)
・山津照神社古墳(近江国/米原市)
●その他
・椒古墳(紀伊国/有田市)

 振媛拠点である越前国の二基は横山古墳群の代表的な古墳で、前回ご紹介した松岡古墳群の手繰ヶ城山古墳、六呂瀬山1号墳、3号墳に続く越前平野の首長墓とみられています。

 まずは、「神奈備山古墳」古墳から。

◎縄文語:「神奈備山(古墳)」=「カンナ・ピ・ヤマ」=「上にある・石の・山」

 「神奈備」とは何か。通説をご紹介します。

×「神奈備」とは (wikipedia)
「神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)とは、神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域のこと。または、神代(かみしろ)として自然環境を神体(しんたい)とすること。
 概要
 神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域や、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や神体山を、また特徴的な岩(夫婦岩)や滝(那智滝)がある神域などをさす。神籬と磐座の総称でもある。依り代となる森林や岩などがない「神奈備野」もある。
 「カンナビ」の語源については諸説ある。「神並び」の「カンナラビ」が「カンナビ」となったとする説や、「ナビ」は「隠れる」を意味し「神が隠れ籠れる」場所とする説がある。また、漢字表記も様々である。〈後略〉」

 日本黎明期の歴史の通説はトンチンカンな説を堂々と語ります。
 神社の起源は、六~七世紀に大和王権を簒奪した北方系渡来人の支配制作の一環で、もともと為政者周辺の出自の正当化、装飾を目的として設けられたものです。
 その証拠に、それらの名称はことごとく縄文語地名の仮借漢字表記由来ですが、本来の意味が語られることは一切無く、漢字表記にこじつけた創作神様、由緒が日本語で語られます。日本語は北方系言語で、百済王族や高句麗と同じ、開音節で終わる特徴を持ちます。一方、東夷南蛮、朝鮮半島南部、倭人は南方系言語の縄文語で、こちらは閉音節で終わることが多い言語です。

 神道の出所はそのようなものなので、これらが真っ正直に真実を語ることは基本的にありません。

 「神奈備」はもともと縄文語の「カンナ・ピ=上にある・石」(山などの高所にある石)が由来です。それが自然崇拝と結びつけば、自ずと磐座となります。
 もっとも分かりやすいのが大和の大神神社のご神体である三輪山でしょう。三輪山の山腹、山頂には磐座の巨岩がごろごろしています。由緒には”三輪山”をご神体とするとありますが、「神奈備」はあくまで「上にある石」の意です。

 ちなみに「三輪山」、別名の「三諸山」を縄文語解釈すると

◎縄文語:「三輪山」=「メ・ワ・ヤマ」=「泉の・岸の・山」
◎縄文語:「三諸山」=「メ・オロ・ヤマ」=「泉の・ところの・山」

 となり、池沼に囲まれた三輪山の地勢を的確に表現していることが分かります。
 つまり、三輪山の名称や神奈備(磐座)が縄文語であるのに対して、由緒が日本語で語られること自体、大きな矛盾をはらんでいるということです。これは日本全国、八百万の神すべてに言えることです。

 越前に「神奈備」を冠する古墳があるのも、ただ単に「高所に石」があったからです。地勢さえ合えば、どこでも「かんなび=上にある石」は出現します。
 あわら市郷土歴史資料館の解説を見てみます。

◎「神奈備山古墳」とは (「あわら市郷土歴史資料館」HP)
「生区字漆谷山の頂(標高32メートル)にあって、横山古墳群の中で最も大きい古墳です。古墳時代後期(6世紀中頃)の前方後円墳です。墳丘は二段築成で主軸の長さは64.4メートルあります。前方部を北にして幅29メートル、後円部は径31.8メートルです。盛土の崩れを防ぐため葺石がありました。横穴式の石室は、主軸と斜めに開いています。側壁は凝灰岩の切石積み、全長6.35m、羨道の長さ2.2m、高さ1.4m、天井石は5枚でした。施された朱は、棺台のものでしょうか。副葬品として、装身具類は小型銅鏡片・金環・ガラス小玉が、武器・武具類では環頭太刀把頭片・鉄刀・鉄鏃・挂甲片などが出土し、他にも農工具や馬具、及び須恵器片も多数検出されました。」

 丘陵上に築造された「神奈備山古墳」の葺石は「カンナ・ピ=高所にある・石」と解釈可能です。

◆神奈備山古墳 = 高所にある石の山

 「神奈備=磐座」とすれば、葺石の墳丘上で祭祀が執り行われたことを指したのかもしれません。
 また、次に紹介する椀貸山古墳も葺石を持つ古墳で、神奈備山古墳に先行して平地に築かれていることから、その対比で、一方の「上の方にある葺石の古墳」の意味で呼ばれたともとれます。

 もし周辺の高台に磐座の類が存在しないのであれば、「神奈備山」はこの古墳の固有名詞である可能性が高いと言えます。築造時期の六世紀中頃、この地域では縄文語が使用されていたということです。


 そして椀貸山古墳。
 「人々に椀を貸す」という「椀貸伝説」が語られる地域は日本全国に点在しています。 この「椀貸」という名称はどこから来ているのでしょうか。

×「椀貸伝説」とは (wikipedia)
「椀貸伝説(わんかしでんせつ)とは、民話・伝承の類型の一つで、塚や淵、大岩、山陰の洞穴などから膳や椀を借りる話を主題とした言い伝えの総称である。
椀貸伝説の例
 金屋という場所に大きな岩があり、その岩の側で「膳椀を何人分貸してくれ」と叫ぶと、翌朝には希望した数の膳と椀が用意されていた。ある時、不心得者が借りた椀の数をごまかして返したところ、2度と貸してもらえなくなった。 —鳥取県 八頭郡の伝承、『昔話伝説小事典』みずうみ書房 1987年
概要
 近世以前の日本では、家に家族に必要な数以上の食器を持たなかったため、婚礼など人数が集まる催しの際に余所から膳や椀を借りるという状況はしばしば発生した。 椀貸伝説は奥羽から九州まで日本の広い範囲に伝搬しているが、特に中部地方や北関東の山沿いなどに多く伝わっている。概ね上記の例と同じ筋書きだが小異は多く、貸してくれる相手は童子や河童、龍、女神、お地蔵様や、上記の事例のように正体不明であったり様々である。〈後略〉」


 漢字表記にこじつけた創作物語がはびこっていますが、これもまた縄文語地名の仮借漢字表記が出所です。「椀貸」は縄文語の「ワ・カシ=岸の・上」or「ワ・ケシ=岸の・はずれ」で、この物語が語られる地域は日本全国、必ず「水辺」と決まっています。自ずと池沼端が多くなります。

 越前の椀貸山古墳の場合は単に”周濠を持つ古墳”の意です。

◎縄文語:「椀貸山(古墳)」
=「ワ・カシ・ヤマ」=「岸の・上の・山」

or「ワ・ケシ・ヤマ」=「岸の・はずれ(末端)の・山」
※岸辺の山

  ◎「椀貸山古墳」とは(「北陸最大級の横山古墳群-神奈備山古墳とその系譜― 」あわら市郷土歴史資料館/展示解説シート)
「この古墳は、坂井市丸岡町坪江にある前方部を北北西に向けた前方後円墳で、標高約 16mの山麓部の平地に立地します。越前では、幅 12m余の馬蹄形の周濠をもつことが確実な唯一の古墳です。しかし、周濠は工場敷地として完全に埋め立てられ、石室も現在は埋め戻されています。墳丘は、2段築成とされ、ほとんど盛土によって造られたと考えられています。墳丘斜面に円礫の葺石が施されていたと考えられており、埴輪片も採集されています。現状の古墳の規模は全長 42m、後円部径28.2m、同高5.7m、前方部長21m、同幅24.3mを測ります。
 埋葬施設は、後円部中央からくびれ部に向かって開口する片袖式の横穴式石室で、奥壁に沿って左右の立柱状の石に屋根となる石材を載せた石屋形があり、その石材には赤色顔料が塗布されていたようです。かつて石室の天井石が落下した際、石室内から須恵器片が採集されています。
 永平寺町の5世紀末の二本松山古墳に続いて築造された6世紀前葉頃の越前の大首長墓とされ、これ以前とは造営地域が大きく異なることから、継体天皇との関わりでよく論じられます。 」


 「椀貸伝説」については、すでに各地の地勢との一致を調べています(※「日出ずる国のエラーコラム総集編No.8」)ので、解釈はほぼ確実です。
 「椀貸山古墳」は周濠を持つ古墳ですから、縄文語の「岸辺の山」は固有名詞としてふさわしい表現です。竹田川は7~800m離れていますので、”川岸”の意とするには少々無理があります。
 築造時期は六世紀前葉ですので、継体天皇とまさに時代が一致することになります。

 ちなみに「丸山」も「椀貸山」と同じ地勢を表現しています。

◎縄文語:「丸山(古墳)」 =「マ・オロ・ヤマ」=「谷水・のところの・山」※水辺の山。

 筆者が調べたところ、「椀貸伝説」ほか、「白鳥伝説」や「羽衣伝説」なども縄文語地名の仮借漢字表記にこじつけた創作が起源となっています。
 その他、「一寸法師」や「浦島太郎」、「金太郎」など、日本昔話と言われる物語の多くにもその可能性が潜んでいます。

◎縄文語:「白鳥」=「シ・オ・タオル」=「山・裾の・水際の高所」
◎縄文語:「羽衣」=「パケ・ル」=「岬の・頭」
◎縄文語:「一寸法師」=「エテュ・ポ・ウシ=「岬の・小さいもの・のところ」
◎縄文語:「浦島太郎」=「ウ・サマ・タオ」=「丘の・ほとりの・水際の高所」 ※土佐周辺の地勢
◎縄文語:「金太郎」=「キ・タオ」=「山の・水際の高所」 ※箱根の芦ノ湖のほとりの金時山
 ※◎縄文語:「金時山」=「ケィ・タ・ヤマ」=「頭(頂)が・石の・山」

 これらの手法に先鞭を付けたのは、記紀風土記に記される神話、渡来人の活躍物語、地名由来譚ですが、それはあくまで「日本では」という条件つきです。
 日本で八百万の神が創作されるよりはるか昔、中国では『山海経』という奇書が紀元前(前四世紀~三世紀頃)にかけて成立しています。
 この『山海経』には荒唐無稽な妖怪が無数に登場しますが、それらは四夷の言語に対する仮借漢字表記が中原の人々によってこじつけ創作されたものです。筆者の漢代の県名の調査では、四夷、特に東夷南蛮の言語が縄文語であった可能性が高いことを示しています。つまり、中国の『山海経』の妖怪も日本の八百万の神とまったく同じ過程を経て生まれていたということです。
 中国では西王母などの一部を除いて『山海経』の妖怪を信じる人はいませんが、日本の八百万の神々は、実に千年の時を超えて人々の暮らしの中に広く深く生き続けています。


 次は、彦主王の近江国、「山津照神社古墳」を調べます。

◎縄文語:「山津照(神社)」 =「ヤマ・テューウテュ」=「山の・峰の間」

 これは、完全に地勢と一致するので、考えるまでもありません。ただ、残念ながら、神社名ともども地名由来なので、固有名詞ではありません。この地域での縄文語使用は確実ですが、使用時期まで特定することはできません。

 山津照神社の所在地は「米原市能登瀬」で、西隣の地区は「日光寺」です。

◎縄文語:「能登瀬」 =「ノッ・ウシ」=「岬・のところ」
◎縄文語:「日光寺」
=「ニ・ウシ」=「隙間・のところ」

or「ニ・コッ(寺)」=「隙間の・窪地」

 「山津照=山の峰の間」 の解釈と非常に相性のいい地名です。

 「日光寺」の地名は近隣の「密厳院日光寺」から名付けられたのが通説だと思いますが、実態は逆です。縄文語地名に仮借漢字を充てて命名されたのが日本黎明期の寺名です。
 「斑鳩寺=エンコ・カ=岬の・ほとり(松尾山のほとり)」「法隆寺=ポン・レ=小さな・山陰(松尾山の丘陵の間)」「四天王寺=シテュ・ウン・ノッ=大きな峰・にある・岬(上町台地の突端)」「飛鳥寺=アゥ・チゥ・カ=隣の・水流・のほとり(飛鳥川の岸辺)」。

 記紀風土記以来、お寺も神社も決して真実は語りません。なぜなら、南方系先住民文化が生き返るからです。それは北方系渡来人である自らの存在の否定に繋がります。


■山津照神社古墳 ( 滋賀県米原市能登瀬)


  継体天皇とは無関係ですが、九州系の石屋形が採用されている紀伊の「椒古墳」も解釈します。五世紀中~後半の前方後円墳で後円部直径二十メートルです。

◎縄文語:「椒(古墳)」 =「ポッチェィ・カ・モィェ」=「泥の・ほとりの・入り江」
(紀伊国/有田市)

 所在地は「有田市初島」です。初島には大国主を祀る「國主(くぬす)神社」があります。

◎縄文語:「初島」 =「ポッチェィ・サマ」=「泥の・ほとり」
◎縄文語:「國主(神社)」 =「コッネ・ウシ」=「窪んでいる・ところ」

 これらも辻褄の合う解釈が可能です。


■椒古墳と國主神社 ※窪地にある古墳と神社。





第五百十一回第五百十二回第五百十三回第五百十四回第五百十五回第五百十六回/ 】 ※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
継体の不審死と磐井の乱~磐井を賊にして王朝交代は隠蔽された
第五百十三回「継体天皇の宮の縄文語解釈」
 継体天皇は即位してからもなかなかヤマトに入れず、晩年の数年間だけ磐余玉穂宮を入っています。

▼継体天皇の皇居の変遷(『日本書紀』)
・507年(58歳)樟葉宮(大阪府枚方市))
・511年(62歳)筒城宮(京都府京田辺市)
・518年(69歳)弟国宮(京都府長岡京市)
・526年(77歳)磐余玉穂宮(奈良県桜井市)
・没年 534年 or 531年

 これらの宮はいずれも周辺地勢と一致する縄文語解釈可能です。

 まずは 「樟葉宮」。
 「樟葉」の地名由来は「第十代崇神天皇の時、謀反を起こした武埴安彦命の敗走の際、恐怖した兵士の袴から屎が落ちた場所を屎褌(くそばかま)といい、訛って樟葉になった」と日本書紀にありますが、もちろん史実ではありません。この物語も縄文語地名の語呂合わせから生まれています。

◎縄文語:「樟葉(宮)」
=「ク・パ」=「対岸の・岬」
or「ク・ウン・パ」=「対岸の・にある・岬」

or「ク・オ・パ」=「対岸の・ところの・岬」※淀川対岸の石清水八幡宮の男山

 ついでに八幡宮も。日本全国の八幡様は川沿いにあります。

◎縄文語:「八幡」 =「ペッチャ」=「川端」


■樟葉宮 ※対岸の岬。石清水八幡宮の男山のほとり。




 次に筒城宮。これは、他に解釈候補が考えられないほど、発音、地勢ともに一致しています。

◎縄文語:「筒城(宮)」 =「テューテュ」=「出崎」

 筒城宮比定地は現在の同志社大学京田辺キャンパスです。 ほか、綴喜、都築などの地名も同語源で、いずれも山、丘陵の地勢となっています。


■筒城宮跡地 ※同志社大学キャンパスの丘陵地帯。




 弟国宮の比定地は長岡京市北部です。 聖徳太子が開いたとされている乙訓寺があります。聖徳太子はヤマト王権を簒奪した北方系渡来人側の代表的存在なので、このあたりから彼らに都合の良い建国物語が大々的に語られることになります。

◎縄文語:「弟国(宮)/乙訓(寺)」 =「オタ・オ・コッネ・イ」=「砂浜が・そこで・窪んでいる・ところ」

 「長岡」も同じ地勢の言い換え表現になっています。

◎縄文語:「長岡」 =「ナィ・カ・オ」=「川・岸の・窪地」

 このあたりは「小畑川」と桂川の合流点です。周辺地名は「川下の岬と低地」で一致しています。


■乙訓寺、弟国宮比定地周辺の縄文語解釈(国土地理院の電子地形図を加工して作成)


◎縄文語:「馬場」 =「パン・パ」=「川下の・岬」
◎縄文語:「野添」 =「ノッ・エ」=「岬の・頭」
◎縄文語:「柴の里」 =「シ・パナ・サン・タ」=「最も・川下の・出崎・の方」
◎縄文語:「段ノ町」 =「タン・ノッ・マーテュ」=「こちらの・岬の・波打ち際」
◎縄文語:「植野(町)」 =「ウェン・ノッ」=「難所の・岬」
◎縄文語:「神足(こうたり)」 =「コッ・タオリ」=「窪地の・岸の高いところ」

 なぜ、こんなに「岬」「窪地」の地名が多いのか。答えは「小畑川」の桂川合流点の地勢にあります。

◎小畑川の水害(wikipedia)
「小畑川は桂川と合流する下流域が天井川化している部分があり、台風などで堤防決壊や越流で多大な被害を出していた。記録の残る明治以降でも1885年(明治18年)7月の台風では勝竜寺と下植野の境界付近で破堤、浸水。のちに「大正大洪水」と言われた1917年(大正6年)10月の水害では下植野の松ノ木橋で1時ごろからあふれ出し、警戒していた青年団員も避難しその直後に破堤して下植野の大半が浸水した。〈後略〉」

 地名の解釈を見ると、かつては乙訓近くまで水辺であったようです。

 ちなみに「小畑川」は秦氏とはまったく関係ありません。

◎縄文語:「小畑」 =「オン・ハッタ」=「古い・淵、水が深くよどんだところ」

 の意で、これも桂川との合流点付近を的確に表現しています。縄文語地名は解釈が妥当であれば、極めて正確に地勢を言い当てます。

 「一文橋」の地名由来は向日市公式HPに次のようにあります。

×一文橋地名由来(向日市公式HP) 
「向日市と長岡京市の市境、西国街道が小畑川を渡る地点に架かる橋です。小畑川は暴れ川で、何度も洪水により橋が流されたため、通行人から一文ずつ徴収して橋の架け替えの費用に充てたという伝承からこの名前がついています。 」

 神話、伝承、昔話など、古文献筆頭にこのような漢字表記にこじつけた物語が真実だったためしがありません。 「一文橋」と西隣の「今里」は同じ地勢の言い換え表現となっています。

◎縄文語:「一文橋」 =「エテュ・ウン・モ・パ・ウシ」=「岬・にある・小さな・頭・のところ」
◎縄文語:「今里」 =「エン・モ・サン・タ」=「突き出た・小さな・出崎・の方」
 

 一応、ヤマトの磐余玉穂宮も解釈します。これも地勢と完全に一致しています。

◎縄文語:「(磐余)/玉穂(宮)」
=「(イウォ)/タン・マ・ポ」=「(先祖を祀る神聖な場所)こちらの・谷川の・小さいもの」

or「タン・マ・ホ」「こちらの・谷川の・尻(山裾)」

 これから百年後のヤマトでは、日本語を漢字で表わした万葉仮名表記の歌が歌われることになります。それは決して縄文語ではありません。


■磐余玉穂宮跡




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◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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