
【 第四百二十一回~第四百三十回 】
第四百二十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【香川県】讃岐氏・忌部氏・綾氏~」
×「讃岐の讃岐氏、忌部氏、綾氏」について(『郷土資料辞典/古代氏族』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【景行天皇の皇子、・・・・・・神櫛(かんくし)王の後裔が応神天皇の時代に、はじめて讃岐国造に任ぜられたようである。神櫛王の勢力範囲は今の木田郡と大川郡の一部を含んだ東讃岐地方であったと思われるが、その子孫の中で最も勢力を振るったのは讃岐氏である。
これにたいして西讃岐地方の開発先駆者は、太玉命の子孫を称する忌部氏であったといわれており、それを裏づけるように今でも忌部氏の祀った神社が多く残っている。そのほか中部讃岐地方には、香川郡に秦氏、綾歌郡の東半分に綾氏がいた。いずれも帰化人系の氏族で、その部民は養蚕や機織りに従事していたようである。これらの統率者の墓と思われる古墳が県内に一五〇〇基あまり残されているが、円墳が大部分で、前方後円墳は少ない。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
まずは、分かりやすい西讃岐の忌部氏から。
忌部氏はもともと阿波(徳島)の大麻山(大麻比古神社)周辺から発生した氏族ですが、その意味は、
◎縄文語:「忌部」=「エ・エン・ぺ」=「頭が・尖っている・もの」=尖り山
で、ずばり大麻山の地勢を表現しています。そして「大麻山」は、
◎縄文語:「大麻山」=「オオ・アサム・ヤマ」=「深い・(入り江、谷の)奥の・山」
の意で、これも「大麻山」周辺の地勢を表現したものです。これが、「忌部氏が麻を植える」理由です。つまり、縄文語の「アサム」に「麻」という漢字が充てられたことに起因する単なるこじつけで、そんな物語には信憑性のかけらもないということです。
■忌部氏の祖を祀る大麻比古神社(奥宮)が頂にある大麻山(中央) ※尖り山。
■大麻山(大麻比古神社)周辺の縄文語解釈 ※深い(入り江、谷の)奥の山。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

「天太玉の孫の天富命が安房に移って麻を植えた」という物語も、縄文語地名の「アゥ・ワ=枝分れた、隣の・岸(対岸)」に充てられた「阿波」と「安房」を結んだ語呂合わせから生まれています。「阿波」と「安房」にたまたま同一地勢、同一地名があったことが理由です。
ちなみに「総=麻」ではありません。「総=プッ・サ=川口の・浜」の意です。
日本全国の「ハッタル=淵、水が深くよどんだところ」で「秦氏が機織り」をしたり、「支族の服部氏が活躍」するのも、「シル・オ・ケ=山・裾・のところ」で「新羅系渡来人を引き連れて天日槍が活躍」するのもまったく同じロジックです。
「コム=丸山(湾曲したもの)」「コム・マ=湾曲する・谷川」の「高麗(高句麗)人」、「クッチャル=湾や湖沼の入口」の「百済人」もしかりです。
いずれも日本に無数にあるありきたりな地勢なので、これらを結べば必然的に渡来系の人々が大活躍することになります。こういった物語が黎明期の日本の歴史に無数に鏤められています。
以下「コム=丸山(湾曲したもの)」「コム・マ=湾曲する・谷川」の地勢に「高麗」の漢字が充てられた代表例です。
■高麗山(神奈川県大磯町) ※丸山。
■高麗寺(岡山市中山) ※丸山。
■高麗川(埼玉県日高市) ※湾曲する川。
■狛(旧高麗村)(京都府木津川市) ※木津川が湾曲。 ■高麗田(京都府乙訓郡) ※桂川、宇治川、木津川が合流し、石清水八幡宮の男山を避けて湾曲。
◎縄文語:「高麗田」=「コム・マ・チャ」=「湾曲した・谷川の・岸」
西讃岐地方で”忌部氏が活躍”したとされるのも、また”忌部氏を祀る神社”がたくさんあるのも同じ理由です。つまり、これらは単に、
●西讃岐に”尖り山(=忌部)”が存在することに由来
しています。
讃岐には西讃岐だけでなく、全域にわたって「尖り山」が点在しています。どこで忌部氏が活躍しても不思議はない訳です。ただし、それが阿波の忌部氏の血を引く一族が繁栄したことを示している訳ではありません。
■西讃岐地方の山並み(三豊市)※讃岐にはいたるところに尖り山が存在。
■忌部神社(三豊市)周辺から北方を望む ※讃岐にはいたるところに尖り山が存在。
次に中部讃岐。
金刀比羅宮のある「象頭山」の北半分は「大麻山」と呼ばれています。ここでも阿波の「大麻山」と結びつけて「忌部氏」を活躍させる説が当たり前のようにありますが、これも違います。繰り返しになりますが、
◎縄文語:「大麻山」=「オオ・アサム・ヤマ」=「深い・(入り江、谷の)奥の・山」
の意で、縄文語地名を結んで物語を創作しているだけです。
■大麻山 ※入り江の奥の山。
秦氏については前述のように
◎縄文語:「秦(氏)」=「ハッタル」=「淵、水が深くよどんだところ」
の意です。讃岐は全域で湖沼が豊富な土地柄です。
そして、「綾氏」。
◎縄文語:「綾(氏)」=「アゥ・ヤ」=「枝分かれた・陸岸」
讃岐山脈を源とする川も多いので、当然このような場所もあるでしょう。『日本の中の朝鮮文化』に頻繁に登場する朝鮮半島の加羅諸国の小国「安耶」に由来するという説にも妥当性はありません。朝鮮半島南部も縄文語圏だったというだけです。
つまり、「忌部氏」も「秦氏」も「綾氏」も讃岐にあるありきたりな地勢由来の名称なので、これらの人々がどこで活躍しても不思議はないということになります。
これらの名をもとに”各氏族の繁栄と結びつける説”は非常に危ういものだということです。必然的にその出自が渡来系かどうかを判別するのも難しくなります。古文献にはこの類のこじつけ物語が無数にあるので、どの文献に何が書いてあろうとも安易に信用はできません。
最後に東讃岐地方。
◎縄文語:「神櫛(かんくし)王」 =「カン・クシ・アゥ」=「上にある・川向こうor山向こうの・枝分かれ」
※枝分れた川向こう、山向こうの高台の意か
瀬戸内海沿いには讃岐山脈から分離した山並み、岬がたくさんあります。それを
◎縄文語:「讃岐(氏)」 =「サン・ノッケ」=「前にある・岬」
と表現していますので、「神櫛」はその対比表現とも捉えられます。
■讃岐周辺の縄文語解釈(国土地理院の電子地形図を加工して作成)

「神櫛王」は中讃岐の城山神社でも祭られていますが、 城山神社はもともと城山の山頂、明神原にありました。「明神原」は城山の”東の突端”ですが、この「明神原」の地勢が、
◎縄文語:「神櫛王」 =「カン・クシ・アゥ」=「上にある・山向こうの・枝分かれ」
の表現にピッタリです。
■城山(香川県坂出市)※頂がたくさんある山。右端の突起した山が明神原。「上にある山向こうの枝分かれ」
「明神原」の「ミョウ」は、縄文語で「ムィ・オ=頂が・たくさんある」の意で、城山の山容を指したものと思われます。同様の解釈は「妙見信仰」「妙義山」「妙高高原」などにも見られます。
「妙見信仰」は一般的に、北極星、北斗七星の信仰とされていますが、その実態は他の神社と同じように縄文語地名を渡来文化で上書きしたものです。
日本の八百万の神の多くは、縄文語の仮借の漢字表記の語呂合わせから生まれた創作物です。それら由緒は記紀風土記と密接に連携していて、真実を語ることは一切ありません。六~七世紀に大和王権を簒奪した北方系渡来人による支配政策の一環だったということです。
◎縄文語:「明神(原)」 =「ムィ・オ・ウシ」 =「頂が・たくさんある・もの」※城山
◎縄文語:「妙見/妙義(山)」=「ムィ・オ・キム」=「頂が・たくさんある・山」
◎縄文語:「妙高」=「ムィ・オ・コッ」=「頂が・たくさんある・谷、窪地」 →google map
なお、日本三大妙見の一つである相馬妙見の場合は、相馬氏が妙見を信仰したことによるものなので、地勢は無関係です。
城山城、明神ヶ原については第四百三十一回コラムをご参照ください。
■日本三大妙見/八代神社(妙見宮/熊本県八代市)後背の山並み ※頂がたくさんある山。
■日本三大妙見/能勢妙見山(妙見宗総本山 本瀧寺/大阪府)の山並み ※頂がたくさんある山。
■妙見宮のあった防府市下右田の右田ヶ岳(中央) ※頂がたくさんある山。
■妙見信仰の金輪神社(山口県下松市)後背の大谷山、茶臼山、鷲津山の山並み。※頂がたくさんある山。
■岸津妙見社(防府市国衙町)後背の山。※頂がたくさんある山。 ■妙義山(群馬県)※頂がたくさんある山。
【参考】神社の縄文語解釈
◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャム」=「川端」※全国の八幡神社の地勢。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カシ・ケ」=「その上・のところ」(高台)※奈良の春日大社の地勢。
◎縄文語:「愛宕(神社)」=「アッ・タプコプ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or尾根の先端の突起の山)」 ※全国の愛宕山の地勢。
◎縄文語:「熊野(大社)」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」 ※熊野本宮大社前の山。
◎縄文語:「白山(神社)」=「ハク・サン」=「浅い・平山、出崎」(薄っぺらな平山)※白山の地勢。全国の白山神社(から望む景色)の地勢。
◎縄文語:「薬師(神社、寺)」=「ヤ・ケシ」=「岸の・末端」(岸辺) ※奈良の薬師寺ほか、全国の薬師寺、薬師神社の地勢。
◎縄文語:「金刀比羅(神社)」=「コッチャル・ピラ」=「谷の入口の・崖」※香川象頭山の地勢。
◎縄文語:「新羅神社」=「シル・オ・ケ=山・裾・のところ」
◎縄文語:「高麗神社」=「コム・マ」=「湾曲した・谷川」
【参考】初期寺院の縄文語解釈
◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レル」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩寺」=「エンコル・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。
第四百二十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【愛媛県】唐子山、唐子台、唐子浜・妻鳥町・東宮山古墳~」
×「唐子山、唐子台、唐子浜」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【糸井通浩氏の「伊予の古代と渡来文化」をみると、今治には「唐子(からこ)山」のほか「唐子台」「唐子浜」というところもあって、これはもと「韓子」すなわち「韓処」で、その「コ」とは集落を意味した百済古語ではなかったかとしている。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
上記の説にはまったく真実が含まれていません。
「唐」「韓」「軽」「辛」は縄文語の「カル=曲がっている様」の地勢に充てられることが多く、「丸山」あるいは「曲がっている川や峰」の表現に用いられます。
◎縄文語:「唐子山」
=「カル・コッ・ヤマ」=「曲がっている・窪地の・山」
or「カル・カ(山)」=「曲がっている山・のほとり」
「唐子台」「唐子浜」は「唐子山」周辺にありますので、「唐子山」由来の地名とするのが妥当です。その地勢を見れば一目瞭然です。
周辺には「桜井」「登畑」の地名があります。
◎縄文語:「桜井」 =「サン・カ・ラィイ」=「出崎の・ほとりの・死んでいるところ(水がよどんでいるところ)」
◎縄文語:「登畑」 =「ヌプリ・ハッタル」=「山の・淵、水が深くよどんでいるところ」
同じ地勢の言い換え表現となっています。もちろん「ハタ」がつくからといって、秦氏が関係している訳ではありません。
■唐子山 ※丸山。曲がっている山。
■唐子山(国分山城跡) ※周辺には湖沼が点在。
また、 「カル=曲がっている様」のほかに「丸山」「湾曲する川や峰」の地勢を表す表現には「コム=湾曲している様」がありますが、こちらには「高麗」「狛」「鴨」「蒲生」などの漢字が充てられます。
ちょうど「唐子台」の近隣に「高麗池」があります。ご多分に漏れず、「高麗系渡来人が~」という俗説があるようですが、これも漢字表記こじつけ説で史実ではありません。
◎縄文語:「高麗」 =「コム」=「丸山(湾曲している様)」
の意です。「高麗池」の目の前の山を指したものと思われます。
■高麗池の前の山 ※丸山。
■高麗池
上記「カル=曲がっている様」に関連して、第十九代允恭天皇皇子に木梨軽皇子(かるのみこ)という人物がいます。同母妹と情を通じて廃太子され、伊予に流された人物ですが、その陵墓が愛媛県四国中央市妻鳥町にある東宮山古墳に治定されています。東宮山古墳からは愛媛県内ではほかに例がないほどの豪華な副葬品が出土しています。
しかし、東宮山古墳は六世紀の築造、横穴式石室を持つ後期古墳で、第二十六代継体天皇あたりの時代ですから、軽皇子の陵墓とするには時代が合いません。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
△「東宮山古墳の出土物」について(『妻鳥町誌』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【出土遺物は特殊服飾品、馬具、須恵器に大別される。この中で最も注目されるべきものは前にも述べたように大陸文化、特に新羅・百済の影響を受けまたは直接にもたらされたかも知れない金銅冠や三葉環頭があり、内行花文鏡、細い金環、多数の玉類、馬具、冑の存在はこのあたりの古墳にみられないものである。 】
×「軽」について(『大和の祖先』松本清張 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【記紀によると孝元天皇は「軽の境原宮」にいたという。軽の地は高市郡で、いまは橿原市に入っている。この地名から軽皇子や軽太子、軽太郎皇女の名がある。「軽」は「韓」である。 この近くの弥生遺跡で有名な「唐古」も唐ではなく、韓からきていると思う。<唐古池は、もと韓人池といった>
法隆寺のあたりを斑鳩(イカルガ)の地という。名義不詳となっているが、これも「軽」から出ているとみてよい。カルにイの接頭語がついたのであろうか。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
奈良の「軽」も高取川が曲がっている様を表現しています。詳しくは第二百六十三回コラムをご参照ください。
◎縄文語:「軽の境原(宮)」=「カル/サン・カ・エ・ハ・ラ」=「回る、巻く/出崎の・上・そこで・水が引いた・低地」(曲がった川の出崎の上の低地)
◎縄文語:「橿原」=「カシ・ハ・ラ」=「その上・水が引いた・低地」
◎縄文語:「軽/曲峡(宮)」=「カル/マ・カリ・オ」=「回る、巻く/谷川を・巻く・川尻」(曲がった谷川の川口)※第四代懿徳天皇の宮
◎縄文語:「軽/曲(殿)」=「カル/マ・カリ」=「回る、巻く/谷川を・巻く」(曲がった谷川)※蘇我稲目の居館
■「軽」周辺 ※高取川が曲がっているところ。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)

唐古池に関しては、「カル=曲がっている様」の地勢と一致しないので、次のように解釈しています。
◎縄文語:「唐古」=「カラ・コッ」=「岸の低地の・窪地」(唐古池周辺の低地)
◎縄文語:「韓人(池)」=「カラ・ペト」=「岸の低地の・川口」(唐古池周辺の低地)
縄文語と漢字は一意で厳密に結びつけられている訳ではないので、周辺地勢、周辺地名解釈との整合性を優先しています。
■唐古池 ※岸辺の窪地。
「法隆寺」の「斑鳩」は考えるまでもありません。
◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レル」=「小さな・山陰」
◎縄文語:「斑鳩」=「エンコル・カ」=「岬の・ほとり」
「松尾山のふもと」という意味です。
初期寺院は縄文語地名の仮借の漢字表記がもともとの命名由来ですが、絶対に真実は語りません。
■法隆寺 ※松尾山のふもと。
だいぶ横道にそれましたが、愛媛の「東宮山古墳」に戻ります。
古墳名と所在地の「妻鳥町」は、言い換え表現となっています。
◎縄文語:「妻鳥(町)」 =「メム・ト・オロ」=「泉・湖沼・のところ」
◎縄文語:「東宮山(古墳)」 =「トー・ケ・サン」=「湖沼・のところの・出崎」
「東宮山古墳」の北側には「春宮(とうぐう)神社」があります。「東宮」「春宮」ともに皇太子を指しますが、これらの文字を充てたので、 「東宮(春宮)=皇太子=軽皇子」という連想ゲームとなった可能性があります。
■妻鳥町の東宮山古墳 ※湖沼地帯。
春宮神社は、宇佐八幡にもあります。八幡大神とされる第十五代応神天皇の皇子である莵道稚郎子命を祭っています。
「八幡」は縄文語で「ペッチャム=川端」の意で、八幡神社は日本全国「川端」にあります。神社も初期寺院同様、縄文語地名の仮借の漢字表記にこじつけた神様を祀っているだけですから、応神天皇が祭神などというのはハナからデタラメです。ありうるとすれば先住民による川端の自然崇拝です。
なので、「春宮神社」も”推して知るべし”ということです。「春宮神社」周辺の地勢を見てみます。こちらも湖沼端(菱形池のほとり)であることが分かります。
■春宮神社(大分県宇佐市/宇佐神社境内)※菱形池のほとり。
第四百二十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【愛媛県】伊予三島・宇摩・秦氏・阿陪小殿~」
×「伊予三島市(現四国中央市)」について(『伊予三島市の歴史と伝説/伊予三島市のあらまし』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【この郷土三島の名の起こりは、三島町三島神社に起因するもので、元正天皇の養老四年八月、宇摩郡の大領越智玉澄が上柏の御所と呼ぶところに館をつくり、また八綱浦の御崎冠岡に神殿を造営、大三島より大山祇大神を御勧請申し上げて奉斎、土地を三島と呼んだことから始まると伝えられています。
また宇摩地方は古代から地下資源に恵まれていまして、砂金(朱金)、銅などの鉱産物が多く産出されて、<中略>恵まれた鉱石の産地でありました。そのため朝廷に於いては、この宇摩地方の地下資源(鉱産物)を採取するため、帰化氏族の秦氏を派遣して常(津根)の里に住まわせたのです。
その後孝徳天皇の御代に及んで、秦氏の一族阿陪小殿小鎌が、朱金(砂金)採集の命令を受けて津根の里に来住、この値の豪族秦首の女と結婚して土着し、この津根を根拠地として、金生、金田、金砂地方に於いて専ら砂金の採集に当ったのでありました。<中略>
朝廷は砂金の採取に力を尽くしたその功を賞して、称徳天皇の天平神護二年、秦毗登浄足(はたひとのきよたり)等十一人に対して、阿陪小殿朝臣の姓を賜ったと『続日本紀』に記してあります。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
三島については、静岡県の三島神社の項で詳しく取り上げています。(※第三百五十三回コラム参照)
「三島/三嶋」 については、所在地の地勢によって複数の解釈があります。 縄文語と漢字は一意で厳密に結びつけられている訳ではないので、周辺地勢、周辺地名との整合性を見る必要があります。
解釈は以下です。
◎縄文語:「ミシマ」
=「ムィ(orモィ)・サマ」=「入り江の・ほとり」
or「メム・サマ」=「泉の・ほとり」 ※三嶋大社
or「メム・スマ」=「泉の・石、岩」※三嶋大社
or「ムィ・スマ」=「頂の・岩」※大三島
多くの場合、「入り江のほとり」「泉のほとり」と解釈することが可能です。
静岡県の三嶋大社の場合は、富士山の麓の湧水が豊富なところで溶岩がごろごろしていますから、「泉のほとり」のほか、「泉の石、岩」の解釈が可能です。
瀬戸内の大三島の場合は島の名称ですから、特に舟を操る人々にとってランドマークとしてふさわしいのは大三島の中央に聳える最高峰、「岩の頂」の「鷲ヶ頭山」となります。「鷲ヶ頭山」やふもとの「大山祇神社」も辻褄の合う解釈が可能です。
◎縄文語:「大三島」 =「オオ・ムィ・スマ」=「大きな・頂の・岩」
◎縄文語:「鷲ヶ頭山」 =「ウェィシル・カン・テュ」=「水際の断崖の山・上にある・峰」
◎縄文語:「大山祇(神社)」 =「オオ・ヤマ・テュ・モィ」=「大きな・山の・岬の・入り江」
■鷲ヶ頭山 ※頂は岩の峰。
大山祇大神は一般的に百済から渡来した神と言われていますが、大山祇大神だけでなく、ほぼすべての神社は「百済」系と言えます。なぜなら、その由緒が百済王族語、高句麗語と同系である(上代)日本語の解釈で語られるからです。これらは開音節で終わる特徴を持つ北方扶余系言語です。日本先住民、朝鮮半島南部、中国東夷南蛮は南方系民族で閉音節で終わることの多い縄文語を共有しています。
八百万の神は縄文語地名の仮借の漢字表記にこじつけた創作物語から生まれています。大山祇大神が「百済」由来の神とされたのも、周辺に「クッチャル=湾や湖沼の入口」というありきたりな縄文語の地勢があり、「百済」という漢字が充てられたからです。「百済」の地名は関東、関西など各地にありますが、決して”百済人の活躍”が地名由来ではありません。
同様に 「高麗」は「コム=丸山」「コム・マ=湾曲した・谷川」、「新羅」は「シル・オ・ケ(orシロケシ)=山裾」の意です。
この類のこじつけ物語が、黎明期の日本の歴史でどのぐらい語られているか数えてみてください。ほぼすべての地名由来は同類のデタラメです。 通説、俗説問わず、堂々と世間に流布されています。
大三島の場合は、大山祇神社の入り江の入口に「御串山」があります。
◎縄文語:「御串山」 =「ムィ・クッチャル・ヤマ」=「入り江の・入口の・山」
■大三島大山祇神社周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

伊予三島に話を戻すと、この「三島」で考えられる解釈は次の二種です。
◎縄文語:「三島」
=「ムィ(orモィ)・サマ」=「入り江の・ほとり」
or「メム・サマ」=「泉の・ほとり」
地勢から考えて、「入り江」のほとりは間違いないのですが、周辺には「湖沼」も点在しています。そして、三島神社を「八綱浦」勧請したのは「越智」氏です。北西には隣接して前項で取り上げた「妻鳥(めんどり)町」があります。
また、この地域はかつて宇摩郡でした。
◎縄文語:「宇摩(郡)」 =「ウェン・マ」=「難所の・谷水」
◎縄文語:「八綱(浦)」 =「ヤチ・ナ」=「泥・の方」
◎縄文語:「越智」 =「オン・チゥ」=「古い・水流、水脈」
◎縄文語:「妻鳥(町)」 =「メム・ト・オロ」=「泉・湖沼・のところ」
◎縄文語:「東宮(山古墳)/春宮(神社)」 =「トー・ケ」=「湖沼・のところ」※妻鳥町の古墳、神社。
※「東宮」「春宮」を”皇太子”と解釈するのは、漢字表記によるこじつけの可能性が高い。
いずれにしても、”三島神社を勧請したのが地名由来”とするのが誤りであることが分かります。
■伊予三島神社
上記のように、この地域は湖沼が点在する湿地帯であったことが分かります。
そして、繰り返しになりますが、「秦氏」が活躍するのは、日本全国の「水辺」と決まっています。
◎縄文語:「秦(氏)/服部/機織り」 =「ハッタル」=「淵、水が深くよどんだところ」
つまり、秦氏というのは、縄文語地名を名乗っているだけなので、それが血縁で結びついた一族かどうか、新羅由来であるかどうかはまったく不明だということです。日本全国の水辺を集めれば、巨大氏族になるのは当然です。
孝徳朝に伊予に派遣されたという「阿陪小殿小鎌(あべのおどのおがま)」もこの湿地に関係した解釈可能です。
◎縄文語:「阿陪小殿(小鎌)」 =「アゥ・ぺ・オッ・ト・オロ」=「枝分れた・水・が群在する・湖沼・のところ」
第四百二十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【愛媛県】松山市畑寺・新畑・繁多寺・秦氏~」
×「伊予の秦氏」について(『伊予の秦氏族』梶井順次 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【彼(秦勝広庭ーはたのすぐりひろにわ)の本貫は伊予国温泉郡橘樹郷と明記されている。現在の松山市立花地区とその周辺に比定されているが、この地域には、ハタの地名が多く、畑寺、畠田、新畑、畑中の名が残り、繁多寺という古代建立寺院もある。秦氏の領域とみてまちがいないと思われる。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
上記の説は考察する順番が逆です。「秦氏由来の地名」ではなく、「縄文語地名由来の秦氏」です。地名の方が先です。
「秦氏」は日本各地の「水辺」の地名を名乗っているだけですから、それらが血縁で結ばれているか、また、新羅由来かも定かではありません。縄文語地名を結んでいるだけですから高確率でデタラメ、無関係です。
◎縄文語:「秦(氏)/服部/機織り」 =「ハッタル」=「淵、水が深くよどんだところ」
◎縄文語:「畑(寺)(はたでら)」 =「ハッタル(・テュ・オロ)」=「淵、水が深くよどんだところ(・の岬・のところ)」※山のふもとの湖沼地帯。
◎縄文語:「新畑(しんばた)」 =「シアン・ハッタル」=「大きな・淵、水が深くよどんだところ」 ※大池のほとり。
◎縄文語:「繁多(寺)」 =「ハッタル」=「淵、水が深くよどんだところ」 ※湖沼のほとり。
※畠田、畑中の場所は分かりませんでした。すみません。
■松山市の「ハタ」を冠する地名。※いずれも湖沼端。
第四百二十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【香川県】高松・屋島~」
×「高松の地名由来」について(『朝日新聞/京滋版/地名を探る=高松』(1985/5/21) ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【ひとつは市史編集室編『高松地名史話』を通説としてあげている高い松の木説である。むかし松の大木が高くそびえて、遠くからも目立っていた。松には枝や葉が茂って、朝日夕日に照らされたかげの長さが六町(約六五四メートル)に及んでいた。人々は大木を神木としてあがめ、大木の名を地名にすることもあった。里人は高松とよんだ。この説を支持するものに「今の新田町に『松の内』の小地名が残っている。ここが松の大木があったところだろう」というものなどがある。
もうひとつは猪熊信男氏著『高松地名考』の渡来人説である。渡来人は「高」の字を慕い、「松」を愛した。高と松の二字で居住する地名にした、という。「高松には古くから帰来という地名がある。帰化した人が住んでいたことを示すもので、大化改新の際の屋島城は、これら渡来人系の人々の手に助けられて築城されたのではないかとみられ、これがそれを証拠だてる」としている。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
上記の説はいずれも違います。
◎縄文語:「高松」 =「タク・マーテュ」=「石の・波打ち際」
地勢を見れば一目瞭然。
■長崎ノ鼻(高松市屋島西町)※高松市東部の岬。石の波打ち際。
■神在鼻(高松市神在川窪町) ※高松市西部の岬。石の波打ち際。
新田町の「松の内」は、
◎縄文語:「松の内」 =「マーテュ・ノチ」=「波打ち際の・岬」
です。海岸線は現在よりも内陸に入りこんでいて、海に突き出た岬に沿って複雑に折れ曲がった海岸線を作っていました。
◎縄文語:「讃岐」 =「サン・ノッケ」=「前にある・岬」
◎縄文語:「香川」=「カィカィ・ワ」=「たくさん折れた・岸」
or入り組んだ海岸線「カンカン・ワ」=「小腸のように折れ曲がった・岸」
治承寿永の乱で有名な「屋島」は
◎縄文語:「屋島」 =「ヤ(・ウン)・スマ」=「岸(・にある)・石、岩」
とすれば、辻褄が合います。
■高松市周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

「帰来」は東かがわ市の白鳥アルプスに「帰来山」があるので、単に山を指しただけです。帰化人のことではありません。
◎縄文語:「帰来(山)」 =「キル・エ」=「山の・頭(岬)」
■帰来(東かがわ市)※南部の白鳥アルプスに帰来山がある。
第四百二十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【香川県】石清尾八幡宮・猫塚古墳・石船塚古墳・姫塚古墳・鏡塚古墳~」
×「石清尾八幡宮」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(石清尾)八幡神社は京都の石清水八幡宮を勧請したものだったが、そこに、もとは秦氏族が豊前の宇佐に祭った八幡神(ヤ・ハタの神=多くの秦の神)の八幡神社があるというのも、なるほどとうなずけるような気がした。
なぜかというと、これからみるように、その石清尾山古墳群はみな新羅・加耶系渡来人である秦氏族や、同じ加耶(加羅・加耶ともいう)諸国のうちの一国だった安耶(安羅・安耶ともいう)からのそれであった綾(漢ともなる)氏族の墳墓といわれるものだったからである。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
日本全国の「八幡様」は必ず「川端」にあります。それは「八幡」が縄文語の「ペッチャム=川端」由来だからです。
◎縄文語:「石清尾/八幡(宮)」 =「イワ・シル・オ/ペッチャム」=「祖先の祭場のある神聖な山の・ところの・ふもと/川端」
「八幡神」の出所は決して「多くの秦の神」などではありません。牽強付会も甚だしい。
「八幡」は「ヤハタ」「ヤワタ」のいずれの読みでも同義です。
◎縄文語:
「ヤハタ」 =「ヤン・ハッタル」
=「ヤワタ」 =「ヤン・ワッタル」
=「陸岸にある・淵、水が深くよどんだところ」
縄文語(アイヌ語)では「ハッタル=ワッタル」で同じ言葉です。いずれも宇佐八幡周辺の地勢を表現しています。つまり、万一「八幡神」なるものが存在するとすれば、それは「水辺の神」ということになります。この日本全国の「水辺」に「秦氏」が便乗して繁栄を語っている訳です。
■宇佐神宮 ※内陸の水辺。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「石清尾山古墳群」について(『香川県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【石船塚・姫塚・北大塚は前方後円墳、猫塚・鏡塚は双方中円墳でいずれも古墳時代前期のものだ。この古墳群は、高松市一帯に住んでいた遠い祖先の墓であるといえるかもしれない。この山地の南方、西方地方に住んでいた秦氏、綾氏の一族の墓であるとも伝えられる。大小一〇五基におよぶ壮観さは、古代の文化をとくうえに重要な価値をもっている。】
×「石清尾山古墳群」について(『香川県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【石清尾山地に分布するこれらの積石塚古墳群は、古墳の前期といわれる紀元三~四世紀ごろに築かれたもので・・・・・・この古墳群は付近に住んでいた地元勢力を代表する豪族たちの墳墓であろう。
この山地の南方および西方地域の半田(はんだ)地方は、朝鮮から渡来した秦氏や漢(綾)氏の居住した土地といわれ、この一族の墳墓ではなかろうかともいわれる。】
×「讃岐の秦氏族」について(『わが町の歴史 高松』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【『続日本紀』には、七六九(神護景雲三)年十月庚申十日、讃岐国香川郡に秦勝倉下(はたのかつくらじ)という者がいて、これらの一族五二人に「秦ノ原ノ公」という姓をたまわった、ということが記されている。石清尾山塊の南と西にひろがる地域は、五世紀以降、渡来人の子孫である秦氏や漢(綾)氏が開発した地域といわれ、とくに香川郡は讃岐の秦氏の本拠であったと伝えられる。
秦氏が定着した地域は、屯倉のあった地域が多く、いまの高松市多肥(田部)・太田(大炊田に由来)などはそれにあたるといわれる。秦氏の勢力は近隣の木田郡や綾歌郡にも浸透していた。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
筆者は、六~七世紀に北方系渡来人により大和王権が簒奪されたと考えています。その後、地方支配の体制が着々と整えられていくとともに、北方系言語である上代日本語で記紀風土記の編纂が進められていきます。
『日本書紀』後続の『続日本紀』は平安初期の編纂ですから、その頃までに地方の国衙を中心に渡来系の人々が繁栄したのは容易に推測できることです。香川郡の「秦勝倉下(はたのかつくらじ)」が姓を賜ったということであれば、この人物もその地方支配の組織に組み込まれたということになります。
しかしながら、「秦勝倉下」自体が”渡来系”であったかどうかは、その名前からは判断できません。なぜなら「秦勝倉下」が讃岐の地勢を表現した縄文語地名由来の名前だと考えられるからです。
秦氏が縄文語地勢の「ハッタル=淵、水が深くよどんだところ」に便乗して繁栄を語っていることはこれまでも何度も書いています。当然、香川の「秦氏」と、京都を拠点としたいわゆる「秦氏」との関係もゼロベースから検討しなおさなければなりません。
「綾氏」の場合も同様です。「アゥ・ヤ=枝分かれた・陸岸」ですから、湖沼の多い讃岐では、あって当然の地名です。
◎縄文語:「秦/勝倉下」 =「ハッタル/コッチャ・キル・ウシ」=「淵、水が深くよどんだところ/窪地のほとりの・山・のところ」
「秦勝倉下」の名に含まれる「倉」を「キル=山」と解釈しましたが、ほかにも例があります。分かりやすいものでは伊勢の外宮の「高倉山」があります。
◎縄文語:「高倉(山)」 =「ト・カ・キル」=「湖沼・のほとりの・山」
伊勢の高倉山のふもとには湖沼が並んでいます。傍証として高倉山の別名の解釈も挙げておきます。いずれも「湖沼のほとりの山」を表現しています。
◎縄文語:「高賀佐(山)」=「コッ・カ・サン 」=「窪地、谷の・ほとりの・出崎」
◎縄文語:「高坐(山)」=「コッ・チャ」=「窪地、谷の・岸」
「高倉山」はほかにもありますが、その多くは「タク・キル=石の・山」の意のようです。縄文語と漢字は一意で結びつけられていないので、周辺地名や地勢との整合性を見る必要があります。
■伊勢神宮外宮(豊受大神宮)※湖沼のほとりの山。
このように北方系渡来人に都合のよい改竄が加えられている古文献や、これらに記載される同名をもとに氏族を結びつける説には確かな根拠があるとは言い切れません。他の裏づけが必ず必要と考えます。
香川県の秦氏と京都の秦氏との関係が疑われる以上、必然的に石清尾山古墳群の積石塚を築いたとされる人々が渡来系だとは断言できなくなります。
これらの積石塚は石清尾山の安山岩を積み重ねたものですが、「近場の石を積みあげて墳丘を築く」という単純な発想をすべて「高句麗」に結びつける必要はありません。河原遊びをしている子供でさえ、石は重ねるものです。
これらの積石塚は三~五世紀の築造です。筆者が進めた全国の大規模古墳の縄文語解釈では、多少の地域差はありますが、おおよそ六~七世紀代(大規模古墳の時代)まで辻褄の合う解釈が可能なので、大和王権が北方系渡来人に簒奪される前は、全国で南方系先住民の勢力が強かったものと思われます。この地域での古墳の築造が五世紀で途絶え、百年の空白期間を挟んで横穴式石室の古墳が築造されるのは、その勢力交代を暗示しているものとも捉えられます。
主要な古墳を縄文語解釈してみます。いずれも「石清尾山の上の古墳」の地勢を表現していることが分かります。この解釈が妥当であれば、これらの墳墓は南方系先住民のものである可能性が高くなります。まさか、「猫がいたから猫塚」ではないでしょう。
◎縄文語:「峰山」 =「メナ・ヤマ」=「上流の細い枝川の・山」
◎縄文語:「猫塚(古墳)」 =「ノッケ・テュク」=「岬の・小山」
◎縄文語:「姫塚(古墳)」
=「シ・ムィ・テュク」=「真に・頂の・小山」
or「シル・ムィ・テュク」=「山の・頂の・小山」
◎縄文語:「鏡塚(古墳)」 =「カッ・ク・ムィェ・テュク」=「形が・弓の・頂の・小山」
◎縄文語:「石船塚(古墳)」
=いしふねづか =「エサン・ポィナ・テュク」=「岬の・石の・小山」
=いわふねづか =「イワ・ポィナ・テュク」=「祖先を祭る山の・石の・小山」
「石船塚古墳」は積石塚で石棺と石枕が出土していますが、形状は大和の影響が考えられる前方後円墳です。
一般的に「石船塚古墳」の名称は石棺を指したものとされますが、縄文語で「船=ポィナ=石」と解釈できる例は他にもあります。代表的なものでは、群馬県の「荒船山」があります。決して「荒い船の山」の意ではありません。
◎縄文語:「荒船山」 =「アル・ポィナ・ヤマ」=「一方の・石の・山」 →google 画像検索
「アル」は近隣にある同様の地勢との対比表現です。荒船山の対比となるのは、妙義山でしょう。「妙義山」は「ムィ・オ・キム=頂が・たくさんある・山」の意です。→google 画像検索
余談ですが、日本全国の「荒川」は「一方の川」の意で、「本流に対する支流」あるいは「近隣の大きな川」との対比に用いられます。
■高松市周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

石清尾山古墳群の中に「鏡塚古墳」がありますが、この名称に含まれる「鏡」は、日本全国「弓の形の山」の意です。
◎縄文語:「鏡山」 =「カッ・ク・ムィェ・ヤマ」=「形が・弓の・頂の・山」
下に「カガミ」を冠する地名の例をご紹介します。『風土記』に「鏡を落とした/安置した」などという地名由来潭があるものもありますが、いかに『風土記』がウソをついているかが明確に分かります。
■鏡塚古墳(石清尾山古墳群)(香川県高松市/古墳時代前期/積石塚の双方中円墳) ※弓の形の山に築かれた古墳。
■各務(原)(岐阜県)※弓の形の山。
■鏡山(豊前国)(香春岳/福岡県田川郡香春町)※弓の形の山。三ノ岳別名、天香山。
■鏡坂(豊後国)(大分県日田市上野)※弓の形の山。
■鏡渡(鏡山)(肥前国)(佐賀県唐津市鏡山)※弓の形の山。
■加賀美(旧加々美荘/山梨県)※弓の形の山。加賀美地区近隣から南アルプスを望む。
■鏡山(広島県東広島市)※鏡山には大内氏の鏡山城跡があります。
「多肥(田部)」と「太田(大炊田に由来)」も縄文語解釈してみます。これらは考えるまでもありません。ただし、「太田」と「大炊田」の解釈は異なります。本当に「太田」の由来は「大炊田」なのでしょうか。
◎縄文語:「多肥(田部)」 =「タン・ペー」=「こちらの・水辺」
◎縄文語:「太田」 =「オタ」=「砂浜」
◎縄文語:「大炊田」 =「オオ・エテュ」=「大きな・岬」
古代の海岸線は現在より4キロほど内陸のようなので、ちょうど太田地区あたりになります。「太田=砂浜」があったということです。
■太田下町 ※砂浜。このあたりが海岸線だったことを示す。
第四百二十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【香川県】牟礼町牟礼・寒川町~」
△「牟礼町牟礼・寒川町」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【「牟礼」「寒川」とはどちらも朝鮮語に由来する地名で、日本の学者たちによると、牟礼は古代朝鮮語の「山」ということだそうであるが、しかし私にはどうも、これは紀伊牟婁郡の牟婁でもあって、牟婁(ムラ)すなわち「村」ということの原語ではなかったかと思えてならない。
しかしそれはどちらにせよ、古代朝鮮語であることに変わりはないが、寒川町のある大川郡はもと寒川郡だったもので、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、そこには「韓鉄師毗登毛人ら」がいたとある。その寒川のほうは、相模(神奈川県)にも寒川(さむかわ)町があって、そこに相模国一の宮の寒川神社がある。それについては、丹羽基二氏の『地名』にこうある。
寒川。朝鮮語のサガ(わたしの家、社などの意)からくる。朝鮮渡来人の集落があった。寒川はもと寒河で当て字。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
筆者から見ると、「牟礼」「寒川」はいずれも縄文語由来です。朝鮮半島南部は縄文語圏ですから、古代朝鮮語と言えば朝鮮語です。
「牟礼」は、他の地方の「牟礼」の地勢も勘案すると、上記「山」の解釈とは少々ズレます。
◎縄文語:「牟礼」 =「ムィレ」=「入り江であるところ」
の意です。「三方を山に囲まれた入り江のような地勢」を表現しているようです。
wikipediaに「牟礼」を冠する地名が紹介されていますが、いずれも「山に囲まれた地勢」です。 ただし、東京都三鷹市の「牟礼」は後世の開発のため地勢が不分明なので、その他の「牟礼」をご紹介します。
■牟礼町牟礼(高松市) ※三方を山に囲まれた入り江のような地勢。
■牟礼 (長野県上水内郡飯綱町) ※三方を山に囲まれた入り江のような地勢。
■牟礼 (山口県防府市) ※三方を山に囲まれた入り江のような地勢。
香川の「寒川」は「さんがわ」と読みます。神奈川は「さむかわ」です。地勢が異なりますので、解釈も異なります。
まずは、香川県の「寒川(さんがわ)」。
◎縄文語:「寒川」 =「サン・カ・ワ」=「出崎の・ほとりの・岸(or方)」
周辺地名も「山、岬のほとり」で一致しています。 「川」の解釈は、いわゆる水が流れる「川」の意と、いずれか判断に迷うのですが、香川県の場合は「ほとりの岸」としました。新潟県の糸魚川に「糸魚川」という「川」がないのと同じ理由です。
◎縄文語:「糸魚川」 =「エテュ・エ・カ・ワ」=「岬の・頭の・ほとりの・岸(or方)」
親不知子不知のことでしょうか。
また、寒川郡にいたとされる「韓鉄師毗登毛人」も周辺地名からとったものと解釈できます。名前に含まれる「韓」は「カル=曲がっている様」に充てられることが多く、他地域でも頻繁に見られる地名です。多くは「丸山」あるいは「曲がっている川や峰」を指します。香川県寒川町の場合は「曲がっている鴨部川」の意と捉えられます。
◎縄文語:「韓鉄師(毗登毛人)」=「カル・タンチャ・ウシ」 =「曲がっている・こちら岸・のところ」
◎縄文語:「神前」 =「コム・チャ・ケ」=「湾曲した・岸・のところ」
◎縄文語:「鴨部(川)(かべがわ)」 =「コム・ペ」=「湾曲した・水」
■高松市周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

■寒川町周辺地名の縄文語解釈
◎縄文語:「(寒川町)石田」 =「エテュ・タ」=「岬・の方」
◎縄文語:「菅(神社)」 =「シル・カ」=「山の・ほとり」
◎縄文語:「古枝」 =「フル・エテュ」=「丘の・岬」
or「フル・エ・タ」=「丘の・頭・の方」
◎縄文語:「坂子」 =「サン・カ・ウシ」=「出崎・のほとり・のところ」
◎縄文語:「石井」 =「エテュ・エ」=「岬の・頭」
神奈川県の「寒川」の場合は、
◎縄文語:「寒(川)」=「サム」=「隣(の川)」 (相模川に合流する隣の川「目久尻川」)
と解釈しています。こちらも「川=カ・ワ=ほとりの・岸(or方)」の意で、「となりの岸」を表現したのかもしれません。
■寒川神社 ※相模川の隣の目久尻川河畔。
第四百二十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【香川県】讃岐国一宮 田村神社・ちきり神社~」
○「田村神社」について(『わが町の歴史 高松』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【秦氏はまた、讃岐一の宮として有名な田村神社(一宮町)と深い関係をもっていた。秦晴親が大宮司に任じられ、社家(神職)を世襲した田村氏は、秦勝倉下の子孫であるという。
田村神社は社伝によると、七〇九年(和銅二年)に勧請されたとある。祭神は倭迹迹日百襲姫命・彦五十狭芹彦命など五柱であるが、「田村定水大明神」ともよばれ、古代から農耕に必要な定水が得られる出水を神としてあがめたもので、この地域を本拠としていた秦氏一族にとっては重要な神であったと考えられる。】
○「田村神社由緒」について(田村神社公式HP)
【当社の起源は極めて古く社記によれば和銅二年(709)に社殿が創建されたとあり往古より「田村大社」「定水大明神」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く崇敬されてきた。
嘉祥二年(849)従五位下に叙せられ貞観三年(861)官社となり名神大社に列せられ、讃岐國の一宮に定められて後は神階を授けられ建仁元年(1201)正一位の極位に叙せられた。
当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱があれば領主奉行は必ず先ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。
奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことがない。
古来、讃岐は雨が少なく、古代から溜池が作られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀につながったと考えられている。 】
×「田村神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【田村神社の祭神は「田村定水大明神」または「田村大神」にほからならなかったからである。<中略>田村大神は田村氏の祖神、すなわち秦氏のそれでなくてはならぬのである。
「上代の時、神といいしは人也」(新井白石『東雅』)であるから、それは秦氏族の首長のひとりとなっていたものであったにちがいない。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「田村」 =「タン・モ・ラ」=「こちらの・小さな・低地」
◎縄文語:「定水(大明神)」 =「チゥ・スィ」=「水脈の・穴」
いずれも”田村神社の奥殿の床下の深淵”を表現しています。
そして、ここでも秦氏が活躍するのは「水辺」です。
◎縄文語:「秦(氏)」=「ハッタル」=「淵、水が深くよどんだところ」
説明の必要もありません。 繰り返しになりますが、讃岐の「秦」の名は居住地周辺の地名由来と考えられるため、京都の秦氏との関係は不明です。必然的に渡来系か先住民系かも分かりません。
この田村神社はその由緒で「水の神」と言っているので、珍しく正直な神様です。
たとえ新井白石であろうと「上代の時、神といいしは人也」というような説には首肯できません。「祭祀する側に都合の良い神を創作して祭り上げている」というのが神社の実態です。
■讃岐一の宮 田村神社 ※奥殿の床下の深淵がある。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「滕(ちきり)神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【田村神社の近くの丘陵下には石段の急な滕(ちきり)神社というのがあったが、「ちきり」とは機織の緒巻(おまき)のことであるから、この神社もそうした機織りに関係が深かった秦氏族が祭ったものだったはずである。】
×「滕(ちきり)神社」について(滕神社公式HP)
【滕神社の祭神稚日女命は、天照大神の妹で、大神の御衣織女(衣服を織る女)と伝えられている。 この神社は、むかしは今の香川町浅野の唐土に祀られていたが、万寿年間(一〇二四~一〇二七)に今は平池となっているところに松原があり、そこに遷された。久安年間(一一四五~一一五〇)に社殿の周りにため池が築かれたので、大洪水があったときは社殿がたびたび水に浸かることがあった。そこで、今の浅野村字岡の上に遷され、その後、平池の北東である雄山に遷された。それからは、岡の上の社殿のあった地を古宮さんとよんでいる。<後略>】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
神社が語る由緒は、基本的に縄文語地名の仮借の漢字表記にこじつけた創作物語です。したがって「ちきり=機織の緒巻(おまき)」の公式も疑わざるを得ません。
◎縄文語:「滕(神社)」 =「チゥ・キリ」=「水流、水脈の・山」
「滕神社」の創祀の場所は浅野の唐土です。現在の「伽羅土」でしょうか。
◎縄文語:「唐土(伽羅土)」 =「カル・テューテュク」=「曲がっている・出崎」
「伽羅土」の南に接して「唐渡」という地名もあります。
◎縄文語:「唐渡」 =「カル・ワッタル」=「曲がっている(出崎の)・淵、水が深くよどんだところ」
「水辺の峰が曲がっている様」を表現したものと思われます。
「韓=カル=曲がっている様」の解釈はこれまで何度も登場しています。「曲がっている川」「曲がっている峰」「曲がっている山(丸山)」のいずれかです。いずれにしても朝鮮半島と地名は無関係です。
■滕神社創祀周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

第四百二十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【香川県】鷲峰寺(鷲ノ山)・新羅神社~」
×「鷲峰寺(鷲ノ山)・新羅神社」について(『讃岐の古代文化』上田正昭 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【綾川が屈曲している地点に白鷺赤牛が洪水を救った伝説のある白髪淵があるのですが、おそらく〈白髪は〉白鬚〈新羅〉であると思います。そこにはやはり、新羅神社が一ヵ所みつかっております。これは鷲峰寺というお寺の境内に、金倉寺と同じような形で新羅神社があるようで、四国新聞社の今岡重夫さんが見つけて知らせてくれました。 】
×「白髪淵・新羅神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【近くには白髪=新羅であった白髪淵などというところがあることからもわかるように、この小祠の新羅神社(鷲峰寺境内社)ももとはそれ相応に大きなものであったにちがいない。それが神仏習合のためか、そこに鷲峰寺ができたことによって退転し、今日のような小祠となってしまったのではないかと思われた。
が、それはどちらにせよ、これで讃岐には、私の知る限りでも新羅神社が計四社ということになった。それがどれも、白木・白城などとなったものではなく、はっきりと古代朝鮮の「新羅」という国名を負ったままとなっているのがおもしろい。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
鷲峰寺に「新羅神社」があるのは、単に「山裾」の地勢だからです。縄文語の仮借の漢字表記に「新羅」を充てたことでこじつけ物語が生まれています。天日槍が祀られていないだけマシというというところでしょうか。
◎縄文語:「白髪(淵)」 =「シル・オ・ケ」=「山・裾の・のところ」
◎縄文語:「新羅(神社)」 =「シル・オ・ケ」=「山・裾の・のところ」
「新羅」であろうと、「白髪」「白木」「白城」であろうと、地名由来に古代朝鮮の新羅国はまったく関係ありません。完全なるこじつけ説、牽強付会です。
■鷲峰寺(境内に新羅神社)※山裾の寺。
「白髪淵」で「白鷺赤牛」が活躍するという物語もあるようですが、これも縄文語地名由来の名称です。
◎縄文語:「白鷺/赤牛」 =「シル・オ・サン・ケ/アルケ・ウシ」=「山・裾の・出崎・のところ/片割れの・ところ」
「白鷺赤牛」は「白鷺」と「赤牛」が同義で、言い換え表現になっています。「鷲ノ山」の 峰の端の出崎を表現したものと捉えられます。「鷲ノ山」の峰から谷を挟んで分岐した山です。
■「鷲ノ山」の峰から谷を挟んで分岐した山。左の尾根が「鷲ノ山」から続く峰。
ちなみに鷲峰寺後背の山は「鷲ノ山」ですが、これも地勢と完全に一致する縄文語解釈が可能です。
◎縄文語:「鷲(ノ山)」 =「ウェィシル」=「水際の断崖絶壁」
■鷲ノ山 ※水際の断崖絶壁。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「金倉寺/新羅神社」について(『讃岐のなかの渡来文化』千葉嘉徳 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【〈土讃本線〉金蔵寺駅を降りて東へ約五百メートル行くと、天台宗鶏足山金倉寺がある。創建は智証大師(円珍)で、父和気宅成の館跡につくられた。智証大師の母は、佐伯氏で弘法大師の姪。坂出市の郷土史家三木豊樹氏が指摘するように、「和気氏は景行天皇の裔ではなく、讃岐国忌寸首(因支首)等を始祖とする一族で、貞観八年に和気を賜った」(『姓氏家系大辞典』)のであり、やはり秦氏の流れをくむ一族であったのだろう。忌寸や首、村主は渡来人に多く、また金蔵寺の山号、鶏足山は新羅の慶州ゆかりのものだ。さらに境内には、神明づくりの新羅神社が鎮座している。・・・・・・とすれば、金倉寺は秦氏一族の建立した寺院なのであろう。 】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
まず、金倉寺は「谷、窪地のほとり、岸」の意です。
◎縄文語:「金倉(寺)」 =「コッ・チャ」=「窪地・のほとり、岸」
金倉寺は”微高地”にあり、周囲が窪地になっています。そこに境内社である新羅神社があります。
新羅神社はもともと現在地の南西約200メートル強の場所、”微高地のふもと”に「山王社」とともに「新羅社」としてあったようです。一見、平地に見えますが、ハザードマップや標高地形図を見ると、はっきりと高低差があることが分かります。この「山王社」と「新羅社」は縄文語では同義で、言い換え表現になっています。
◎縄文語:「山王(社)」 =「サン・オ」=「平山、出崎の・裾」
◎縄文語:「新羅(社)」 =「シル・オ・ケ」=「山・裾の・のところ」
■金倉寺境内社、新羅神社周辺の地形図(※国土地理院の電子地形図を加工して作成。青色は善通寺市のハザードマップを参考に低地に着色。)

すでに述べたように、讃岐の秦氏と京都の秦氏が一族かどうかはまったくの不明です。なぜなら、「秦氏」は日本全国の「ハッタル=淵、水が深くよどんだところ」の地勢に充てられた漢字だからです。
そして、その讃岐秦氏の一派が「和気氏」であり、その始祖の可能性のある「忌寸首」だというのですが、筆者には少々ひっかかることがあります。これらの「和気」「忌寸」「首」、さらに渡来人の姓として挙げられている「村主」は、縄文語で簡単に解釈が可能です。
◎縄文語:「和気」 =「ワ・ケ」=「岸・のところ」
◎縄文語:「忌寸」 =「エムコ」=「水源」
◎縄文語:「首」 =「オプッ」=「川口」
◎縄文語:「村主」 =「シルクル」=「山」
新羅の言語は子音で終わるとされています。これは縄文語(アイヌ語)の特徴と一致しています。一方、高句麗、百済王族、上代日本語は、北方系言語で開音節で終わる特徴を有しています。
筆者が進めた中国漢代の県名の縄文語解釈では、東夷南蛮の言語が縄文語であったことを示しているので、自然に考えれば、東夷南蛮、朝鮮半島南部、そして日本全域は南方系先住民の居住地ということになります。
もし、上記の渡来人に与えられた姓が新羅系のものであれば、縄文語で解釈できるのも無理ありません。倭人と同系同族なのですから。
一般的に、弥生人は渡来人だとされていますが、筆者の感覚では、もともと言語を共有する同系の人々が移住したというだけで、まったくの異民族が押し寄せてきたということにはなりません。むしろ、古墳時代以降、勢力を増した北方系言語を操る人々の方がよほど「渡来人」然とした存在です。使用言語が異なるのですから。
新羅由来の人々は、日本に移住し、同じ地名を聞いて喜んで漢字を充てたのでしょうか。それにしては、古文献や神社仏閣の由緒等で縄文語の意味が一切後世に伝えられていないのはあまりにも不自然です。それほど北方系と南方系の上下関係、主従関係がはっきりしていたのかもしれません。
話を戻します。『日本の中の朝鮮文化』では木徳町の新羅神社も取り上げられていたので、ついでに調べてみました。こちらも"高台の裾"の立地になります。
下の善通寺市のため池ハザードマップをご覧下さい。地図左側の宮池の北西に新羅神社があります。近隣でもっとも低い土地(青色)で、浸水5.0m以上の地域の際です。東側には高台(白い地域)が広がっています。
■地図左側、宮池の北西の最も低い場所に新羅神社。東側に高台。(※善通寺市ため池ハザードマップのキャプチャ)

この木徳町の新羅神社では、ご丁寧に”スサノオの朝鮮渡りの船神楽”という祭礼があるらしいのですが、こういったお祭りにも何の根拠もありません。「新羅=山裾」なのですから。新羅国と結びつけるのも、スサノオの故地を日本書紀に従って新羅国とするのもまったくの間違いです。
祭りの起源を想定すれば、古代人が本当の意味も分からずに日本書紀のスサノオの記述に従って新羅国と結びつけてお祭りを始めたというところでしょうか。日本書紀の内容を知っているということは、必然的に渡来系の人々ということになります。当然ながら、そこに南方系先住民の「新羅=山裾」の解釈など微塵もありません。これは記紀風土記とまったく同じ態度です。
記紀風土記や神社は、このように渡来人に都合の良い解釈を敷衍し、先住民文化を上書きするために設けられたものです。決して真実を語ることはありません。
第四百三十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【香川県】波打八幡宮、船越八幡宮・新羅神社~」
×「波打八幡宮、船越八幡宮・新羅神社」について(『讃岐のなかの渡来文化』千葉嘉徳 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【意外に渡来人の足跡は広く県下各地にみられ、とくに西讃の大麻山周辺に色濃く残っているのは一つの大きな驚きだった。
そこでまず、この大麻山を基点に西讃の渡来文化をたずねてみよう。三豊郡詫間町の荘内半島は、讃岐に弥生文化をもたらした上陸地点である。県内には八幡宮が多いが、紫雲出山(しうでやま/しうんでやま )に行く途中に波打八幡宮、船越八幡宮と海にかかわる神社があり、瀬戸内海を一望できる山頂には浦島伝説の主、太郎をまつる竜王社がある。・・・・・・
<中略>朝鮮からの渡来人が北九州を経て、この地方に米づくりの技術をもちこんだのであろう。そして、高瀬川、財田川をさかのぼり、鬼ヶ臼山から大麻山周辺にかけて弥生文化圏がつくられた。高瀬町が文献に顔をのぞかせるのは和銅年間(七〇八~七一五)で、下高瀬には須佐之男命をまつる新羅神社もある。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
日本全国、八幡神社は川端にあります。なぜなら、「八幡」は縄文語の
◎縄文語:「八幡」
=「ペッチャム」=「川端」
に建てられた神社だからです。
「波打八幡宮」と「船越八幡宮」が”海にかかわる神社”だとするのは、記紀風土記の漢字表記こじつけ説と同様、何の根拠もありません。根拠を無理矢理求めるとすれば、これも記紀風土記の神話のような荒唐無稽な物語になってしまいます。そもそもこれらの神話は、北方系渡来人の都合に合わせて創作されたものです。
日本神話は漢字表記にこじつけて創作された内容が上代日本語で書かれています。上代日本語は、百済王族、高句麗の言語と同じ開音節で終わる特徴を共有しています。百済庶民の言語、新羅語、縄文語(アイヌ語)は閉音節で終わります。
つまり、倭人と朝鮮半島南部、ついでに言えば、中国の東夷南蛮も含めて、同系の南方系民族だったということです。
「波打八幡宮」と「船越八幡宮」は縄文語由来です。周辺地名もことごとく地勢と一致する縄文語解釈が可能です。
まずは「波打八幡宮」から。
◎縄文語:「波打(八幡宮)」
=「ナンペ・ウテュル」=「泉の・間」
「波打八幡宮」は高瀬川河口左岸の岬の上に建つ神社です。標高図を見ると、神社の際まで河口が大きく広がっていたことが推測できます。
東には「蟻ノ首」、北西には「神田」、南には「中郷」という地名があります。
◎縄文語:「蟻ノ首」
=「アル・ノッ・ケピ」=「一方の・岬の・ふち」
◎縄文語:「神田」
=「カン・チャ」=「上にある・岸」
◎縄文語:「中郷」
=「ナィ・カ・コッ」=「川・岸の・窪地、谷」
つまり、「波打八幡宮」は”川岸の窪地の岬”に建つ神社だということが言えます。
■波打八幡宮 ※高瀬川河口左岸の窪地の岬に建つ神社。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

次に
「船越八幡宮」。
こちらは典型的なアイヌ語の対比表現が見られます。
◎縄文語:「船越(八幡宮)」
=「ペナ・コッ・チャ」=「川上の・窪地の・岸」
「船越八幡宮」は荘内半島の「紫雲出山」東南麓にある神社です。これと何が対比関係にあるのかと言えば、「紫雲出山」西北の「(詫間町)箱」の地名です。
◎縄文語:「箱」
=「パン・コッ」=「川下の・窪地」
荘内半島の先端を「下」、付け根を「上」と表現しています。
ちなみに「紫雲出山」は荘内半島の地勢を表現しています。
◎縄文語:「紫雲出山」
=「シアン・テク・ヤマ」=「大きな・腕(浦の手)の・山」
ついでに「荘内半島」は
◎縄文語:「荘内(半島)」
=「シル・オ・ナィ」=「山・裾の・川」
と解釈できますが、 上記の内容とはあまり関連がありません。
■船越八幡宮、紫雲出山周辺の縄文語解釈(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

■船越八幡宮 ※川端に建つ神社。日本全国、八幡宮は「ペッチャム=川端」にある。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)
金刀比羅宮のある大麻山は通称象頭山と呼ばれています。「象の頭」に似ているからという馬鹿げた由来が通説となっていますが、日本人が象という動物を認識したのはいつのことでしょうか。
◎縄文語:「象頭山」
=「チゥ・チャ・サン」=「水流、水脈の・岸の・出崎」
◎縄文語:「大麻山」
=「オオ・アサム・ヤマ」=「大きな・入り江の奥の・山」
◎縄文語:「金刀比羅(宮)」
=「コッチャル(orコッチャ)・ピラ」=「谷の入口(or窪地の岸)の・崖」
「大麻山」は、忌部氏発祥の地とされる阿波の「大麻山」と同義です。阿波の方は吉野川北岸の内陸ですが、アイヌ語では内陸の同様の地形でも「入り江」という表現を用います。”忌部氏が麻を植える”理由は単なる縄文語地名の漢字表記のこじつけです。余談ですが、「忌部氏」の名も「阿波大麻山」の”尖り山”の地勢を表現した縄文語由来です。
◎縄文語:「忌部」=「エ・エン・ぺ」=「頭が・尖っている・もの」=尖り山
■忌部氏の祖を祀る大麻比古神社(奥宮)が頂にある大麻山(中央) ※尖り山。
■大麻比古神社周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

下高瀬に須佐之男命をまつる新羅神社があるということですが、スサノオと新羅国は、私見ではまったく関係ありません。
◎縄文語:「新羅」=「シル・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
の縄文語に「新羅」という漢字が充てられて渡来物語が創作されただけです。
下高瀬の「新羅神社」は一見すると、平地に見えますが、ハザードマップで確認すると、確かに下高瀬諸学校の丘陵の南裾であることが分かります。前項で挙げた善通寺市の二つの新羅神社とまったく同じ地勢です。
縄文語の地名がいかに正確かが分かります。ということは「新羅=朝鮮半島の新羅国」の公式がまったくのデタラメだということです。
■下高瀬のハザードマップ ※新羅神社は下高瀬諸学校(黄色)の南西に接している(オレンジ色の部分との境界)。丘陵裾。 (※三豊市ハザードマップキャプチャ)

■下高瀬新羅神社
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