
【 第四百三十一回~第四百四十回 】
第四百三十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【福岡県・朝鮮半島】高祖山(臥牛山)・くしふる山・金海亀旨峰~」
×「クシフル・ソホリ」について(『日本のあけぼの日本民族の形成』三笠宮崇仁編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【天孫ニニギノミコトが、イツトモノオを従え、三種の神器をたずさえて、高千穂のクシフルの峰、またはソホリの峰に降下したという日本の開国神話は、天神がその子に、三種の神器をもち、三神を伴って、山上の檀(まゆみ)という木のかたわらに降下させ、朝鮮の国を拓いたという檀君神話や、六加耶の祖がキシ〈亀旨〉という峰に天降ったという古代朝鮮の建国神話とまったく同系のもので、クシフルのクシはキシと、ソホリは朝鮮語の都を意味するソフまたはソフリと同一の語である。】
×「臥牛山(高祖山)・くしふる山」について(wikipedia)
【また、その山容が、牛が長々と寝そべっている姿のように見える(特に志登神社から見るその山容は牛が寝そべっている姿に見える事)から臥牛山と地元では言われ、糸島市内のかなりの地域からその山容を望むことができる。 高祖山には南にもう一つの峰があり、これを「くしふる山」と呼んでいた、と推定される(文献には、「椚(クヌギ)~、民家の後ろにあるをクシフル山と云ひしを誤りて椚と云ふに至れり」とある)。】
×「クシフル・ソホリ」について(『日本語の歴史/民族のことばの誕生』亀井孝・大藤時彦・山田俊雄編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【彼(東洋史学者の三品彰英)は『駕洛国記』が伝える六加耶国の建国神話と記紀による日本の建国神話とをくらべ、その内容の重要な点では、二つの建国神話がまったく一致していることを指摘した。・・・・・・
これは南朝鮮、ことに任那方面から北九州に渡来した外来民族=天つ神が、新支配の高い連山(高千穂の峰)に自分達の建国神話をむすびつけ、記紀の天孫降臨建国説話をうみだした、と考える以外に理解の方法がないほどの一致である。事実、槵触、久士布留のフルは韓語で村を意味するが、そう考えれば、槵触、久士布留は「亀旨の村」ということになるし、また書紀の一書で槵触(穂日)のところに添(そほり)をあてている意味も理解できる。そのソホリは、百済の所夫里(ソフリ)、新羅の都を蘇伐(ソブル)、いまも京城をソウルというように、王城を意味する韓語であった。したがって、日本語で解釈しにくいことばも、韓語では容易に、また合理的に意味が通じるわけである。 】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「高祖山」 =「タン・カシ・ヤマ」=「こちらの・上の・山」
◎縄文語:「臥牛(山)」 =「カン・キル」=「上の・山」
「高祖山」の別名の「臥牛山」は「高祖山」の言い換え表現になっていることが分かります。
「牛が寝そべっている姿に見えるので”臥牛山”と呼ぶ」という由来は、通説にお決まりの漢字表記こじつけ説なので、信憑性のかけらもありません。
そして、なぜ「高祖山」の縄文語解釈に「タン=こちらの」がつくかと言えば、それは北方の「鐘撞山(かねつきやま)」、東方の「叶岳」と対比表現になっているからです。
◎縄文語:「鐘撞山」 =「カンナ・テュ・ケ・ヤマ」=「上にある・峰の・ところの・山」
◎縄文語:「叶岳」 =「カンナ・テュ・ケ」=「上にある・峰の・ところ」
また「高祖山(臥牛山)」の南方には「くしふる山」と呼ばれる峰があったということですが、「くし」は宮崎にも朝鮮半島にもあります。これは、朝鮮半島南部も日本も縄文語(アイヌ語)圏で、単に同一地勢があったというだけなので、それらを結びつける必要性はどこにもありません。
◎縄文語:「くしふる山」 =「クシ・フル」=「対岸or山向こうの・丘」
高祖山の南の峰は、もちろん「山向こう」、宮崎の「櫛触」と金海市の「亀旨(クジ)峰」は「川の対岸」の意です。
■高祖山周辺の縄文語解釈 ※上にある山で一致。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

■亀旨峰(金海市)※川の対岸の峰。
百済の「所夫里(ソフリ)」、新羅の「蘇伐(ソブル)」、そして福岡の「脊振山」は
◎縄文語:「所夫里/蘇伐/脊振」 =「シアン・フル」=「本当の、大きな・丘」
と解釈が可能です。
アイヌ語では有声音と無声音の区別がありません。また、「フル=ウル=丘」で、同じ単語の発音違いですから、「ソブル」「ソウル」の二つの言葉が存在することも簡単に説明がつきます。『日本の中の朝鮮文化』には「王城を意味する韓語」とありますが、正確な表現ではありません。「丘」や「山」が「王城」の地勢を表したか、あるいは比喩として使われたというのなら理解できます。
「新羅」の国名とその都「蘇伐」「金城」(現慶州市)の縄文語解釈も地勢と完全一致します。「新羅」は初め「斯蘆(シロ)」と呼ばれていましたが、それでも「シラギ」と同義です。
・「新羅」=「シル・オ・ケ(orシロケシ)」=「山・裾・のところ(or山裾)」
・「斯蘆」=「シル・オ」=「山・裾」
・新羅の都「蘇伐」=「シアン・フル」=「大きな・丘」
・「蘇伐」の別称「金城」=「キム(・城)」=「山(の・城)」
その他、南に連なる「蔚山」「梁山」「金海」「釜山」も”山”や”丘”に関する解釈が可能です。
◎縄文語:「蔚山」 =「ウル・サン」=「丘の・出崎」
◎縄文語:「梁山(良州)」 =「ヤン・サン」=「内陸の・出崎」
◎縄文語:「金海(金官加耶)」 =「キム・カ」=「山・のほとり」
or「キム・ヘ」=「キム・エ」=「山の・頭」
◎縄文語:「釜山」 =「プッ・サン」=「川口の・出崎」
これらの地名を発音が似ているという理由で結びつけると壮大なファンタジーが生まれます。それが、日本黎明期の歴史です。
■新羅の都、金城(現慶州市)周辺の縄文語解釈
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)
日本と朝鮮南部の六加耶国の建国神話の重要な点に共通性があるということなので、何らかの関係があったとしても不思議はありません。記紀風土記は八世紀初頭、六加耶の神話が記されている『三国史記』は十二世紀中葉、『三国遺事』は十三世紀末の編纂です。
記紀風土記は百済王族、高句麗と同じ開音節で終わる特徴を持つ上代日本語で書かれていて、南方系倭人の言語である縄文語解釈の内容はほぼ皆無ですから、必然的に北方系渡来人を中心とする編纂体制であったものと推察できます。
そして、六加耶の神話がなぜ、日本神話と共通点があるのか。可能性として考えられるのは次の二つ。私見では後者(2)ではないかと疑っています。
(1)日本、加羅諸国の建国当時のそれぞれの伝承が、各古文献(記紀、風土記、三国史記、三国遺事)編纂時まで残っていた。私見では「スサノオ=帥升」なので、日本神話は帥升が後漢に朝貢した一〇七年前後の時代。
(2)六~七世紀にヤマト王権を簒奪し、記紀風土記編纂時にその中枢にあった北方系渡来人と同系の人々が加羅諸国周辺にもいた。任那が滅ぶのは五六二年、白村江の戦いが六六三年。必然的に、任那も北方系民族の支配する地域だった可能性が高いということになる。
加羅諸国周辺ではヤマトと同系の北方系民族が記紀風土記同様に(連動して?)建国神話を創作していた。それが南方系の新羅に滅ぼされることになる。
日本の大規模古墳名が古墳時代を通して縄文語解釈可能であることは、当時日本各地で実権を握っていたのが南方系民族だったことを示している。また、朝鮮半島南部の倭系古墳は、倭人と同系同族の南方系民族が盤踞していたことを示している。新羅も縄文語を共有している。その中で任那が北方系であるとすれば、朝鮮半島南部では少数派ではなかったか。支配地域も限定的ということになる。
任那はヤマトを簒奪した北方系渡来人の故地だった可能性がある。上代日本語の特徴から察するに、彼らは百済王族、高句麗と出自を同じくする北方扶余系民族。日本に渡るためには、縄文語を共有する南方系民族(百済庶民、新羅、加羅諸国)の間をくぐり抜けなければならない。その拠点が朝鮮半島南部に必要だった。
任那という拠点ができた時期は、古墳から出土する馬具などの北方系の副葬品や群集墳が示している。神武東征神話は北方系渡来人の朝鮮半島南部からの移動が象徴的に描かれている可能性がある。それはスサノオの時代ではなく、あくまで古墳時代のことである。初期天皇家に紐付けされている渡来人の系譜も同様に後世の創作と考えることができる。
天孫降臨の「クシフルダケ」も
◎縄文語:「クシフルダケ」 =「クシ・フル・タク・ケ」=「対岸の・丘の・石・のところ」
と解釈すれば、朝鮮半島南部から見た玄界灘沿岸の地勢ともとれます。
◎縄文語:「九州」 =「クシ・オル」=「対岸の・のところ」
◎縄文語:「日本」 =「チュプ・パ」=「太陽の・上手」=東の国
これらの解釈とも辻褄が合います。
第四百四十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【福岡県】糸島・唐泊・鶏永郷・芥屋・可也山・立石山・加布里・加布羅・カラ・カヤ~」
×「唐泊・鶏永郷・芥屋・可也山・カラ・カヤ」について(『韓良考』笠政雄(郷土史家) ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【『南斉書』には加羅国、『北史』に迦羅国、『三国史記』に駕洛・伽落・伽耶・加耶などとあるのは、いずれもカラ及びその転訛音のカヤの音訳である。・・・・・・
さて、我が郷土の糸島の地に思いをめぐらせば、いまの北崎の地(唐泊のあたり)を古く韓良郷と呼んでいた外に、同じ『和名抄』に出ている鶏永郷があり、それよりも古い奈良の時代に、『万葉集』に出た可也山(かやさん)がある。
鶏永については異説があるが、志摩郷の推定から、いまの芥屋(けや)であることは疑いを入れまい。<中略>
いま韓良・鶏永・可也の古地方名が、カラ系統の地名であることは誰しも思い到るであろう。カヤとカラとの混同転訛は、前述朝鮮の古国名にすでにこれを見るし、カヤがケエまたケヤに転ずることは説明を要しない。<中略>
もしこの大陸に向かって出張った我が志摩半島が、カラとかカヤとかと呼ばれていたとしたら、この地は古朝鮮民族の占拠地か殖民地でなかったろうか。】
×「唐泊・鶏永郷・芥屋・可也山・カラ・カヤ」について(『日本の中の朝鮮文化』)
【「あれをごらんなさい」と原田(大六)さんは言って、私はそのときはじめて知ったが、西のほうは志摩町となっているそこに立ちそびえている可也山を指さした。「あれは糸島富士、筑紫小富士ともいわれている可也山、すなわち古代朝鮮にあった加耶国の加耶山です」<中略>
「あのあたり一帯は加夜郷だったところで、向こうの西はずれはこれまた鶏永郷の芥屋です。そしてこちらは韓舟に加布里、加布羅で、どれもみな加耶・加羅です。<後略>」】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
まずは「カラ」について。解釈の候補がいくつかあります。
◎縄文語:「カラ」
=「カル」=「まわる」※川、山が曲がっている様。山の場合、多くは「丸山」の地勢。
or「カ・ラ」=「ほとりの・低地」※岸辺の低地
or「カン・ラ」=「上の・低地」※高いところにある低地。群馬県の甘楽郡など。
地名では「カル=まわる」と解釈できるものが多く、「韓」「唐」「辛」「軽」などの文字が宛てられています。神社名に見られる「韓国=カル・コッネ・イ=曲がった・窪んだ・ところ(曲がった谷、川)」などが典型例です。奈良の「軽」も高取川の曲がった地点です。(孝元天皇「軽境原宮」趾→)
糸島の唐泊(韓良郷)は「丸山」の意です。「トマリ=碇泊港」が縄文語(アイヌ語)なので、「カラ」も縄文語解釈するのが妥当です。
◎縄文語:「唐泊」=「カル・トマリ」=「まわる・碇泊港」※丸山の港
これは「丸山の港」の意で、「唐泊」の地勢を指しています。
西方の「唐津」は
◎縄文語:「唐津」=「カル・チャ」=「まわる・岸」※湾曲した岸
の意で、これも地勢そのままを表現しています。朝鮮半島はまったく関係ありません。
以下、ストリートビュー、googlemapをご覧下さい。一目瞭然です。「カル=丸山」の他の例もいくつかご紹介します。
■「唐泊」遠景 ※丸山の港。
■唐津 ※湾曲した岸。
■韓島(島根県大田市仁摩町) ※曲がった島、曲がった岩。
■嘉羅久利神社(島根県安来市広瀬町広瀬)※「カル・キリ=曲がった・山」。丸山。
■韓郷山(島根県大田市) ※丸山の出崎。
「カヤ」については「岸辺」の地勢につけられた地名だと考えています。糸魚川の「カワ」と同義です。
◎縄文語:「カヤ」 =「カ・ヤ」=「ほとりの・陸岸」※岸辺
◎縄文語:「(糸魚)ガワ」 =「(エテュ・エ・)カ・ワ」=「(岬の・頭の・)ほとりの・岸(or方)」※親不知のほとりの岸
「糸魚川」という「川」が存在しない理由もここにあると考えます。
「可也山」も「カヤ・サン=岸辺の・出崎」の意です。
「鶏永郷」は糸島半島の西部、「志摩」地方。「芥屋」は岬の突端です。
◎縄文語:「鶏永」 =「ケィ」=「頭」※頭=岬
◎縄文語:「芥屋」 =「ケィ・ヤ」=「頭の・岸」※岬の・岸
■糸島志摩地方の縄文語解釈
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)
芥屋の岬には「立石山」が聳えます。「志摩」は「伊勢志摩」、「立石山」は敦賀の「立石岬」と同義です。
◎縄文語:「志摩」=「スマ」=「石、岩」※伊勢志摩と同義
◎縄文語:「立石(山)」※敦賀立石岬の同義
=「タクタク・エテュ」=「石がごろごろした・岬」
or「タクタク・ウシ」=「石がごろごろした・ところ」
「糸島」も類似語源の可能性があります。
◎縄文語:「糸島」=「エテュ・スマ」=「岬の・石、岩」
■立石山
「韓舟」は比定地を特定できなかったので省略します。
「加布里」「加布羅」について。
糸島半島の付け根は、かつては東西から入り江が入りこんでいて、浅瀬を作っていました。
◎縄文語:「加布里/加布羅」=「カプ・ラ」=「薄っぺらな・低地」※浅い低地
いずれにしてもこれらの地名由来を朝鮮半島に結びつけて語る必要は一切ありません。
第四百三十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【香川県】金刀比羅宮・象頭山・大麻山~」
×「金刀比羅宮・象頭山」について(『香川県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【本殿は象頭山の中腹、海抜二五一メートルのところにあり、麓から御本社までは石段を一歩一歩ふみしめての登拝である。社伝によると、印度の王舎城の守護神である金毘羅神が当地に垂迹し、金毘羅大権現と称したこと、また早くから大物主神をまつり、平安のむかしから信仰をあつめていたともいう。・・・・・・<後略>】
×「旗宮・秦神社・金毘羅大権現」について(『讃岐のなかの渡来文化』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【古書には創祀の「ころ、人々は旗宮(はたのみや)としてまつったとしているようで、この秦神社にその後金毘羅大権現や大物主神などをまつり、平安のむかしから広く信仰をあつめていたといわれる。】
×「金刀比羅宮」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【つまり、金刀比羅宮のはじめは新羅・加耶系渡来人である秦氏族の神社だったというのである。これがそのこととどうかかわるのか、『備後叢書】「深津郡」にこういうくだりがある。「宿というアサがあり、昔牛馬市立たる所なり。胡の社ありて神体は「加羅にて刻たる一尺余の像なりしが、讃岐へ盗れ、其跡に地蔵を建置けり。件の胡、金毘羅の市中に勧請す。是より金毘羅、弥増に繁昌すといえり。胡をんすうまれたる元禄の頃の事也」
金刀比羅宮の成立ちからみて、「元禄の頃の事也」とはあまりにも新しいが、しかし「加羅にて刻たる一尺余の像」の神体は、ずっと古くからのものであったにちがいない。いずれにせよ、新羅・加耶から渡来した秦氏族の神社の神体が加耶でつくられた神像とは、後になってからでもそのようにしそうなことなので、いろいろな意味でたいへんおもしろい。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
上でいろいろと創作物語が語られていますが、残念ながら真実はほとんどありません。日本の地名に朝鮮半島由来のものは基本的にありません。
「秦氏」は
◎縄文語:「秦氏/機織り/服部」=「ハッタル」=「淵、水が深くよどんでいるところ」
です。
日本全国の「ハタ」を冠する地名、つまり「水辺」で活躍します。秦氏の活躍の多くは縄文語地名にこじつけたでまかせです。これらの土地を結んで秦氏を大氏族とするのもまったくの間違いです。各地の秦氏が血縁であるかどうか、渡来人であるかどうかさえも不明です。ほぼすべて漢字表記で結ばれた単なる創作物語です。
秦氏によくある「機織り」が得意というのも縄文語の「ハッタル」に結びつけられているだけなので当然ウソです。京都の「大酒神社」や「松尾大社」で語られる由緒をもとに「酒づくり」に深く関わっているとされるのもウソです。いずれも周辺の縄文語地名が出所です。
◎縄文語:「太秦」 =「ウテュル・マサル」=「間の・水辺の草原」
◎縄文語:「大酒(神社)」 =「オオ・サ・ケ 」=「大きな・浜・のところ」
◎縄文語:「松尾(大社)」 =「マーテュ・オ 」=「波打ち際の・はずれ」
◎縄文語:「広隆(寺)」 =「コッ・ラー 」=「窪地の・低いところ」
◎縄文語:「酒造(神)」 =「サンケ・チケレ・イ」=「出崎が・崩れている・ところ」 ※松尾大社に祀られる神。背後の断層の崖の表現。
■松尾大社背後の断層崖 ※酒造神の正体「出崎が崩れているところ」。
香川県の金刀比羅宮に戻ります。
象頭山は、
◎縄文語:「象頭山」=「チゥ・チャ・サン」=「水流、水脈の・ほとりの・平山or出崎」
です。
金刀比羅宮は、
◎縄文語:「金刀比羅宮」
=「コッチャル・ピラ」=「谷の入口の・崖」
or「コッ・チャ・ピラ」=「窪地の・ほとりの・崖」
で、これも象頭山の地勢を指しています。インドの神様がはるばる来て大権現として現れたなどということはありません。金刀比羅宮も他の神社同様、漢字表記にこじつけたデタラメ神様で、大ウソつきです。すべては先住民文化の上書き、自らの出自の正当化、装飾を目的として北方系渡来人勢力が六~七世紀以降に設けたものです。
金刀比羅宮が「旗宮(はたのみや)」として祀られたのは、単に「ハッタル」のほとり(水辺)だったからです。それを何の疑念も抱かずに「秦神社=秦氏の活躍」としてはいけません。
象頭山の北側は「大麻山」です。忌部氏発祥の地である阿波の「大麻山」と結びつけられて忌部氏の活躍デマが語られています。
◎縄文語:「大麻山」=「オオ・アサム・ヤマ」=「深い・(入り江、谷の)奥の・山」
縄文語では内陸の同様の地形でも「入り江」という表現が使われますので、阿波の「大麻山」も讃岐の「大麻山」も「深い入り江の奥の山」ということになります。
■大麻山 ※入り江の奥の山。
■阿波の大麻山(大麻比古神社)周辺の縄文語解釈 ※深い(入り江、谷の)奥の山。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

既出ですが、忌部氏が「麻を植える」理由は、この縄文語の「アサム」に「麻」という漢字を充てたからです。そして、讃岐で忌部氏が活躍するのは、
◎縄文語:「忌部」=「エ・エン・ぺ」=「頭が・尖っている・もの」=尖り山
がたくさんあるからです。
「安房」に忌部氏が登場するのも、「アゥ・ワ=隣の、枝分れた・岸(海を隔てた岸)」の地勢が「阿波」と一致するからです。また、「総=麻」ではありません。「総=プッ・サ=川口の・浜」の意です。
忌部氏が麻を植えるのは『古語拾遺』ですが、記紀風土記も言うまでもなく同類で、この類いの物語はこうして創作されています。これらを基にまともな研究などできるはずもありません。
■忌部氏の祖を祀る阿波の大麻比古神社(奥宮)が頂にある大麻山(中央) ※尖り山。
■忌部神社(三豊市)周辺から北方を望む ※讃岐にはいたるところに尖り山が存在。
【 第四百三十一回/ 第四百三十二回/ 第四百三十三回/ 第四百三十四回/ 第四百三十五回/ 第四百三十六回/ 第四百三十七回/ 第四百三十八回/ 第四百三十九回/ 第四百四十回/ ※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。 】
第四百三十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【福岡県】白木原・白木神社・前原・春日原・仲原・唐原・触~」
×「白木」について(『北九州の古代を探る』竹中岩夫 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【新羅人の居留地であったところを、白木と称しているところは多い。これは新羅来の転で、すなわち『新羅から来た人々の居所』と考えられている】
×「白木原・白木神社」について(『御笠川流域の朝鮮文化遺跡について』奥野正男 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【この考えでいくと、白木原は新羅人の村ということになるが、参考までにあげると、唐津から鹿家にはいるところに白木という大字があり、八女郡には白木村が戦後の合併まであった。いずれも古代朝鮮とかかわりの深い地である。白木神社は、糸島郡に四社、朝倉郡秋月町、嘉穂郡大隈町に一社ずつある。みな渡来人にゆかりの地である】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「白木/新羅」=「シル・オ・ケ(orシロケシ)」=「山・尻、裾・のところ(or山裾)」
全国の白木神社、新羅神社は「山裾」にあります。「新羅=新羅来=白木」といったような漢字表記を結びつけた説は、すべてデタラメです。朝鮮半島南部も日本同様縄文語(アイヌ語)圏なので、同一地勢に同一地名があるのは当然です。地名由来に新羅系渡来人は関係ありません。
白木神社にスサノオの子の五十猛などを祀って、いかにもスサノオ親子が新羅出身のような扱いをするのは本当にやめていただきたい。すべては日本書紀の一書にある真偽不明の創作物語が起源です。私見ではスサノオの出身は「新羅国」ではなく、単なる「山裾」です。
そして、このような神社はすべて六~七世紀にヤマト王権を簒奪した北方系渡来人の都合に合わせて設けられたものです。漢字表記にこじつけて語られる由緒が記紀風土記と密接に連携していることからもそれは明らかです。開音節で終わる上代日本語は百済王族語、高句麗語と同系、北方系渡来人の言語です。
■七山白木(唐津市)※山裾。
■立花町白木(八女市)※山裾。
■糸島市の白木神社 ※すべて山裾の神社。
潤神社はかつて白木神社と呼ばれていましたが、明治時代に七社を合わせ、潤神社となったそうです。
潤神社は一見平地に建っているように見えますが、
◎縄文語:「潤」=「ウル(・オ)」=「丘(・尻、裾)」
と解釈可能なので、高台だったことが分かります。下の地図(糸島市ハザードマップ)の中央に「潤公園」がありますが、「潤神社」はこの公園の南西に接しています。解釈が妥当であれば、このような微妙な高低さえ縄文語はウソをつきません。
■糸島市ハザードマップ切り抜き ※丘裾。

■白木神社(朝倉郡秋月町)※山裾の神社。
■白木神社(嘉穂郡大隈町大字上西郷字サコ)※白木神社の場所が特定できなかったので、所在地の住所を表示します。山裾であることは確かです。
日本の歴史は多くのところで根本的なところからやり直しが必要です。
なぜ、こんなにデタラメが積み重ねられたのか。それは、漢字表記のこじつけ創作の初見が、写本が現存する日本最古の歴史書、千年以上前に書かれた記紀風土記だからです。素人玄人問わず、すべての研究家がこの罠に陥っています。デタラメの積み重ねにも実に千年以上の歴史があるのです。
しかし、古文献や通説、俗説がどんなにデタラメを主張しても、後世の大きな開発や天変地異を除き、その地勢だけは変えることができません。
黎明期の日本の歴史研究は古文献や通説俗説よりも、地勢との一致を優先するべきだと考えます。それほど、ウソ、罠が無数に仕込まれているということです。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「白木原・前原・春日原・仲原・唐原・触・白木神社」について(『御笠川流域の朝鮮文化遺跡について』奥野正男 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【白木原の「原」はバルであって、このバルのつく地名も、糸島から九州北部一帯、さらに、山口県の一部に分布している。前原、春日原、仲原、唐原、盗原など、周りの地名をすこし注意すると、五つ、六つはすぐにあげられる。
このバルの語源は、朝鮮古語の集落という意味であるブル・フルであるようだ。玄界灘をこえて朝鮮から渡来した人々の中継地、壱岐島の小字にあたる地名には、ほとんどといっていいほど「触(ふれ)」という字がつく。 】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
朝鮮古語の「ブル・フル」が「集落」の根拠はどこにあるのでしょうか。
朝鮮南部と日本の古語は縄文語(アイヌ語)です。であれば、「ブル・フル」は集落ではなく、
◎縄文語:「フル(=ウル)」=「丘」
の意です。壱岐に「触(ふれ)」のつく地名が多いのは、単に「フル=丘」が多いからです。
■壱岐の景色( 壱岐市芦辺町深江南触)
白木原の「バル」は縄文語では「パル=入口」の意です。
◎縄文語:「白木原」=「シル・オ・ケ・パル(orパロ)」=「山・尻、裾・のところの・入口」
この場合は「オ=尻、裾」を除いた方がいいかもしれません。
◎縄文語:「白木原」=「シル・ケ・パル(orパロ)」=「山・のところの・入口」
とすれば「山の入口」の意になります。 そして「白木原」駅の北隣の駅は「春日原」駅で、「白木原」とほぼ同義です。
◎縄文語:「春日原」=「カシケ・パル(orパロ)」=「その上のところの・入口」 ※高台(春日丘陵)の入口。
■白木原、春日原 ※山、高台の入口。 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

福岡県糟屋郡粕屋町の「仲原」は
◎縄文語:「仲原」=「ナィ・カ・パル(orパロ)」=「川・岸の・入口」
の意です。東に接して「長者原」地区がありますが、これも「仲原」とほぼ同義です。
◎縄文語:「長者原」=「チゥ・チャ・パル(orパロ)」=「水流、水脈の・岸の・入口」
ただ、「長者原」は東方の湖沼群を指したのかもしれません。
■仲原と長者原(福岡県糟屋郡粕屋町) ※川岸の入口。水流、水脈の入口。
唐原は、
◎縄文語:「唐原」=「トー(・ノッ)・パル(orパロ)」=「湖沼の(・岬の)・入口」
です。
■唐原(福岡県福岡市東区) ※湖沼の岬の入口。
第四百三十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【山口県・福岡県】多々良・妙見・大内・踏鞴・多羅・息長帯姫(気長足姫)~」
×「大内氏」について(『日本歴史大事典』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【系図に推古天皇一九年百済聖明王の第三子琳聖太子が周防国多々良浜に着眼し、その子孫が同国大内村に住んだので、姓を多多良、氏を大内と称したとある。<中略>二四代弘世は初めて山口に移り住んだ。爾来英主がつづいて出て、盛んに明や朝鮮と交易し、産業を興し、学術工芸を奨励した。】
×「多多良・踏鞴・多羅・息長帯姫」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【かれら(大内氏)がその多多良浜に着岸したから多多良氏となったのではなく、かれらがその浜に着岸したので、そこが多多良浜となったものにちがいない。
というのは、多多良浜の多多良とは、古代における鉄の精錬法のタタラ(踏鞴)ともつうじることばであるが、同時にこれはまた、古代南部朝鮮にあって、あるときは百済となり、新羅となりした加耶諸国のうちの一国であった多羅にもつうじることなのである。神功皇后を息長帯姫といった帯(タラシ)(シは助詞 の )もこの多羅からきたものではなかったかと思われるが、大内氏の祖の多多良氏というのも、やはりそういうことからではなかったかと私は思う。
では、大内氏の祖となった琳聖太子が着岸したという周防の多多良浜と、こちら筑前の多多良川とはどういう関係にあったのか。やはりこれには深い関係があって、あるいはもしかすると、大内氏の祖が最初に着岸したのは、こちらの多多良川河口の多多良浜であったかもしれない。
地理的なことなどからみてそう考えられるのであるが、いずれにせよ、こちらの多多良川・多多良浜・多田羅などにしても、大内氏が称したその姓多多良からきたものだったはずである。それからまた、この多多良川河口近くに妙見島というのがあるが、この「妙見」というのも大内氏の祖が朝鮮からもたらした、北斗星を本地とする妙見信仰からきたものだったにちがいない。周防の多多良浜には、「琳聖太子着岸之地」という岸津妙見社がある。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
上記では「タタラ」に結びつけていろいろと書かれていますが、真実は一つもありません。
「琳聖太子」なる人物が登場するのは大内氏の系譜だけなので、室町時代に朝鮮半島と商売をしたかった大内氏の仮冒だと考えられています。(→琳聖太子 wikipedia)
まず、周防の「多々良浜」は、
◎縄文語:「多々良(浜)」=「タクタク・ラ」=「ごろた石の・低地」
です。現在の防府市の比定地(勝間、三田尻)周辺は開発が進んで当時の名残はありませんが、湾の入口あたりにそれらしき景色を眺めることができます。
■多々良浜比定地周辺(防府市江泊) ※ごろた石の低地の名残。
そして福岡の多々良川も「ごろた石の低地」の意と思われます。この川の下流域も開発が進んでかつての地形はほとんど読み取れませんが、それらしき場所を河口に発見しました。
これらストリートビューを見れば、極めて似ている地勢であることが分かります。両地方の共通点は同一地勢、同一縄文語地名です。 大内氏はまったく関係ありません。
他地域の「タタラ」を冠する地名も例証として挙げさせていただきます。中には「テューテュク・ラ=出崎の・低地」と解釈した方が地勢と一致する場所もあるようです。
■多々良川河口(福岡市)※ごろた石の低地。
■たたら浜 神奈川県横須賀市鴨居 ※ごろた石の低地。
■多々良潟 広島県廿日市市宮島町 ※ごろた石の低地 googlemap→
■多々良木 兵庫県朝来市 ※「タクタク(orテューテュク)・ラケ=ごろた石の(or出崎の)・低地」
大内氏が信仰したとされる「妙見信仰」ですが、これも縄文語地名由来です。もともと北斗七星、北極星は無関係です。「妙見」を信仰した大内氏の行動自体がデタラメだったということです。
◎縄文語:「妙見(信仰)」 =「ムィ・オ・キム」 =「頭(頂)が・たくさんある・山」
福岡の妙見島も同義です。
■岸津妙見社(防府市国衙町)後背の山。※頂がたくさんある山。
■妙見島(福岡) ※頂がたくさんある山。 ([福岡城下町・博多・近隣古図]九州大学附属図書館)

ほかの妙見社も妙義山もほぼ同義です。 日本三大妙見のうち、福島の相馬妙見だけは例外です。これは相馬氏が妙見を信仰して勧請したものです。
■日本三大妙見/能勢妙見山(妙見宗総本山 本瀧寺/大阪府)の山並み ※頂がたくさんある山。
■日本三大妙見/八代神社(妙見宮)後背の山並み ※頂がたくさんある山。
■妙義山(群馬県)※頂がたくさんある山。
「踏鞴製鉄」はその名のとおり、”鞴を踏む”様子を表現したものと思われます。
◎縄文語:「踏鞴」=「タッタル」=「踊り踊り」※「タル=踊り」×2
古代南部朝鮮の「多羅」は
◎縄文語:「多羅」=「タン・ラ」=「こちらの・低地」
です。アイヌ語地名の典型的な対比表現です。「安羅」とほぼ同義です。
◎縄文語:「安羅」=「アゥ・ラ」=「枝分れた、隣の・低地」
日本では「荒」の字が充てられることが多いですが、もちろん朝鮮半島の「安羅」とはまったく関係ありません。同じ地勢というだけです。繰り返しになりますが、朝鮮半島南部も日本と同じ縄文語(アイヌ語)圏です。
「息長帯姫(神功皇后)」の「タラ」が朝鮮半島の「多羅」である訳がありません。
◎縄文語:「息長帯(姫)」=「オク・ナィ・カ/トライ・ウシ」=「うなじの(ように窪んだ)・川・のほとり/湿地の水たまり・のところ」
神功皇后が福岡県の香春神社(かわらじんじゃ)に祀られているのも、単に名前と地勢が一致しているからです。香春神社の主祭神は「辛国息長大姫大目命」です。
◎縄文語:「辛国息長(大姫大目命)」=「カル・コッネ(・イ)・オク・ナィ・カ」=「曲がった・窪んだ(・ところ)・うなじの(ように窪んだ)・川・のほとり」
香春神社の前を流れる金辺川(きべがわ)を指しています。 よって神功皇后との関係は定かではありません。もともと実在が疑われる人物ではありますが。
当然「辛国」は「韓国」のことではありません。他地域に見られる「韓(辛)国神社」ももともとは朝鮮半島とは関係ありません。「曲がった川、谷」を指す縄文語地名由来です。
「タラシ=トライ・ウシ=湿地の水たまり・のところ」に関連して。第六代天皇の「孝安天皇」の諱は「日本足彦国押人」です。
◎縄文語:「(日本)足彦国押人」=「トライ・ウシ・シクル/コッネ・オソル・ペト」=「湿地の水たまり・のところの・大夫/窪んだ・尻の・川口」
で、諏訪大社の原始信仰とされる「ミシャクジ」信仰とほぼ同義です。諏訪大社については第三百七十一回コラムで詳説しています。
◎縄文語:「ミシャクジ」=「メム・シアン・クッチャル」=「泉の・大きな・入口」
漢風諡号の解釈とも辻褄が合います。
◎縄文語:「孝安(天皇)」=「コッ・アゥ」=「窪地の・枝分かれ」
神功皇后(息長帯姫)や安羅の解釈とも似ています。
ほかにも「タラシ」のつく人物はたくさんいるので「同じタラシ系が~」といったような説も見受けられますが、拠点が”湿地の水たまり”の近隣だったというだけです。それが同じ場所を指したかどうかは不明です。
また、記紀風土記を編纂した頃(大化改新以降)のヤマト中枢は、自らの都合に合わせて日本の歴史を改竄している側の人物たちなので「漢風諡号は淡海三船がまとめて後世に~」という説は容易には信じられません。縄文語の仮借漢字表記を好字に変えただけというのであれば理解できます。上代日本語は北方系渡来人の言語です。
■神功皇后を主祭神とする香春神社 ※曲がった川のほとり。
大内氏が拠点とされる山口市の「大内」もその地勢を表現しています。
◎縄文語:「大内」
=「オオ・ウテュル」=「大きな・間」
or「オオ・エテュ」=「大きな・岬」
■山口市大内周辺
第四百三十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【香川県】城山城・明神原~」
○「城山城・城山神社」について(『香川県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【この山城(城山城)はわが国では初期のもので、山頂の平坦部全域を城郭にとりいれた東西一・五、南北二キロにおよぶ広大なもので、朝鮮式の構築法がとられている。城跡には車道(くるまみち)と呼ばれる帯状の平坦地があり、上の車道(第一車道)は山頂からすこしさがったところを全長三・四キロにわたって取りまいており、そこから約一〇〇メートル下側に四・四キロにおよぶ下の車道(第二車道)がある。その間に城門や水門などの構築物、城門の大柱の礎石として用いられたホロソ石や、俎石と呼ばれる石造加工物が散在している。<中略>
城山には、本県のあけぼのを示す先土器時代の貴重な遺跡がある。<中略>
城山の遺跡から出土した石器は、サヌカイト(讃岐石)を用いこれを精巧に剥離している。また頂上・三角点の北方から弥生式土器、古墳時代の土師器・須恵器なども出土し、それらからこの城山が長い間にわたって人びとの生活の中心地であったことがわかる。
東の鴨川口から登山して、頂上付近で東南端に大きく突出した峰がある。ここを明神ヶ原といい、もとの城山神社の跡であると伝えられている。現在の城山神社(坂出市府中町西山)は城山の東麓lにあって讃岐国造の始祖神櫛王が祭られている。<後略>】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
『日本の中の朝鮮文化』では、この城山城を原始時代のものと決めつけて、あたかもその頃から朝鮮半島の山城の強い影響があったような書き方をしていますが、そんなことはありません。築造時期は不明で、他の古代山城と同様に白村江の戦い(六六三)の後に築城された可能性が指摘されています。
●城山城(讃岐国)/歴史(wikipedia)
【 城山城は文献上に記載のない城であるため、城名・築城時期・性格等は明らかでない。発掘調査でも出土遺物に乏しいため編年は詳らかでないが、天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方・近畿地方において古代山城の築城が見られており、城山城もその1つに比定される。】
筆者はこのような古代山城が、朝鮮半島情勢だけでなく、日本国内の「北方系の国府」と「南方系の先住民」の対立も影響しているのではないかと疑っています。
近場でこの類いの有名な朝鮮式山城に、吉備国の鬼ノ城があります。讃岐国の城山城も鬼ノ城も、共通して国府の詰城のようなかたちでその後背にあります。
古代吉備国の中心地である備中国府の近隣(鬼ノ城の麓)には、五世紀築造の「造山」「作山」の大古墳があります。この二つの古墳名は地勢と一致する縄文語解釈が可能で、先住民の墳墓である可能性が高いことを示しています。
◎縄文語:「造山/作山」=「チケレ・ヤマ」=「削れている・山」=自然地形を削った山
いずれも自然地形の丘陵を削って築造された古墳です。
しかし、これら大規模古墳に後続する「両宮山古墳」は、なぜか東方二十数キロメートル山向こうの赤磐市に移ることになります。五世紀後半の築造で、その後もこの周辺に古墳が築かれていきます。
◎縄文語:「両宮山」=「レルケ・サン」=「山陰の・出崎」
つまり、国府の近隣にこの大勢力があったということです。
各地方の国府は、縄文語の意味を完全に無視した風土記を北方系言語の上代日本語で編纂しているので、必然的に北方系に近い存在と言うことができます。その内容は記紀や神社の由緒と密接に連携しています。
一方の大規模古墳勢力は縄文語の南方系先住民です。北方系言語(高句麗語、百済王族語、上代日本語)は開音節、南方系言語(アイヌ語=倭人、朝鮮半島南部、東夷南蛮の言語)は閉音節で終わる特徴があります。
そして、白村江の戦いとは「北方系百済とそれを支援する大和」VS「南方系新羅とそれを支援する唐」の戦いです。唐、新羅連合の勝利は、南方系である日本先住民を刺激しないはずはありません。両者が手を結べばやっかいなことになります。何せ、言語を共有する同系民族なのですから。北方系の大和は、新羅の来襲と、先住民の反逆の両方に備えなければならなかったのかもしれません。
この時の朝鮮半島情勢に臨むにあたって、大和内部では「新羅派VS百済派」の対立があったという説がありますが、もしそうであれば、大和でも南北の派閥の駆け引きがあったということになります。
●倭国の情勢(wikipedia)
【この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出て来たことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。】
私見では、南方系の縄文語から北方系の上代日本語に言語が切り替わった(民族が入れ替わった)のが大化改新だと考えていますので、乙巳の変で主役を演じた中大兄皇子(天智天皇)が南方系の新羅派だとはにわかには信じられません。
そして、白村江の戦いで百済、大和が敗れた後、備中国府後背に築かれるのが朝鮮式山城の鬼ノ城となります。
ちなみに乙巳の変で滅ぼされた蘇我本宗家の系譜に「高麗」や「韓子」の名が見えますが、その名前から朝鮮半島系渡来人と決めつけるのは間違いです。
縄文語では「高麗=コム・マ=湾曲した・谷川」「韓子=カル・コッ=曲がった・谷」の意ですから、ともに蘇我氏が拠点としたも奈良県橿原市曽我町の曽我川の地勢を表現したものと考えられます。そして、蘇我本宗家が滅ぶタイミングで天皇の諡号が縄文語から上代日本語に切り替わるので、必然的にそれまでの権力者筆頭であった蘇我本宗家は南方系先住民だったということになります。
■鬼ノ城、備中国衙、造山古墳、作山古墳、両宮山古墳の位置関係
話を戻します。
香川県の「城山城」も、この備中の鬼ノ城に類するものではなかったかということです。
「城山城」も地勢と一致する縄文語解釈が可能で、もともとは南方系先住民の居住地であったことを示しています。坂出市公式HPに「城山」の名称由来がありますが、漢字表記こじつけ説でまったく信憑性がありません。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「城山の名称由来」について(坂出市公式HP)
【山頂に朝鮮式の山城址があるので,我が国においては城(しろ)のことを「き」と呼んだのがそのまま山の名として残ったと推測されています。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
「城山」は
◎縄文語:「城山」=「ケィ・ヤマ」=「頭の・山」
の意です。なぜなら、城山の頂の東方に突き出た山を「明神原」と言いますが、
◎縄文語:「明神(原)」 =「ムィ・オ・ウシ」 =「頂が・たくさんある・もの」
と解釈できるからです。下の地勢を見れば一目瞭然。他地域の「明神」を冠する地名も「頂がたくさんあるもの」の意です。
城山神社に祭られている「神櫛王」も地勢と一致する解釈が可能です。
◎縄文語:「神櫛(かんくし)(王)」 =「カン・クシ(・アゥ)」=「上にある・山向こうの(・枝分かれ)」
※枝分れた山向こうの高台
まさに、「明神原」の地勢を的確に表現しています。讃岐国造の祖と言われる「神櫛王」も単にありきたりな讃岐の地勢を表現したものである可能性が高いことが分かります。「神櫛王」は記紀においては第十二代景行天皇皇子とされていますが、その人物と同じ漢字を讃岐にあった縄文語地名に充てて物語を創作したということです。この辺は、記紀風土記の他の物語創作とまったく同じ手法です。
また、「明神原」の類似表現では、「妙見」「妙義山」「妙高」があります。
◎縄文語:「妙義山/妙見信仰」 =「ムィ・オ・キム」 =「頭(頂)が・たくさんある・山」
妙見信仰も縄文語地名に便乗したもので、北極星も北斗七星ももともとそれらの土地とは無関係です。
百済聖明王の第三王子”琳聖太子”が妙見信仰を普及させたという伝承が山口県に多く見られますが、その実態は”琳聖太子”を祖と仰いで朝鮮半島との商いを首尾良く運ぼうとした大内氏の創作物語です。琳聖太子と妙見信仰については、第四百六回コラムをご参照ください。
■城山(香川県坂出市)※頂がたくさんある山。右端の突起した山が明神原。
■徳島県美馬市明神原 ※頂がたくさんある山。
■長野県小県郡長和町明神原付近 ※頂がたくさんある山。
■山口県岩国市明神原 ※頂がたくさんある山。
■日本三大妙見/能勢妙見山(妙見宗総本山 本瀧寺/大阪府)の山並み ※頂がたくさんある山。
■日本三大妙見/八代神社(妙見宮)後背の山並み ※頂がたくさんある山。
■妙見信仰の金輪神社(山口県下松市)後背の大谷山、茶臼山、鷲津山の山並み。※頂がたくさんある山。
■妙見宮のあった防府市下右田の右田ヶ岳(中央) ※頂がたくさんある山。片山は右田ヶ岳の西南麓(山の左側)。
■岸津妙見社(防府市国衙町)後背の山。※頂がたくさんある山。
■妙義山(群馬県)※頂がたくさんある山。
■妙高山遠景(新潟県) ※「ムィ・オ・コッ=頂が・たくさんある・窪地」
第四百三十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【福岡県】奴国・那津・須玖・春日~」
×「奴国」について(『日韓古代文化について』筑紫豊 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【その「な」という国名は、韓語の土地という「な」と同じ言葉であるとか、日韓共通の浦とか川口をいう言葉の「な」であろうという説がある。わたしは後者の説に従うものであるが、さて、この「な」の国王はどこに居たのであろうか。郷土や九州の考古学の代表的な学者である九州大学名誉教授の鏡山猛氏は、遺跡や遺物の上から、それは福岡市の郊外にあたる須玖(春日市)であろうとする。
わたしもそれに賛成である。というのは「すく」というのは日韓共通の古語であり、周囲に構えのある聚落をいう言葉であるので、「な」の国王の都とするのにふさわしいからである。この須玖の遺跡には、韓国に源流がある支石墓の見事なものがあった。支石墓は福岡県・佐賀県/長崎県にも分布があって、西暦紀元ごろの日韓文化の関係を物語る以降として考古学上貴重なものとされている。】
×「奴国・那津」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【ついでにいうと、那津・奴国の「な」とは、加耶(加羅・加那)の耶・羅・那と同じ、古代朝鮮語の「国(ナラ)」(那羅・奈良というのもこれからきている)ということであったと私は思うが、それはどちらにせよ、要するに、筑紫氏のいう「弥生銀座」、「古代朝鮮語で『村』を意味する」(春日市教委編『春日市の史跡』)須玖にしても、さきにみた板付遺跡や金隈遺跡のある地とともに、弥生時代・古墳時代における古代朝鮮渡来人の集住地だったのである。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「奴(国)/那津」=「ヌッ」=「川がゆっくり流れているところ」
子音の「ッ」が脱落すれば「奴国」、表記すれば「那津」となります。
ただ、「春日市須玖」の地勢と周辺地名を考慮すると、
◎縄文語:「奴(国)/那津」=「ノッ」=「岬」
の可能性も考えられます。春日市周辺は那珂川河口の低地にある丘陵地帯です。
◎縄文語:「春日」=「カシケ」=「その上のところ」※高台
◎縄文語:「須玖」
=「シル・ケ」=「山・のところ」
or「シルクル」=「山」=村主
◎縄文語:「岡本」=「オク・モ・テュ」=「窪地の・小さな・峰」
「村主」の名称のすべてを新羅の役職名と結びつける必要はありません。新羅も縄文語圏なので、倭人と「シルクル=山」という言葉を共有しています。
須玖岡本遺跡の南には「小倉」地区、「昇町」地区が接しています。
◎縄文語:「小倉」=「コッ・キリ」=「窪地の・山」
◎縄文語:「昇(町)」=「ヌプリ」=「山」
■須玖岡本遺跡(奴国比定地)周辺の縄文語解釈 ※窪地の高台の解釈で一致。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

余談ですが、「奈良」の春日大社は「高台にある神社」の意です。ついでに「奈良」は「国」の意ではありません。
◎縄文語:「奈良」=「ナラ」=「山中の平地」
また、「耶」「羅」「那」は
◎縄文語:「耶」=「ヤ」=「陸岸」
◎縄文語:「羅」=「ラ」=「低地」
◎縄文語:「那」=「ナ」=「~の方」
です。 頭に「アゥ=枝分れた、隣の」や「カン=上にある」、「カ=ほとり」がつけば、そのまま朝鮮半島南部の加羅諸国の国名、加耶、安耶、安羅となります。
東夷南蛮から朝鮮半島南部は日本と縄文語を共有している南方系の同系民族なので、生物学的特徴は違えど、往来があるのは当たり前です。同一地名があるのも決して人々の移動を示している訳ではありません。単に同一地勢を同一地名で呼んでいたというだけです。
言語が同じである以上、太古の昔から往来があったと考える方が自然で、文化の共有があるのも当然と言えます。出土物が似ているからといっていちいち驚くに値しません。民族や文化を「朝鮮人」「日本人」のようにきれいに線引きできるような状態ではなかったということです。
『日本の中の朝鮮文化』の著者の金達寿氏による漢字表記に結びつけた一連の解釈は、朝鮮半島系渡来人礼賛の完全なる牽強付会であり、まったく受け入れることはできませんが、こと民族の捉え方では珍しく私見と一致しています。
○「弥生時代の日本人と朝鮮人」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【弥生時代の当時はまだ、「日本人」というものがなかったのと同じように、「朝鮮人」というものもなかったのであるから、これは朝鮮半島からの「渡来人」とするのがただしいと思う。】
しかしながら『日本の中の朝鮮文化』では、この見解とは裏腹に「朝鮮半島人が日本を作った」かのような主張で全体が覆われているので、かなりの矛盾を感じます。朝鮮人や日本人などの切り分けがないのであれば、「日本に朝鮮半島系渡来人がいた」という概念とは逆に「朝鮮半島から中国大陸にかけて日本と同系民族がいた」とも言える訳で、とすれば、そもそも「朝鮮を日本人が作った」とも言える訳です。
これらの定義を難しくしているのは、ひとえに朝鮮半島と日本の間に「海」があるからです。もし、朝鮮半島と日本が陸続きだったと仮定した場合、当時の朝鮮と日本の定義は一気に曖昧になり、関東と関西のような同国内の関係性に似たものになります。言語を共有する以上、この「海」を取り払った状態で考えるのが公平な定義の仕方ではないでしょうか。
いずれにせよ、同一言語圏であるこれらの地域の交流は太古の昔から細々と続いていて、稲作や金属器の製造を組織的に行えるほどの大集団が大挙して押し寄せ始めたのが弥生時代と言うことができます。つまり、単にその多寡が変わったというだけです。
これらの人々の移動には当然大陸の情勢が関係していると考えられます。筆者が行った漢代の県名(上古音)の縄文語解釈では、中原から蔑まれた四夷の言語が縄文語であったことを示しているので、逆に中原の人々の方が侵略者であった可能性が高いということになります。
五千年前、地球の気候はヒプシサーマル期(最温暖期、縄文海進の時期)が終わり寒冷化が進みます。殷から始まる甲骨文字は、北方遊牧民が南下してもたらしたものかもしれません。北方の大平原はメソポタミアに繋がっています。
紀元前十七世紀以降、この殷の勃興が中国先住民である四夷への圧力となり、ボートピープルを発生させたのではないでしょうか。舟に乗って海に出た人々が、言語を共有する朝鮮半島南部や日本に渡り、大陸の文化を伝えることになったと考えれば、多くの辻褄が合います。
第四百三十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【福岡県】志賀島・和白(わじろ)・新羅・徐耶伐(ソヤブル)・和白(ハベク)・釜山・蔚山・村主~」
×「和白」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【志賀島から「海の中道」といわれる細長い半島を戻ると、それの付け根に和白(わじろ)というところがある。
かつての和白郷で、いまはここも福岡市となっているが、それでも和白、上和白、下和白と、かなりの地域を占めている。和白はこれを朝鮮語でよむと和白(ハベク)となり、これは古代朝鮮の新羅における「評議会」ということであった。新羅の初めは徐耶伐(ソヤブル)といったが、これは斯廬族など六部族が連合したもので、その六部族の評議会のことを「和白」としていたのである。】
×「和白」について(『日本地名学研究』中島利一郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【而して日本では、天安河の神集を別として、地理的に其の場所を明示することの出来るのは、実に筑前〈福岡県〉の和白であるのである。和白は即ち前掲の如く議会を意味する新羅語であったものが、神功皇后によって、其の地に命名せられたものと思われる。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
「和白」は新羅語の「ハベク=評議会」とはまったく関係ありません。神功皇后の名が出てくる時点で信憑性はありません。
◎縄文語:「和白」=「ウェィシル」=「水際の断崖絶壁」
■福岡市和白の縄文語解釈 ※水際の断崖絶壁。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)
余談ですが、「筑紫」も類似表現です。
◎縄文語:「筑紫」=「チクシ」=「海岸の難所」
玄界灘の岩礁の岸を指したものと思われます。
筆者は朝鮮半島南部も縄文語圏だったと考えています。新羅もそこに含まれます。
◎縄文語:「新羅」=「シル・オ・ケ(orシロケシ)」=「山・裾・のところ(or山裾)」
新羅はもともと「徐耶伐(ソヤブル)」と言ったそうですが、それが確かであれば、
◎縄文語:「ソヤブル」=「ソ・ヤ・フル」=「磯の・陸岸の・丘」
新羅の評議会とされる「和白(ハベク)」は、
◎縄文語:「ハベク」=「パンパケ」=「川下」
この「ソヤブル」と「ハベク」を合わせると「釜山」と同義となります。
◎縄文語:「釜山」=「プッ・サン」=「川口の・出崎」
釜山の北には蔚山があります。
◎縄文語:「蔚山」=「ウル・サン」=「丘の・出崎」
いずれも地勢と完全に一致しています。
■釜山の河口の磯の丘。
■蔚山の丘の出崎。
また、新羅の役職で日本の苗字にもある「村主」も縄文語で解釈可能です。
◎縄文語:「村主」=「シルクル」=「山」
この「村主」も渡来系の苗字とされがちですが、単に日本の「山」につけられた地名が由来である可能性があります。発祥地が不明なのと、あまりにもありきたりな地勢なので確実なものではありませんが、他の例を勘案すると可能性が低いとは言い切れません。
宇佐八幡の社家の氏族だった辛嶋(韓嶋)氏の姓も「勝(すぐり)」です。
◎縄文語:「辛嶋」=「カル・サマ」=「湾曲(した川)の・ほとり」
宇佐市に辛島地区がありますが、「湾曲した駅館川のほとり」と解釈が可能です。 この周辺の地名の縄文語解釈は第二百九十五回コラムで取り上げています。
「辛嶋」氏は「韓嶋」とも表記されますが、この「韓」のつく日本の地名も朝鮮半島との関係性を示している訳ではなく、多くは「韓=カル=湾曲した川」を指しています。
八幡神社は宇佐八幡を初め、日本全国「川端」にあります。なぜなら、
◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャム」=「川端」
に建てられているからです。本当に八幡大神がいるとすれば、それは川端の自然崇拝です。
■宇佐八幡。全国の八幡神社は川端にある。
志賀島については、
◎縄文語:「志賀(島)」=「シ・カッ」=「真の・形」※左右対称の形の島
で、「左右対称の形の島」を表現したのではないかと考えます。
「シ・カッ=真の・形」の解釈の類例としては、兵庫県たつの市で産出される「銅牙石」という数ミリの立方体(サイコロ状)の石が挙げられます。地元では升石と呼ばれています。
この「銅牙石」、播磨国風土記の写本には「銅牙石」ではなく、「飼●(「豕」や「可」に似た文字)石」と書かれていますが、平安期の延喜典薬寮式の播磨が納めるべき薬種に「銅牙」があることから、通説では「銅牙」の誤記であるとされています。
しかし、私見では播磨国風土記が正しく、通説が間違っています。
◎縄文語:「飼カ(石)」=「シ・カッ」=「真の・形」※立方体、サイコロ状の石
ですから、そのまま石の形状を表現しています。志賀島の解釈とも辻褄が合います。
■志賀島 ※左右対称の形の島。
第四百三十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【福岡県】香椎・クシフル・クシヒ~」
×「香椎」について(『筑紫文化財散歩』筑紫豊 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【筆者は、この社(仲哀天皇の霊廟、香椎宮)に参拝するたびに『古事記』や『日本書紀』に伝えられている香椎の行宮のことを思う。カシヒという地名の起こりは、この地方では仲哀天皇の棺を懸けた椎の木の実が、香しい匂いを放ったので、そのカンバシヒの縮まったものだという伝説はあるが、この地名は、神武天皇即位の地名カシハラとともに、天孫降臨の地名をクシフル・クシヒと同形のもので、韓五の王都の意と解せられ、古代史上、半島と関係の深い神功皇后・応神天皇の性格の改名に重要な意味をもつのではないだろうか、と。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「香椎」=「カシ・ヘ」=「上の・頭(岬)」※高台の岬
「カシ・ピ=上の・石」の解釈も考えられるのですが、南東に「青葉」の地名があるので「頭(岬)」の解釈としました。
◎縄文語:「青葉」=「アゥ・パ」=「枝分れた、隣の・頭(岬)」
■香椎宮周辺 ※高台の岬
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

「クシフル」「クシヒ」の解釈は以下です。
◎縄文語:「クシフル」=「クシ・フル」=「対岸の・丘」
◎縄文語:「クシヒ」
=「クシ・ピ」=「対岸の・石」
or「クシ・ヘ」=「対岸の・頭(岬)」
「九州」は
◎縄文語:「九州」=「クソル(クシ・オル)」=「対岸(対岸の・ところ)」
です。「九つの国」といったような漢字表記こじつけ説はすべてデタラメです。
「日本」も
◎縄文語:「日本」=「チュプ・パ」=「太陽・の上手」※東の国
と解釈可能なので、「クシフル」「クシヒ」が指したのは、朝鮮半島から見た「対岸(九州)の丘、岬」だったのしれません。神話に真実が織り込まれているとするならば、神武天皇は朝鮮半島出身だった可能性があります。断定はできませんが。
奈良の「橿原(カシハラ)」は、
◎縄文語:「橿原」=「カシ・ハ・ラ」=「その上・水が引いた・低地」 ※高台の低地
「筑紫」は、
◎縄文語:「筑紫」=「チクシ」=「海岸の難所」 ※玄界灘の岸
です。
いずれも日本のどこにでもある地勢、地名です。同一地名や似ている地名を片っ端から結びつければ壮大なフィクションが誕生することでしょう。それが日本の神話、歴史です。
第四百三十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【福岡県】早良・麁(祖)原・脊振・飯盛山・三家連豊継・早良勝足嶋~」
×「早良・麁(祖)原・脊振・飯盛山」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【原田さん(旧糸島郡前原町の考古学者原田大六氏)が、「飯盛遺跡を含む一帯が『早良』と呼ばれていることについても『早良』や「麁(祖)原』の語源は、朝鮮語の『ソウル』から来ているとし」たことについて、ちょっとみておくことにしたい。麓に飯盛遺跡がある飯盛山もそれに含まれる背振山地の背振とともに、早良がソウルからきたものだということは、私は以前、原田さんからじかに教えられていた】
×「三家連豊継・早良勝足嶋」について(『西日本新聞1986/7/24(「早良」のルーツを探る/田村圓澄)』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【十世紀に成立した『和名抄』は早良郡を七つの郷に分けている。「早良」の地名を負う早良郷には、現在の西新町、鳥飼、百道松原が含まれており、また飯盛は金武とともに平群郷に属していた。
一二七四年(文永十一)に来襲した蒙古郡は、今津、百治(百道)原、赤坂の間に上陸し、別府、鳥飼、麁原(そはら)、塩屋などで日本側と戦をくりかえした。『蒙古襲来絵詞』に記された地名は、今も町名として残っている。青柳種信が『筑前国続風土記拾遺』で指摘しているように、「早良」の郡名は「麁原」の地名にもとづいていると思う。
「観世音寺奴婢帳」によれば、七五八年(天平宝字二)に早良郡額田郷の三家連(みけのむらじ)豊継は観世音寺に奴婢五人を施入しており、すなわち早良郡は八世紀に成立していたことが知られる。
ところで「早良」の地名の基となった「麁原」は「ソウラ」からきたものではないか、と思う。ソウラは韓国慶尚南道梁山の旧名である。霊山は金海の北東二十キロ、 洛東江の東岸に所在する。『日本書紀』には「草羅」「匝羅」と記されている・・・・・・。
三家連豊継が観世音寺に奴婢を施入したとき、立券文の証人になった早良勝足嶋は、勝(すぐり)姓であり、渡来氏族の秦氏の同族と考えられる。早良勝は擬少領、すなわち早良郡の郡司の家柄であった。
仮説であるが、加羅(加耶)のソウラから集団で筑前に渡来し、その定住地が故国の「ソウラ」にちなんで「そはら」と呼ばれたのではないか。「麁原」の文字は後になって当てられたと思う。この渡来集団の狩猟が早良勝氏の祖である。早良勝氏は早良地区の開発者とみるべきであろう。ともあれソウラ→麁原→早良への地名の推移の背景に、加羅・新羅文化をもつ早良勝集団の筑紫渡来の事実がうかがえると思う。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「脊振山」=「シアン・フル・ヤマ」=「本当の、大きな・丘の・山」
◎縄文語:「飯盛山」=「エ・エン・モ・ルム・ヤマ」=「頭が・尖った・小さな・岬の・山」
以下の写真とストリートビューを見ても、語源が朝鮮半島の「ソウル」だと言い切れるでしょうか。
「飯盛山」は「忌部氏」とほぼ同義です。「忌部氏」は拠点とした阿波の「大麻山(尖った山)」の地勢を指しています。
◎縄文語:「忌部」=「エ・エン・ぺ」=「頭が・尖った・もの」※尖り山
■背振山 ※大きな丘の山(wikipedia/Pontafon, CC BY-SA 4.0)

■飯盛山(中央) ※頭が尖った小さな岬の山。忌部氏とほぼ同義。
■忌部氏の祖を祀る大麻比古神社(奥宮)が頂にある大麻山(中央) ※尖り山。
■忌部氏(尖り山の意)が活躍したとされる西讃岐の忌部神社(三豊市)周辺から北方を望む ※讃岐にはいたるところに尖り山が存在。讃岐の忌部氏は縄文語地名にこじつけられただけで、実際に阿波の忌部氏の血縁が活躍したかどうかは定かではありません。
「早良」と「麁原」は同類の解釈が可能です。
◎縄文語:「早良」
=「シアン・ウェン・ラ」=「大きな・難所の・低地」
or「サン・ウェン・ラ」=「前にある・難所の・低地」
◎縄文語:「麁原」
=「シアン・ハー・ラ」=「大きな・水が引いた・低地」
or「サン・ハー・ラ」=「前にある・水が引いた・低地」
「祖原」には標高33.2mの小さな「麁原山」がありますが、隣接地名の縄文語解釈が一致します。
◎縄文語:「高取」
=「テュク・ト・オロ」=「小山の・湖沼・のところ」
or「トク・ト・オロ」=「突起物の・湖沼・のところ」
◎縄文語:「曙」=「アルケ・ポン・ノッ」=「片割れの・小さな・岬」
◎縄文語:「荒江」=「アル・エ」=「片割れの・頭(岬)」
◎縄文語:「藤崎」=「プッ・サン・ケ」=「川口の・出崎・のところ」
■早良区祖原周辺の縄文語解釈 ※湿地の岬の解釈で一致。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

「観世音寺奴婢帳」に登場する「三家連豊継」と「早良勝足嶋」ですが、この二人もの縄文語解釈も「麁原山」と一致します。二人の解釈は言い換え表現と捉えられるほど似ています。同一人物の可能性もあるのではないでしょうか。
◎縄文語:「三家(連)/豊継」=「メム・ケ/ト・ヤ・テュク」=「泉・のところ/湖沼の・ほとりの・小山」※麁原山?
◎縄文語:「(早良)勝/足嶋」=「(大きなor前にある難所の低地の)シルクル/トラィ・サム」=「(大きなor前にある難所の低地の)山/湿地の水たまりの・ほとり」※麁原山?
「村主/勝(すぐり)」は縄文語で「シルクル=山」の意なので、いちいち「新羅国」や「秦氏」に結びつける必要はありません。日本全域、朝鮮半島南部、東夷南蛮までが縄文語圏なので、新羅系と断定はすることはできないということです。
以下その他周辺地名。いずれも地勢と一致しています。
「鷲尾愛宕神社」の「愛宕」は「ぽつんと離れた山」あるいは「尾根の先端のたんこぶのような突起した山」の意で、日本全国同じ地勢です。この地域での縄文語使用は確実です。問題は、いつから日本語(上代日本語)解釈になったのかです。
◎縄文語:「鷲尾/愛宕(神社)」=「ウェィシル・オ/アッ・タプコプ」=「水際の断崖・の麓/片割れの・ぽつんと離れた山」
◎縄文語:「百道」
=「モ・マーテュ」=「小さな・波打ち際」
or「モ・メム・チャ」=「小さな・泉の・岸」
or「モ・メム・テュ」=「小さな・泉の・岬」
◎縄文語:「別府」=「ぺぺ」=「水たまり」
◎縄文語:「鳥飼」=「ト・オリ・カ」=「湖沼・の丘・のほとり」
◎縄文語:「草香江」=「クッチャル・カ・エ」=「湖沼の入口・のほとりの・頭(岬)」
◎縄文語:「赤坂」
=「アルケ・サン・カ」=「片割れの・平山・のほとり」
or「アカ・サン・カ」=「なだらかな尾根の・平山・のほとり」
飯盛山周辺の「金武」と「平群(郡)」は同義で、言い換え表現となっています。「金武」に隣接する「吉武」も類語です。
◎縄文語:「金武」=「カンナ・ト・ケ」=「上にある・湖沼・のところ」
◎縄文語:「平群郡」=「ペー・キリ」=「水の・山」
◎縄文語:「吉武」=「ヤチ・ト・ケ」=「泥の・湖沼・のところ」
■飯盛山 ※麓に池沼が点在。
蒙古軍が上陸した「今津」の縄文語解釈も地勢と完全に一致しています。「突き出た波打ち際」。
◎縄文語:「今津」=「エン・マーテュ」=「突き出た・波打ち際」
■今津 ※突き出た波打ち際。
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