
【 第四百八十一回~第四百九十回 】
第四百八十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【宮崎】男狭穂塚・女狭穂塚(西都原古墳群)・弥吾郎塚(新田原古墳群)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
〇「西都原古墳群」について(『宮崎県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(西都原)台地の中心にあるもっとも大きな古墳が男狭穂(おさほ)塚・女狭穂(めさほ)塚で、この両古墳をふくむ一帯一〇ヘクタールあまりは御陵墓参考値として宮内庁の管轄下にある。いまでは樹木がしげって、とおくからみると古墳とはすぐにはわからないが、よくみれば木の高さが大きく波うっていて、古墳のかたちをよみとれる。
男狭穂塚は全長二一九メートル、後円部直径一二八メートル、二重の濠跡がある。規模は九州第一位。全国でも二四番めにあたる。前方部に問題があり、円墳・帆立貝塚ともいわれている。女狭穂塚は全長一七四メートル、後円部直径は九七メートル。前方部と後円部の接するところの両側に突起があり、車塚ともいわれ、一重の濠をめぐらしている。なお、この両古墳には管理人がいて、かってな立入りはゆるされない。
女狭穂塚の南東五〇〇メートルに鬼の窟(おにのいわや)古墳がある。高さ六・八メートル、周囲一四二メートル、南部の羨道は江戸時代から開口している横穴式古墳。この古墳が有名なのは、まわりに高さ一・八メートルの土塁をめぐらしていることで、この形式は朝鮮・中国ではみられるが、日本では完全なかたちのものはここだけといわれる。
その他、姫塚(二〇二号墳)、飯盛塚(一六九号墳)など有名なものが多く、よく日本史の教科書に掲載されている子持家形埴輪・舟形埴輪・衝角付きカブト埴輪などが出土している。
西都原台地の谷ひとつへだてた西方の台地は百塚原とよばれ、金銅馬具が出土している。
西都原から一ツ瀬川をへだてた対岸は、西都原とおなじような洪積台地がつらなっている。北から千畑(ちばたけ)古墳、茶臼原古墳群、それに西都原のまむかいにあるのが新田原(にゅうたばる)古墳群だ。新田原古墳群は、西都原にたいし東都原ともよばれ、約二〇〇基あり、弥吾郎塚(全長九三メートル)、大久保塚・百里塚(百足塚の誤植?)と壮大なものが多い。戦前、飛行場建設のため一部破壊された。
宮崎県下にある約五〇〇〇基の古墳のうち、約一五〇〇基は西都原を中心に分布している。】
「男狭穂塚」「女狭穂塚」は決して”男”と”女”を表現している訳ではありません。縄文語解釈してみると、それぞれの墳丘の形状の対比表現になっていることが分かります。
◎縄文語:「男狭穂塚」=「オ・サン・ポ・テュク」=「尻の・出崎が・小さいものの・小山」
◎縄文語:「女狭穂塚」=「ムィ・サン・ポ・テュク」=「頭の・出崎が・小さいものの・小山」
現代人が「前方後円墳」と呼んでいるものは、古墳時代人にとっては「尻方頭円墳」とした方がより正解に近い表現ということになります。
■「男狭穂塚」「女狭穂塚」のおおよその形状。数値はwikipedia参照。
また、近接するこの両古墳の築造については、男狭穂塚古墳の前方部が小さいことから次の論争があります。
■「男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳」の築造について(wikipedia)
【男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳の築造を巡っては、近接して立地することもあり、これまでに次の諸説が挙げられていた。
・男狭穂塚が先行古墳で、女狭穂塚の築造に際して男狭穂塚前方部を破壊したとする説。
・女狭穂塚が先行古墳で、男狭穂塚の築造途中に女狭穂塚との重複可能性により男狭穂塚前方部の築造を停止したとする説。
・男狭穂塚・女狭穂塚とも完結しており、重複はないとする説。
以上に関して宮崎県教育委員会による立ち入り地中レーダー探査(墳丘部除く)の結果によれば、男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳には重複関係はなかったとされる。】
■男狭穂塚(中央上)と女狭穂塚(中央下)
レーダー調査が正しければ「男狭穂塚」は初めから前方部が小さく、「女狭穂塚」は初めから後円部が小さかったということになります。これらの古墳名が地勢と完全に一致する縄文語由来だとすれば、明らかに固有名詞で、この地域で主導権を握っていた南方系民族(倭人、朝鮮半島南部、東夷南蛮)の墳墓だった可能性が高いということになります。少なくとも両古墳の築造時期である五世紀前半までこの地域で縄文語が使用されていたことは確実です。
「女狭穂塚」の別名の「車塚」の方は、同名の古墳が全国に点在していることを考慮すれば、固有名詞ではなく一般名詞とするのが妥当です。
◎縄文語:「車塚」=「ケゥ・ルム・テュク」=「死体の・岬の・小山」
「車塚」は単に「お墓山」程度の意と捉えられます。
「男狭穂塚古墳」「女狭穂塚古墳」は宮内庁が管理しているので、原則立入り禁止です。男狭穂塚の被葬者候補としては瓊瓊杵尊、女狭穂塚は妃の木花開耶姫が挙げられていますが、前述のとおり、この古墳名の縄文語解釈は両古墳の形状を示しているのであって「男」と「女」を指してはいません。
全国に散らばる大規模古墳名は北から南まで古墳時代を通して縄文語解釈可能ですが、記紀風土記以降、為政者周辺の人々が、古墳名はもちろんのこと、地名人名由来、神社仏閣の由緒も含め、南方系先住民の言語である縄文語(アイヌ語)の解釈を語ったことは一切ありません。語られるのはすべて、百済王族や高句麗の言語と同じ開音節で終わる特徴を持つ上代日本語、日本語の解釈だけです。
私見では大規模古墳の時代と大化改新以降のヤマト王権の中枢部では、縄文語から上代日本語に言語が切り替わるほどの民族の入れ替えがあります。蘇我本宗家とともに灰燼に帰したとされる多くの歴史書、記紀の神話創作による邪馬台国の隠蔽。宮内庁によって立入り禁止とされる主要古墳にもこれらと同じようなきな臭さを感じるのは気のせいでしょうか。
次にご紹介する西都原古墳群中の「鬼の窟古墳」についても漢字表記にこじつけた伝承が語られますが、日本黎明期の歴史の多くの要素はこの類のデタラメで構成されています。記紀風土記の荒唐無稽な物語は、風土記編纂などの目的で収集した縄文語地名をルール無用で結びつけ、仮借の漢字表記をこじつけ解釈して創作したものです。
◎縄文語:「鬼の窟(古墳) 」=「オンネ・イワ・アゥ」=「大きな・山の・枝分かれ」※隣の方の大きな古墳。
「鬼の窟古墳」の伝承。
■「鬼の窟」について(西都市環境協会HPより)
【西都原あたりにいた鬼が、コノハナサクヤヒメを見初め父神のオオヤマツミノカミに「嫁にください」と申し出ました。オオヤマツミノカミは困り「明朝、夜明けまでに大きな石の岩屋を造れ、それが出来たら娘をやろう」という条件で岩屋を造らせることにしました。鬼は喜び岩屋造りにとりかかり夜明け前に岩屋は完成し、安心した鬼は眠ってしまいました。
一方、出来る筈は無いと思っていたものの心配になったオオヤマツミノカミが様子を見に行くと驚いたことに岩屋は完成していました。
オオヤマツミノカミは、疲れて眠り込んでいる鬼に気づかれないように岩屋の天井石を1枚抜き取り投げました。そして、オオヤマツミノカミは岩屋が完成していないことを理由に鬼の申し出を断わりました。
コノハナサクヤヒメは鬼のお嫁さんにならなくて良かったけれど、可哀想なのは鬼、それからこの岩屋は 「鬼の窟」と呼ばれるようになりました。】
■西都原古墳群
「姫塚」の「姫」もおそらくは額面通りの「お姫様」ではありません。
◎縄文語:「姫塚」(六世紀初頭)
=「シ・メム・テュク」=「大きな・泉の・小山」=大きな周濠の古墳
or「シムプィ・テュク」=「湧水の・小山」= 周濠の古墳
「姫塚」は周濠を持つ古墳です。
「姫=湧水」は「ヒメコソ社」の解釈と同じです。姫島の「比売語曽社」は拍子水温泉に隣接、大阪の「比売許曽神社」は上町台地の湧水のほとりにあります。
◎縄文語:「ヒメコソ」=「シムプィ・コッ」=「湧水の・窪地」
大阪の「比売許曽神社」に祀られる「下照比売」は天日槍や都怒我阿羅斯等がわざわざ朝鮮半島から追いかけてきたという「アカルヒメ」と同一視されることがありますが、いずれも”上町台地の湧水”を表現した縄文語地名の仮借の漢字表記なので、そもそもそんな姫は存在しません。
◎縄文語:「下照比売」=「シテュ・タ・ルム・シムプィ」=「大きな峰・にある・岬の・湧水」
or「シテュ・ウテュル・シムプィ」=「大きな峰の・間の・湧水」※上町台地の湧水。
◎縄文語:「アカルヒメ」=「アカ・ルム・シムプィ」=「魚の背のような(なだらかな尾根の)・岬の・湧水」※上町台地の湧水。
この神社が縄文語解釈の「湧水の自然崇拝」を語ることは絶対にありません。その代わり「朝鮮半島から逃げてきたアカルヒメを追いかけて~」ですから、ヒメコソ社がどんな姫を祀ろうが五十歩百歩です。
もちろん「ヒメ」を祀る神社を西から東に結びつけて天日槍の足跡だとする説もまったくもって筋違いです。
また、上町台地の突端に築かれた「四天王寺」もヒメコソ社の「下照比売」の類似表現です。
◎縄文語:「四天王(寺)」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
日本黎明期の名だたる神社仏閣の名称もすべて縄文語地名の仮借漢字表記です。
神社というものは六~七世紀に大和王権を簒奪した北方系渡来人周辺の出自を正当化、装飾する役割を担って設けられたものです。語られる由緒は記紀風土記の内容と密接に連携しています。
話を宮崎に戻します。
「飯盛塚」 の解釈は考えるまでもありません。日本全国に「飯盛」の地名は点在しています。それだけありきたりな地勢だということです。
◎縄文語:「飯盛塚」=「エ・エン・モ・ルム・テュク」=「頭が・尖っている・小さな・岬の・小山」
西都原台地の最北端にある「船塚」の「船」も全国の地名に頻繁に登場します。主な解釈は「船=ペナ=川上」で、「船塚」の地勢とも完全に一致しています。
◎縄文語:「船塚(西都原265号墳)」=「ペナ・テュク」=「川上の・小山」
大久保塚も発音が縄文語と完全一致していて解釈確度が高いと思われます。
◎縄文語:「大久保塚」=「オク・ポ・テュク」=「窪みの・小さいものの・小山」※前方部と後円部の間が小さな窪みの古墳。
次に新田原古墳群。
西都原の対比として新田原古墳群を「東都原」と名付けることは筋違いです。 西都原は当該地の”台地”を表現したものです。
◎縄文語:「西都原」=「サン・テュ・パル」=「前にある(or平山の)・峰の・入口」
ちなみに「新田(にゅうた)」は、
◎縄文語:「新田」=「ニー・タ」=「森・の方」
です。
この新田原古墳群(の祇園原古墳群)にある「弥吾郎塚」は面白い解釈が可能です。
◎縄文語:「弥吾郎塚」=「ヤウンクル・テュク」=「本国人の・小山」
「本国人」は言うまでもなく「渡来人」の対比表現です。
弥吾郎塚についてはすでに第七十七回コラムで取り上げていますが、再掲します。
▼〈以下第七十七回コラム再掲〉
墳丘長95m、楯形の周堀、周堤を持つ前方後円墳。祇園原古墳群中2番目の規模。この古墳からの出土物はありませんが、陪冢と見られる近隣古墳から6世紀中頃~後半の須恵器が出土しています。
この古墳の縄文語解釈に登場する「弥吾郎=ヤウンクル=本国人」は非常に重要です。発音がピタリと一致しています。
弥五郎は宮崎、鹿児島に伝わる巨人伝説ですが、隼人の反乱(720年)を率いた人物だったという説もあります。
◆隼人の反乱=「縄文語の隼人」vs「上代日本語の律令政府」
だったのではないかということです。
さらに、「本国人」という表現をよくよく考えると、対比となる「渡来人」の割合が小さい場合、このような表現を用いる必要性は低く感じられます。例えば、仮に「本国人:渡来人=8:2」であった場合、本国人がマジョリティである以上、わざわざ「本国人の」というような形容はいりません。反対に、逆の割合の場合は必要となります。
ということは、この時代、この周辺では、古墳を築くような上層部の人々には、すでにかなりの割合で渡来人が含まれていた可能性が高いということになります。
また、この「ヤウンクル」に関連して、出雲の形容である「八雲立つ」についても同様のことが言えます。
●八雲立つ=「ヤウンクル・モィ・テューテュク」=「本国人の・入り江の・出崎」
出雲国風土記には八束水臣津野命が「八雲立つ」と言ったのが出雲国の命名由来だとありますが、そんな訳ありません。漢字表記にこじつけて物語に雲を登場させただけです。「出雲」の縄文語解釈は「八雲立つ」と一致します。
●出雲=「エテュ・モィ」=「岬の・入り江」
●投馬=「テュー・モィ」=「岬の・入り江」
つまり、出雲は縄文語を使う本国人の国で、6世紀肥後の宇土地方と手を結んでヤマト王権と対峙していた可能性が高いということですから、この勢力に隣国日向も加わる可能性が出てきたということです。
以上 再掲終わり
○ 「六世紀の出雲と熊本」について(『しまねの遺跡 発掘調査パンフレット』島根県教育庁埋蔵文化財調査センター)
【6世紀の出雲では、各地に分散していた大型古墳が突然意宇平野周辺に集中して築かれるようになります。これは、各地域の首長が何らかを目的に一地域に集まったことを示しています。
ちょうどその頃、九州では筑紫君磐井の乱(527年)がヤマト王権に鎮圧されましたが、その後勢力を伸張させた熊本県宇土地方からは、石棺式石室が出雲に取り入れられました。
このことは、ヤマト王権からの圧力に、熊本地方と出雲地方が連携して対応したことを示していると考えられています。】
この九州南部と出雲が手を組んで北方系が強くなったヤマトに対抗したという説に関して、筆者には気にかかることがあります。それは、記紀に登場する「国栖(くず)」と「土蜘蛛」です。いずれも先住民に対する蔑称です。
◎縄文語:「国栖」=「クーソル」=「対岸」=九州
◎縄文語:「土蜘蛛」=「テューテュク・モィ」=「出崎の・入り江」=出雲
もともと九州と出雲を指した固有名詞が、先住民を指す一般名詞に変化したのではないかということです。根拠が希薄なので、想像の域を出るものではありませんが、北方系渡来人が縄文語の仮借の漢字表記にこじつけて多くの物語を創作したことを鑑みれば、あながち荒唐無稽な説とも言い切れません。先住民を指した国栖は日本語のクズ(ゴミの意)の語源かもしれません。
このように、九州南部地域に先住民の大勢力が存在していたとすると、九州北部に点在する神籠石と呼ばれる朝鮮式山城が、通説が言うように、白村江で戦った唐、新羅連合軍の来襲に備えたものであったかどうかも疑わしくなります。上代日本語のヤマトが恐れたのは、その実、縄文語の先住民の反乱だったのではないでしょうか。国府を守るように築かれた吉備の鬼ノ城や讃岐の城山城もしかり。必然的に磐井の乱や継体の不審死についても、再検証が必要となります。
「大規模古墳名」と「記紀」「風土記」「万葉集」を見比べれば、日本の言語が「縄文語」から「上代日本語」に切り替わっていることは明らかですが、その境界線が古文献で語られることは一切ありません。それだけ強い意志をもって隠されているということです。
「百足塚」「千畑古墳」については、あまり解釈に自信はありませんが、参考までにご紹介します。
◎縄文語:「百足塚」=「メム・カ・タ・テュク」=「泉の・ほとり・にある・小山」※周溝のある古墳
◎縄文語:「千畑(古墳)」=「チュプパ・チャ・ケ」=「日の上(東)の・岸の・ところ」
第四百八十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【大分】ムレ(猪群山・小牟礼山・小門山・イムレ山・大村山・角埋山・花牟礼山・熊群山・熊野・小牟礼・騎群山・栂牟礼山)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「ムレを冠する地名」について(『東アジアの中の日本』司馬遼太郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【ムレというのは朝鮮語かということで言いますと、松本清張さんはムレについてはふれていらっしゃいませんが、ラリルレロで終わるのはたいてい朝鮮語だとお書きになっている。あるいはそうかもしれないが、そうでないかもしれない。しかし、匂いとしては私も朝鮮くさいと思いますが、これは妄想です。ただ、ムレは朝鮮語だと思います。】
×「ムレ、マル、フレを冠する地名」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【それから、集落名にも「丸」のつく山名については、「日本山書の会」の谷有二氏が、韓国まで行って各地のそれを調べた「朝鮮語で解く日本山岳名称の謎」という長い一文を、一九八〇年五月号の雑誌『山と渓谷』に書いている。
いまそれまでみる余裕はないが、ムレのことは、明治期のはじめに書かれた言語学者・金沢庄三郎氏の「郡村の語源に就きて」によると、「村の語源はフレにして、三韓の古語に於てはこれをPurと称す」としてこうある。「太古の民族は森林を開拓し、四方を望見し得べき原野を開きて、部落の居住と定めしにより、これをフレと名づけたるならん。このフレを転じてムラとなり、村落は衆人のあつまるところなれば、更にこれよりムレ(群)、ムラ等の語を出せしなり」
Purとは「火」「明るい」という意でもあるが、ムラの語源であるムレが山野をさすそれともなっているのは、「太古の民族は森林を開拓し、四方を望見し得べき原野を開きて」とも関係があったからではないかと思われる。〈中略〉
「九十九触(ふれ)の壱岐」の触・フレも、それからきたものだったのである。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
「ムレ」を朝鮮語起源とするのは、日本語とするよりも信憑性があります。なぜなら、かつて朝鮮半島南部は縄文語(アイヌ語)圏だったからです。日本全域も同様に縄文語圏でしたが、すっかり北方系の日本語となってしまいました。縄文語地名は日本語(漢字)表記の下に眠っています。
「ムレ」は少し突っ込んで検証しますので、まずは簡単な「マル」「フレ」から。
◎縄文語:「丸」=「マ・オロ」=「谷水・のところ」
地名の「丸」の多くは「水辺」の意です。日本各地にある丸山古墳も「水辺の古墳」あるいは「周濠」を持つ古墳の意になります。前方後円墳にも「丸山」があるのはそういう理由です。
「フレ」は四百三十九回コラムのクシフル岳ですでに取り上げています。以下、再掲。
百済の「所夫里(ソフリ)」、新羅の「蘇伐(ソブル)」、そして福岡の「脊振山」は
◎縄文語:「所夫里/蘇伐/脊振」 =「シアン ・フル」=「本当の、大きな・丘」
と解釈が可能です。
アイヌ語では有声音と無声音の区別がありません。また、「フル=ウル=丘」で、同じ単語の発音違いですから、「ソブル」「ソウル」の二つの言葉が存在することも簡単に説明がつきます。『日本の中の朝鮮文化』には「王城を意味する韓語」とありますが、正確な表現ではありません。「丘」や「山」が「王城」の地勢を表したか、あるいは比喩として使われたというのなら理解できます。
再掲ここまで。
また、壱岐の「触」についても、第四百六十三回コラムですでに取り上げています。
◎縄文語:「触」=「フル(=ウル)」=「丘」
単に「壱岐は丘が多い地勢」だと言っているだけです。
■壱岐の景色( 壱岐市芦辺町深江南触) ※丘の多い地勢。
そしてラスボスの「ムレ」ですが、これも地勢と比較すれば一目瞭然です。 『日本の中の朝鮮文化』で大分県の「ムレを冠する地名」が一覧で紹介されていたので、所在地が確認できたものを検証します。
「ムレ」は一部の例外を除き、「ムィ・ネ=頂(or入り江)・である、のような、の」が「ムィレ」に転訛したものです。以下の縄文語解釈をご覧ください。ほぼすべて「山の頂の形状」を指していることが分かります。
◎縄文語:「猪群山」=「イナゥ・ムィレ(=ムィ・ネ)・サン」=「幣の・頂である・出崎、平山」※山頂に祭場がある出崎、平山。
猪群山の山頂付近のストーンサークルは古くから有名です。(→wikipedia/猪群山)
■猪群山山頂付近のストーンサークル ※頂の祭場。
■猪群山遠景 ※山頂に祭場がある出崎、平山。
山頂付近に「正一位稲荷大明神」がありますが、「稲荷」もほぼ同義です。
◎縄文語:「稲荷」=「イナゥ・リク」=「幣の・高台」※山頂の祭場。
京都の伏見稲荷も山頂の祭場を指しています。「稲荷神≠穀物神」です。風土記にあるような「稲成り」のような意味ではありません。風土記の漢字表記にこじつけた地名由来はことごとくデタラメです。
◎縄文語:「狐」=「クテュニン」=「岩の段々のついた崖」
稲荷神の眷属の「狐」にせっせとお揚げをお供えしても、もともと岩崖のことですから絶対に食べません。
◎縄文語:「小牟礼山(こむれやま)」=「コム・ムィレ(=ムィ・ネ)・ヤマ」=「湾曲している・頂の・山」※山頂が丸い山。
これは見たままです。
■小牟礼山 ※山頂が丸い山。
◎縄文語:「小門山(おどむれやま)」=「オッ・ムィレ(=ムィ・ネ)・ヤマ」=「群在する・頂の・山」
■小門山 ※群在する頂の山。
◎縄文語:「イムレ山」=「エ・エン・ムィレ(=ムィネ)・ヤマ」=「頭が・尖っている・頂の・山」
■イムレ山 ※頭が尖っている山。
◎縄文語:「大村山」=「オオ・ムィレ(=ムィネ)・ヤマ」」=「大きな・頂の・山」
■大村山 ※大きな頂の山。
◎縄文語:「角埋山」=「チニ・ムィレ(=ムィネ)・ヤマ」=「崖の・頂の・山」
■角埋山 ※崖の頂の山。
◎縄文語:「花牟礼山」=「パナ・ムィレ(=ムィネ)・ヤマ」=「川下の・頂の・山」
他の山並みに比して川下にある山の意。 「パナ=川下」は地名に頻繁に登場します。
■花牟礼山 ※川下の頂の山。
◎縄文語:「熊群山」=「クマ・ムィレ(=ムィネ)・ヤマ」=「横に平べったい・頂の・山」
「クマ=横に平べったい山」は熊野本宮大社、熊野大社を代表に全国に登場します。もちろん朝鮮半島の「高麗」「高句麗」や「檀君神話」とは一切関係ありません。
◎縄文語:「熊野」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」
■熊群山 ※平べったい頂の山。
■出雲國一之宮 熊野大社後背の山 ※「クマ・ノッ=横に平べったい・岬」
■和歌山熊野本宮大社周辺。 ※熊野本宮大社から見て熊野川対岸。 横に平べったい岬 。
◎縄文語:「小牟礼」=「コム・ムィレ(=ムィ・ネ)・ヤマ」=「湾曲している・頂の・山」※頂が丸い山。
■小牟礼城趾 ※丸山。
◎縄文語:「騎群(山)」=「キム・ネ」=「山・である、の」
■騎牟礼城址 ※山。
◎縄文語:「栂牟礼山」=「トク・ムィレ(=ムィ・ネ)・サン」=「突起した・頂の・平山」
■栂牟礼山 ※突起した頂の平山。
第四百八十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【福岡/鹿児島】鹿児島神宮(大隅正八幡宮)・宇佐八幡・香春神社(辛国息長大姫大目神社)・韓国宇豆峯神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「鹿児島神宮(大隅正八幡宮)・宇佐八幡・香春神社(辛国息長大姫大目神社)・韓国宇豆峯神社」について(『日本の神々─九州編/鹿児島神宮(中村明蔵)』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【大隅の国府周辺に(隼人教導のために)配置される豊前などの移住民が、蛮夷とされる隼人の地に住むとき、彼らの侵攻する神として八幡神などを大隅の地に奉持したことが、大隅と八幡神が結びつく機縁になったものとみられる。八幡神だけが単独に奉持されたのではなく、おそらくは国分平野の東には韓国神も遷祀されたのであろうが、両神の関係についてはさらに後述しなければならない。〈中略〉
豊前地方には八幡神信仰の背景に朝鮮系の渡来人の文化があり、八幡神信仰もその文化と深くかかわって発展してきたことを考慮する必要がある。・・・・・・そのような文化のなかで注目されるものに、豊前国田川郡の香春岳の神がある。
『豊前国風土記』によると、「田川郡香春郷」にむかし新羅神が渡来していたといい、現在は岳の麓に香春神社がある。この神社は、『延喜式』の神名帳によると、ともは式内社の辛国息長大姫大目神社である。そしてこの神社の信仰の背景には渡来人による銅の採掘が深くかかわっていた。先掲の風土記にも第二の峯に銅があることが指摘されているが、いまも「採銅所」という地名が残る。
ところが、じつは宇佐八幡宮と香春岳は神事によって結びついている。中野幡能氏の研究から、その神事放生会をごく簡単に紹介すると、つぎのようである。
放生会の起源は、養老年間の隼人征討によって殺された隼人の霊を慰めるものという。それは別にしても、魚鳥類を放つことが本来の目的であったはずであるが、ここでは行事の進行がしばしば隼人と関連づけられている。
祭の最初は、豊前の国史が勅使となり、香春岳から銅をとり、岳の麓の採銅所の鎮守、古宮八幡宮の宮柱長光家の行う鏡の鋳造に参加する。鋳造された鏡は神輿に奉じて宇佐の隼人塚(隼人の首を祀ってあるという)の前に来る。そこで宇佐八幡の大宮司以下に迎えられ、各地での行事を経ながら、最後に大宮司は鏡を奉じて本宮に帰り、神体として納めるというものである。〈中略〉
この両者(香春岳の辛国息長大姫大目神社と宇佐八幡宮)の関係は、そのまま大隅国府の地にもちこまれたのではないだろうか。用字は異なるが、「韓国」を関する韓国宇豆峯神社が国府の東に存在する。そして西には正八幡が存在する。この両者は一体として、移住民の守護神として配祀されたにちがいないのである。
ついでにつけ加えるならば、韓国宇豆峯神社の南西には「銅田」の地名もいまに残る。しかし、そこでかつて銅の採取が行われたかどうかはいまだ確認されていない。】
韓国宇豆峯神社付近の「銅田」から銅が産出されることなどあるはずがありません。なぜなら、縄文語地名の仮借漢字表記だからです。その表記から関連を読み取る作業自体が筋違いです。
◎縄文語:「銅田」=「トー・タ」=「海(or湖沼)・の方」
■銅田(霧島市)※海の方。
同様に、田川郡香春の「採銅所」という地名についても胡散臭さを感じたので調べてみたところ、上代「香春岳で銅が採れた」と言っているのは、どうやら『豊前国風土記』だけで、物的証拠も存在しないようです。
これまで数多の例をあげさせていただいたとおり、各国『風土記』の地名由来はほぼすべて縄文語の仮借漢字表記にこじつけたデタラメ物語で埋め尽くされています。
香春岳に登場する神宮皇后の鏡の物語もしかりです。この物語に登場する「鏡」は、香春岳の二ノ岳、三ノ岳の山容を表現したものです。
◎縄文語:「鏡山」 =「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」
■鏡山(豊前国)(香春岳/福岡県田川郡香春町)※弓の形の山。三ノ岳別名、天香山。
<豊前国風土記逸文>(『万葉集註釈』)「豊前国風土記にいう。田河郡。鏡山。郡の東にある。昔、気長足姫尊(神功皇后)が この山にいて、遥かに国の形を見て、勅してうけいを行った。『天神(あまつかみ)も地祇(くにつかみ)も我がために福(さきわ)へ給え』と仰った。すると、御鏡を持って、ここに安置なさった。その鏡は、石となって今も山の中にある。よって名づけて鏡山という。」
日本全国「鏡」の多くは、「香久山(カッ・ク・ヤマ)」とともに「形が弓の山」の意です。 香春岳の三ノ岳の別名が「天香山」なのはそういう理由です。
【参考】他地域の「カッ・ク=形が・弓」の山
※以下過去のコラムより再掲。
・各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・鏡渡(鏡山)(肥前国)(佐賀県唐津市鏡山)※弓の形の山。 ⇒google ストリートビュー
・鏡山(広島県東広島市)※鏡山には大内氏の鏡山城跡があります。 ⇒google ストリートビュー
・加賀美(旧加々美荘/山梨県) ⇒google ストリートビュー
・鶴来ヶ丘(常陸国)(茨城県鹿嶋市緑ヶ丘)=「カッ・ク・ラィイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
・鏡坂(豊後国)(大分県日田市上野)※弓の形の山。 ⇒google ストリートビュー
・鏡塚古墳(石清尾山古墳群)(香川県高松市/古墳時代前期/積石塚の双方中円墳) ※弓の形の山に築かれた古墳。⇒googleストリートビュー
・柄鏡塚古墳(福井県福井市)※弓の形の山に築かれた古墳。 ⇒googleストリートビュー
・カクメ石古墳=「カッ・ク・ムィ・シリ」=「形が・弓の・頂の・山」
(飯塚市/古墳時代中期~後期/円墳)⇒googleストリートビュー
「鏡」の例を鑑みれば、「採銅所」の「香春岳から銅が採れた」という地名由来も疑わざるを得ません。
◎縄文語:「採銅所」=「サン・テューテュク」=「平山の・出崎」
縄文語解釈は「採銅所」地区の地勢と完全に一致します。
■採銅所(田川郡)※平山の出崎。
また、 採銅所の「古宮八幡宮」も所在地の縄文語地名です。「宇佐八幡」とは関係ありません。
◎縄文語:「古宮八幡宮」=「フル・ムィェ/ペッチャム」=「丘の・頂/川端」
日本全国八幡様は「ペッチャム=川端」にあります。
◎縄文語:「宇佐八幡宮」=「ウシ・ヤ/ペッチャム」=「湾の・陸岸/川端」
余談ですが、宇佐八幡境内の「菱形池」は「宇佐」とほぼ同義です。
◎縄文語:「菱形(池)」=「ピシ・カ・タ」=「浜・のほとり・の方」
■古宮八幡宮 ※川端の丘の上。
つまり、この「古宮八幡宮」「香春神社」「宇佐八幡宮」を「銅」と「鏡」で結びつけた物語も、縄文語地名の仮借漢字表記にこじつけて創作した可能性が高いということになります。
香春神社の祭神である「辛国息長大姫大目」は一般的に神功皇后と同一人物とされますが、これも単に所在地の地勢を表現したものです。神功皇后が登場したのは、神社前を流れる金辺川の地勢を表現した縄文語と発音が似ていたからです。
以下、四百四十一回コラム再掲。
祭神の「辛国息長大姫大目命」は「神功皇后(気長足姫)」と同一人物とされていますが、単に地勢が一致しているので同じ縄文語で呼ばれていた可能性が高いと言えます。
◎縄文語:「息長」=「オク・ナィ・カ」=「窪んだ・川の・ほとり」
◎縄文語:「気長足(姫)」 =「オク・ナィ・カ・トラィ・ウシ」=「窪んだ・川・のほとりの・湿地の水たまり・のところ」
「窪んだ川」は日本のどこにでもあります。いちいち結びつけていたら、キリがありません。逆に言えば、どんな物語でも創作できてしまうということです。
当然、祭神名に含まれる「辛国」は「韓国」の意ではありません。「韓」は縄文語の「カル=まわる」に頻繁に充てられる漢字です。
◎縄文語:「辛国」=「カル・コッネイ」=「まわる、巻く・谷のところ」 ※曲がっている谷。金辺川。
彦山川の支流の金辺川は、本流の彦山川から逆方向に向きを変えて流れています。
奈良の「軽」も同義で、高取川の曲がった地点を表現しています。(孝元天皇「軽境原宮」趾 goorle map→)
■香春神社前を流れる金辺川 ※曲がっている谷。
再掲ここまで。
また、”新羅神が香春岳周辺に渡来した”とされたのは、単に「山裾」であったからだと考えられます。なぜなら、日本全国、「新羅神社」は「山裾」の地勢にあるからです。
◎縄文語:「新羅」=「シル・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
そして、この「新羅=山裾」の地勢を結んだのが新羅系渡来人で名高い天日槍の足跡となります。 同様にスサノオの故地も高確率で単なる日本国内の「山裾」です。
鹿児島県霧島市の「韓国宇豆峯神社」は「香春神社(辛国息長大姫大目神社)」とは解釈が異なります。「カル」の「まわる、巻く」は、「川」だけでなく「山」の曲がっている様(主に丸山)を表現することもあります。
◎縄文語:「韓国宇豆峯(神社)」=「カル・カッ・ネ・エテュ・ムィェ」=「曲がりの・形・である・岬の・頂」
と解釈すれば、韓国宇豆峯神社からの眺望であることが分かります。
■韓国宇豆峯神社前からの眺望 ※曲がった山。丸山。
「大隅正八幡」も「ペッチャム(八幡)=川端」の神社に過ぎません。
また、「八幡」の前に「正」が付加されるのは「山裾」の地勢を表現したものと捉えられます。
◎縄文語:「正八幡」=「シル・オ・ペッチャム」=「山(or大地)・裾の・川端」
八幡大菩薩を祀るのが「正八幡」だとするのが一般的ですが、縄文語地名を上書きして創作の神、渡来系の神仏を語るのが神社仏閣というものです。日本全国の「正八幡」の多くは「山裾」あるいは「大地の端(岸辺)」の「川端」にあります。
ちなみに「大隅」は、
◎縄文語:「大隅」=「オオ・スィ・ムィェ」=「大きな、深い・穴の・頂」
とすれば、桜島の形容となります。
■鹿児島神宮(大隅正八幡宮) ※山裾の川端の神社。
前回(第四百三十三回)も含めて総括します。
肥前国の人民に「秦氏」が多いのは、池沼の多い「京都郡(メム・ヤケ=泉の・岸辺)」などにあった「ハッタル=淵、水が深くよどんだところ」という縄文語地名に「秦」の漢字を充てて氏名としたからです。
「宇佐八幡」は「ウシ・ヤ/ペッチャム=湾の・陸岸/川端」の意で、これも所在地の地勢を表現したものです。八幡神が朝鮮系渡来人の神という訳ではありません。
そもそも八幡神が存在するとすれば、縄文語を使う南方系民族の自然崇拝なので「川端」の解釈が語られるはずですが、それは一切ありません。
記紀風土記や日本全国の神社に登場する八百万の神、上代日本語(日本語)で語られるその由緒は、ほぼすべて縄文語地名の仮借漢字表記にこじつけた創作物語です。上代日本語は百済王族、高句麗の言語と同じ開音節で終わる特徴を持ちますから、必然的に北方系渡来人の強い影響があったものと推察できます。
「香春岳」と「宇佐八幡」が「鏡」と「銅」で結び付けられているのは、香春岳周辺の縄文語地名に「鏡」「採銅所」「八幡」があったからで、それらを結んで物語が創作されたものと考えられます。
「鏡」は「カッ・ク・ムィェ=形が・弓の・頂」の意で、香春岳の二ノ岳、三ノ岳の山容を表わし、「採銅所」の「サン・テューテュク=平山の・出崎」も香春岳北方の地勢を表現したものと思われます。
さらに「古宮八幡=フル・ムィェ/ペッチャム=丘の・頂/川端」の地名で、「鏡」と「銅」と「八幡」が揃うことになり、それらを「宇佐八幡」と結べば、「香春岳で採掘された銅で鏡を鋳造し、宇佐八幡に納めた」という物語が完成することになります。
新羅神が登場したのも単に香春岳の「山裾=シル・オ・ケ」が新羅国にこじつけられただけです。
一方、鹿児島の「韓国宇豆峯神社」「鹿児島神宮(大隅正八幡宮)」も、所在地の縄文語地名の仮借漢字表記が由来です。
「韓国宇豆峯神社」は「カル・カッ・ネ・エテュ・ムィェ」で「曲がりの・形・である・岬の・頂」の意で、神社からの丸山を望む眺望、「鹿児島神宮(大隅正八幡宮)」は「正八幡=シル・オ・ペッチャム=山(or大地)・裾の・川端」で、そのまま所在地の地勢を表わしています。
よって、”隼人教導のために肥前国から大隅地方に移住した人民が八幡神と韓国神を持ち込んだ”という説は正しい表現ではありません。
実態は、”北方系渡来人勢力の支配が盤石になる頃合いで、大隅地方にもともとあった「ペッチャム」「カル・コッネイ」という縄文語地名に仮借の漢字表記「八幡」「韓国」を充て、他地域同様に神と神様物語を創作した”ということです。
第四百八十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【熊本】群山・熊襲~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「群山」について(『肥後の国に朝鮮文化を探る』清田之長 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【標高一四五個目、周囲三六〇度、視界を妨げるものは皆無。古代、菊池川流域を開拓した渡来人たちは、この独立山を自分たちの言葉で「牟礼」と云った。今日では群をあてている。牟礼とは朝鮮古語の「山」のこと。
今日ではムレ=群が山の意であることを忘れ、群山と称している。これでは「山山」である。】
△「鞠智城」について(『熊本県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【城北経由菊池行のバスで来民から一五分、龍徳で下車、歩いて二〇分の高台一帯が米原(よねばる)集落で、ここが大和朝廷の築いた鞠智城跡だ。六六三年、白村江の敗戦ののち、国防の急にせまられた大和朝廷は、太宰府のそなえとして大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県)、鞠智城の三城を築いた。直径三キロにわたる自然の地形を利用した朝鮮式山城。】
○「鞠智城築城の目的」について(『熊本日日新聞』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【調査に当たっている県教委の桑原憲彰参事は「城門が朝鮮海峡の方角ではなく、南に向いていることや、立地的条件から、従来からいわれている白村江での敗戦による、海外防衛の必要性からではなく、国内の『まつろわぬ人々』へのクサビとして築城したのではないか」と話している。】
「群」は朝鮮語で「山」の意とありますが、これは縄文語で「入り江」や「頂」の意です。
◎縄文語:「群山」=「ムィレ・ヤマ 」=「入り江である・山」
「群山」の湾曲した地勢と完全に一致します。縄文語の「入り江」は内陸の同様の地勢の表現にも使われます。
■群山 ※入り江の山。
上記、鞠智城築城の目的が「国内の『まつろわぬ人々』へのクサビ」とありますが、筆者も同様の見解です。この頃のヤマトは北方系渡来人に王権を簒奪された後なので、おおよそのところ”南方系先住民の地方”vs”北方系渡来人のヤマト”の対立構図となっています。日本書紀を見ると、九州南部は「熊襲」「隼人」と呼ばれて、ヤマトから目の敵にされていますが、ヤマトタケルの九州遠征も含め、これらの物語は記紀編纂時の勢力図を反映して創作された可能性があります。
上記三城、大野城、基肄城、鞠智城以外に、白村江の戦いの後に築かれたと考えられている神籠石(朝鮮式山城跡)の存在がありますが、これらの配置を見ると、九州南部に対する防衛ラインとする方がしっくりきます。
九州だけでなく、吉備の鬼ノ城、讃岐の城山城もしかり。太宰府後背の大野城も含め、これらは国府を守るように設けられています。
「熊襲」はその名から判断すると肥後国球磨郡周辺だと考えられます。
◎縄文語:「熊襲」=「クマ・シル 」=「横に平べったい・山」
「襲」は漢音で「シュウ」、呉音で「ジュウ」です。縄文語の「シル」は「シュ→ス」の発音に転訛する例が散見されます。「村主=シルクル=山」、「菅=シル・カ=山・のほとり」などです。
「熊」と言えば、熊野本宮大社を代表例にその多くが「横に平べったい山」の意です。 これは球磨川流域の人吉盆地(球磨盆地)の地勢を指したものと捉えられます。
■人吉盆地(球磨盆地) ※横に平べったい山。
■熊野本宮大社対岸の峰 ※「熊野=クマ・ノッ=横に平べったい岬」
■大野城、基肄城、鞠智城
■九州の神籠石の分布 ※九州南部の勢力を意識しているようにも見える。
以下、第四六十九回コラム『神籠石(朝鮮式山城)』について再掲。
関行丸古墳の北方の帯隈山には神籠石(朝鮮式山城)があります。 朝鮮式山城は白村江の戦いで敗れた日本が、唐新羅連合軍の襲来に備えて築いた城との説が一般的です。脊振山地南麓の佐賀県の川久保地域や、さらに西方の武雄市おつぼ山にもあります。どうせ築くなら、沿岸地域や大和へのルート上が優先されるべきだと思うのですが。
筆者は、この朝鮮式山城(百済系)が南方系の日本先住民をも意識したものであった可能性があると考えています。
私見では、大和王権が北方系渡来人勢力に簒奪されたのは六~七世紀のことですから、白村江の戦い(六六三)はまさにその頃のことで、後の壬申の乱を見ても、安定した日本支配はほど遠い状況でした。大規模古墳を築いた南方系先住民が盤踞している地方はなおさら不安定だったはずです。もし、同じ南方系の新羅が日本に攻めてきた場合、縄文語を共有する先住民が呼応しないとも限りません。
当時の国府は北方百済系ですから、これらの状況を考慮すれば、国府を守るように後背に百済系の朝鮮式山城が築かれることは極めて自然な成り行きだったのです。
九州の神籠石(朝鮮式山城)の分布を見ると、九州南部を意識しているようにも見えます。特に九州西部の肥後(熊本)対策と仮定すると、神籠石の分布はほぼパーフェクトです。六世紀、熊本宇土地方と出雲は手を結んで大和勢力に対抗したとの説があります。
○ 「六世紀の出雲と熊本」について(『しまねの遺跡 発掘調査パンフレット』島根県教育庁埋蔵文化財調査センター)
【6世紀の出雲では、各地に分散していた大型古墳が突然意宇平野周辺に集中して築かれるようになります。これは、各地域の首長が何らかを目的に一地域に集まったことを示しています。
ちょうどその頃、九州では筑紫君磐井の乱(527年)がヤマト王権に鎮圧されましたが、その後勢力を伸張させた熊本県宇土地方からは、石棺式石室が出雲に取り入れられました。
このことは、ヤマト王権からの圧力に、熊本地方と出雲地方が連携して対応したことを示していると考えられています。】
第四百八十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【鹿児島】韓国宇豆峯神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「韓国宇豆峯神社」について(鹿児島県神社庁HP)
【由緒
創建年代は不詳であるが、続日本紀に大隅国設定の翌年・和銅七年に豊前国から二百戸の民を隼人教導のため移住させたとあり、その移住者たちが国家鎮護として建立したものとも伝えられる。延喜式神名帳に「大隅国囎唹郡韓国宇豆峯神社小」と登載の古社である(大隅国式内社五社の一つ)。
宇佐記によれば、「欽明天皇三十二年(五七一)癸卯二月豊前国宇佐郡菱形池の上小椋山」に鎮祭、のち当地宇豆峯(現在、宇土門)の絶頂に奉遷鎮斎され、国司の進言により「謁祭に便ならざる」を以て麓の現在地小字内門(宇豆門の転化)に奉遷されたのは永正元年甲子十二月なりとの記録があり、韓国大明神、韓国様と称される。
五十猛命は父神須佐之男命と一緒に韓国と我国とを往来して両国の友好を計り、我国に八十の木種を播布され一時枯山になっていた山林を青山と成し、檜は瑞宮の材に、杉・楠は船舶の材に、まきは葬具にと夫々仕様の道を定め、人々の食する柑橘他の果実をも伝えた。また海外との連絡を重視し、為に航海の道を教えられたという。「韓国」とは御祭神のこのような御事蹟により、「宇豆峯」とは山林の美称として名付けられたという。 】
×「韓国宇豆峯神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(豊前国から隼人教導のため移住した民が祭った神社が)どうして「韓国」だったのであろうか。〈中略〉
新羅・加耶系渡来人集団である秦氏族の集住地であった豊前国・豊後国は二国に分かれるまでは豊国であったと同時に、それはまた韓国でもあったからだった。『日本書紀』用明二年条をみると、仏教を受容するかどうかということを議する場に豊国法師というのが登場するが、この豊国法師を韓国法師だったとしたのは、江戸時代の考証学者であった狩野掖斎であった。
その受仏か排仏かのことは『日本霊異記』にも出ていて、板橋倫行氏の校注をみると、〈中略〉豊国とは、「豊かに富んでいる国、すなわち朝鮮の国」とある。また、中田祝夫氏の全訳注『日本霊異記』にも、「豊国 韓国。韓国を宝の国、財宝の国などといったことによる」となっている。】
神社の由緒が漢字表記こじつけ説である限り、そこに真実はありません。神社名はほぼすべて所在地の縄文語地名の仮借の漢字表記です。韓国宇豆峯神社も例外ではありません。
「韓国」は神社名としてしばしば登場しますが、多くは「カル・コッネ・イ=曲がり・窪んでいる・もの」で「曲がった谷」を指します。
ただ「韓国宇豆峯神社」の場合は、後ろに「宇豆峯」がつくのと、祭神として五十猛を祀っているので、
◎縄文語:「韓国宇豆峯(神社)」=「カル・カッ・ネ・エテュ・ムィェ」=「曲がりの・形・である・岬の・頂」
とした方が辻褄が合います。「五十猛」も
◎縄文語:「五十猛」
=「エテュ・カル」=「岬の・曲がり」 ※丸山。
or「エテュ・キル」=「岬の・山」
と解釈すれば、「韓国宇豆峯神社」の言い換え表現となります。「韓国宇豆峯神社」前からの眺望とも完全に一致します。
「韓国」の名称が朝鮮半島とは無関係なのは言うまでもなく、「宇豆峯」も「山林の美称」ということもありません。関係があるとすれば、神社の創建と由緒創作に渡来人が関わっているということです。
余談ですが、所在地の住所である「霧島市」は、
◎縄文語:「霧島」 =「キル・サマ」=「山・のほとり」
の意でしょう。
■韓国宇豆峯神社前からの眺望 ※曲がった山。丸山。
この「韓国宇豆峯神社」と非常に似た解釈の神社に島根県の「韓国伊太氐神社」があります。こちらも「五十猛」を祭り、「韓国宇豆峯神社」同様に「曲がった山、丸山」の地勢にあります。
こちらも朝鮮半島と結びつけた説が蔓延っていますが、当然違います。
◎縄文語:「韓国伊太氐(神社)」=「カル・カッ・ネ・エテュ・タ」=「曲がりの・形・である・岬・の方」※丸山。
△「韓国伊太氐神社・五十猛」について(『日本地名学研究/素戔嗚尊と曾尸茂梨』中島利一郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【『延喜式』「神名帳」には、
△出雲国意宇郡
玉作湯神社 同社坐韓国伊太氐神社。揖夜神社 同社坐韓国伊太氐神社。佐久多神社 同社坐韓国伊太氐神社。
△出雲郡
阿須伎神社 同社坐韓国伊太氐神社。出雲神社 同社坐韓国伊太氐神社。曽枳能夜神社 同社坐韓国伊太氐神社。
とあるは、五十猛を祭神とするものであり、なお「神名帳」紀伊国名草郡伊多祁曾神社、伊達(いたて)神社も同じ性質のものである。】
「五十猛が木を植える」のは「紀伊国」との語呂合わせで、まったく史実ではありません。父親のスサノオも単に日本国内の「新羅=シル・オ・ケ=山・裾・のところ」が出身の可能性が高いので、朝鮮半島とは高確率で無関係です。
「山裾」の地勢は朝鮮半島だけでなく、残念ながら日本にも無数にあるのです。当時の為政者周辺に、朝鮮半島由来とした方が都合よしとする勢力が存在していたということです。(※スサノオについては第二十四回コラム参照)
以下、上記韓国伊太氐神社を含む神社周辺の地勢です。出雲神社は所在地の特定ができなかったので割愛します。
■玉作湯神社(島根県松江市玉湯町玉造)後背の山 ※丸山。
■揖夜神社(島根県松江市東出雲町揖屋)後背の山 ※二つ並んだ丸山。
■佐久多神社(島根県松江市宍道町上来待)の山 ※丸山。
■阿須伎神社前の山(島根県出雲市大社町遙堪)※丸山。
■曽枳能夜神社(島根県出雲市斐川町神氷)の山 ※手前の山。丸山。
■日御碕神社(島根県出雲市大社町日御碕)の山 ※丸山。
「豊国」は「豊かに富んでいる国」の意ではありません。日本全国、豊田市など企業名から名付けられたような例外を除き、「豊=ト・ヤ=海(or湖沼)・岸」です。「豊国」は単に「海辺の国」の意。「豊国≠豊かな国≠韓国」です。
「豊前国」に秦氏が多かったのも「ハッタル=淵、水が深くよどんだところ」が多かったからです。秦氏が活躍するのは日本全国の水辺です。
豊前には「京都郡(みやこぐん)」がありますが、これは
◎縄文語:「京都(郡)」=「メム・ヤ・ケ」=「泉の・岸・のところ」
の意で、池沼が豊富な地勢ですから、秦氏も思う存分活躍する訳です。ただし、それが所謂京都を拠点とした「秦氏」と血縁がある保証は一切ありません。
秦氏が得意な「機織り」の語源も「ハッタル」と思われますから、そのような物語も縄文語地名の仮借の漢字表記の語呂合わせから生まれたということになります。 当然、まったく信用できない話だということです。
第四百八十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【鹿児島】山宮神社・安楽神社・坊津・白木神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「安楽神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【谷川健一編『日本の神々』をくってみると、曽於郡志布志町安楽(あんらく)に「山宮神社・安楽(やすら)神社」の項があって、「山宮神社は大字安楽の宮内にあり、安楽神社は同じく安良にある」とある。この「安良」とは、古代南部朝鮮の加耶諸国のうちの安羅(あら)(安耶)が安良(あら)とも書かれたことからきたものにちがいなく、安楽(あんらく)(やすら)というのも、その安良が変じたものにちがいなかった。 】
×「坊津」について(『鹿児島県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【西海仏教文化の先進地、一乗院は、五八三(敏達天皇一二)年に百済僧日羅が坊津の丘の上・中・下の三坊舎を建立して龍巌寺と号したことにはじまり、坊津の地名もこれに由来するという】
×「白木神社」について(『鹿児島県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【白木神社は市(旧大口市)の中心部の西方にある。もとは長福寺という寺院だったが、明治初年の廃仏毀釈でこの寺院も破壊され、神社にすがたをかえて存命している。神社には、もと長福寺本尊とされた白木観音像という寄木造の素木(しらき)像があり、素木は新羅の白ツバキとも伝えられ、白木は素木にも新羅にも関連づけられる。】
例によって朝鮮半島南部の安羅とこじつけられている日本地名ですが、言うまでもなく地名由来に朝鮮半島はまったく関係ありません。あるとすれば縄文語地名に仮借の漢字を充てる作業で、多くの場合こじつけ由来までセットになっています。
◎縄文語:「安楽(あんらく)」=「アン・ラケ」=「一方の・低地」
◎縄文語:「安羅/安良(あら)」=「アン・ラ」=「一方の・低地」
◎縄文語:「安楽/安良(やすら)」=「ヤチ・ラ」=「泥の・低地」
◎縄文語:「山宮(神社)」=「ヤマ・ムィェ」=「山の・入り江」
「安楽(あんらく)」は典型的な縄文語(アイヌ語)で、発音もほぼそのままです。もちろん、地勢も完全に一致します。
■山宮神社、安楽神社(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

「坊津」も典型的な縄文語(アイヌ語)です。これも地勢、発音、いずれも完全に一致します。
◎縄文語:「坊津」=「ポン・ノッ」=「小さな・岬」
「龍巌寺」「一乗院」も縄文語解釈可能です。古代神社仏閣の多くは縄文語地名の仮借漢字表記です。
◎縄文語:「龍巌(寺)」=「レル・カ」=「山陰・のほとり」
◎縄文語:「一乗(院)」=「エテュ・シル」=「岬の・山」
■坊津、龍巌寺、一乗院(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

繰り返しになりますが「白木」の地名由来は「新羅国」ではありません。
◎縄文語:「白木(神社)」=「シル・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
■白木神社(伊佐市大口白木) ※山裾の神社。
第四百八十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【宮崎/鹿児島/和歌山/香川/対馬】串間・串木野・串本・大串半島(大串山)・船越~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「串を冠する地名」について(『地名の古代史/九州編』谷川健一 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【話はあちこちいくけど、串という地名が非常に多いんです、長崎県下には。それから鹿児島にも串間とか串木野だとか串というのが多い。これは愛媛県にもある。この串というのは、朝鮮語のコスなんですね。コスというのは、朝鮮語では岬とか海岸を言うんです。
ピョンヤンの西に長い岬が出ている。あれは長山串というはずです。コスというのが海岸を表す。この地名が長崎県にたくさんある。それから愛媛県にもたくさんある。紀州の串本なんかもそうかもしれない。香川県の高松の西のほうに大串半島がある。大串というのは大きな岬の意味ですね。そういうことで、これは間違いない。そのコスがどうなるかというと、〈朝鮮の〉『海東諸国記』を見ますと、対馬では船越という名前に変わっている。いわゆる船を担いで越えるという・・・・・・。】
上記説はすべて見当外れです。朝鮮半島は関係ありません。
黎明期の日本の歴史はバイアスがかかりすぎていて、真実に近づきたくないという強固な意思さえ感じられます。素人玄人問わず、そんなに朝鮮半島寄りに解釈したいのでしょうか。なぜ日本先住民に近しい存在であるはずのアイヌの言語から歴史を見ようとしないのか不思議で仕方がありません。記紀風土記からして朝鮮半島寄り解釈満載なので仕方ないのですが、それでは一向に真実に近づけません。
「クシ」は縄文語(アイヌ語)で「川向こう」あるいは「山向こう」の意です。
◎縄文語:「串間」=「クシ・ウン・マ」=「山向こう・にある・谷川」
■串間(宮崎県串間市) ※山向こうの谷川。
◎縄文語:「串木野」=「クシ・ウン・キヌプ」=「対岸or山向こう・にある・葦原」
■串木野(鹿児島県)※対岸or山向こうにある葦原。
◎縄文語:「串本」=「クシ・ウン・モ・オタ」=「山向こう・にある・小さな・砂浜」
■串本(和歌山県)※山向こうにある小さな砂浜。
香川県の大串半島の「大串」は「大串山」の地勢を表現したものです。
◎縄文語:「大串山」=「オク・ウシ・ヤマ」=「盆の窪のような窪みが・たくさんある・山」
見たままです。
■大串半島の大串山(香川県) ※盆の窪のような窪みがたくさんある山。
◎縄文語:「船越」=「ペナ・クッチャル」=「川上への・細い通路になっている入口」
「クッチャル」の原義は「クッ=喉」「チャル=口」で、「入口となっている細長い通路」を指します。 これも地勢そのままです。
■船越(対馬市)※川上への細い通路になっている入口。
第四百八十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【福島】勿来関・白河関~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「勿来の関」について(『福島県の歴史散歩』福島県高等学校社会教育課研究会編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【六四五年大化改新で陸奥国に編入されることによって、福島県の陸奥国の表玄関という役割は決定された。白河関と勿来関の配置がそれだ。この両関所は、蝦夷の地と国のうちとをさかいし、蝦夷人の直接侵入にたいし、勿レ来(来る勿れ)の関だったのだ。しかし奈良時代にはいると、蝦夷の地との直接の境界線が仙台以北にまで前進したことにより、両関所の役割はいずれもよわまり、平安時代の九世紀ころには有名無実のものになってしまったらしい。】
○「勿来の関」について(wikipedia)
【勿来関(なこそのせき)は、古代から歌枕となっている関所の1つ。江戸時代の終わり頃からは「奥州三関」の1つに数えられている。所在地が諸説ある上、その存在自体を疑う説もある。
「なこそ」の漢字表記では、万葉仮名あるいは平仮名の真名を用いて「名古曾」「名古曽」「奈古曽」と書かれる例と、訓であてて「名社」と書かれる例がある。また、漢文において「禁止」の意味で用いられる返読文字「勿」(~なかレ)を用いて「勿来」と書き、語釈から「なこそ」と読み下す例がある。関の名称であることから「来」に「越」の字を当てて「勿越」「莫越」と書く例も見られる(「莫」は「勿」と同様に禁止の意味の返読文字)。
「なこその関」は関とよぶも関所とはよばない。また、目下のところ、和歌など文学作品以外の古代の史料に「なこその関」を見出すことすらできていない。〈中略〉
今のところ、所在地は分かっていない。】
◎縄文語:「勿来」=「ナィコッ」=「涸れた沢」
「勿来」は決して「来る勿れ」の意ではありません。
似ている地名を探し当てて比定地としても無駄です。「なこその関」である「涸れた沢」はどこにでもあります。実態は地方の縄文語地名を収集した中央の人々が、それを自らの言語でこじつけ解釈して和歌を詠んだだけです。 関所の存在すら定かではないので、それも含めて創作物語だった可能性あります。
八百万の神と呼ばれるいかがわしい神様もこの方法で無数に生み出されていますが、そこに史実はありません。神の国?違います。ウソの国です。
蝦夷と呼ばれた東北の地名も漢字表記にこじつけて解釈するとは、なんとも情けない限りです。これが福島県高等学校社会教育課研究会編の本だというのですから、日本の教育機関もどうかしています。東北でさえこのあり様ですから、日本全国にデタラメ歴史が通説としてはびこるのも無理ありません。
■なこその関の比定地の一。菊多関。 ※涸れた沢。
「白河関」は、
◎縄文語:「白河」 =「シル・カ・ワ」=「山・のほとりの・岸(or方)」
です。これも地勢と完全一致です。
■白河関 ※山のほとりの岸。
第四百八十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【福島】三嶋神社 【全国】”島”のつく地名(大和島・敷島・軽島・秋津島)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「三嶋神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【原町市(現南相馬市原町区)ではタクシーで市内をまわってみることになったが、まずさいしょは、同市の本町にある三嶋神社だった。〈中略〉三嶋神社とはもちろん、伊予(愛媛県)大三島の三島明神・大山祇神社から出たそれであった。〈中略〉
伊予の大三島に三島明神・大山祇神社を祭った百済からの渡来人集団のそれは、三島という地名とともに全国各地にひろがり、あちこちにその分社ができた。】
×「三島木綿・韓神」について(『韓神について』是沢恭三 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【「三島木綿(みしまゆう)肩にとりかけ われ韓神の 韓招(からお)ぎせむや 韓招(からお)ぎせむや」(宮中韓神社の神楽歌)〈中略〉
韓神の神楽歌の意味については、既に「三島と朝鮮」と題して小論(『国史学』七三、昭和二十六年三月)を発表したことがある。その大意は三島木綿とは古く摂津に産した木綿であって、この三島は御島とも書かれて朝鮮を意味すると考えられ、「韓招ぎ」とあるは韓の技芸、即ち韓風の、或は韓から伝来した芸能と解すべきで、それを舞うについて特に三島木綿を使用し、肩にとりかけてその特技なることを歌っているものであり、即ち韓の神であることに深い意を表している。】
×「地名の島」について(『日韓古地名の研究』金沢庄三郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【島はもと郷里の意にして、大和島・敷島・軽島・秋津島・島皇祖母命など、いずれも都城の義に用いられ、本居宣長翁も「島とは、凡てもと「周廻に界隈のありて一区なる城をいう名にて、海中に限らざるなり(記伝四十四)といわれたり。】
上記でさまざまな説が説かれていますが、すべて見当違いです。「三島」「三嶋」については、第三百五十三回コラムで詳細に解説していますので、詳しくはそちらをご参照ください。
まずは、解釈の要点だけ。
◎縄文語:「(大)三島」 =「(オオ・)ムィ・スマ」=「(大きな・)頂の・岩」
◎縄文語:「大山祇」 =「オオ・ヤマ・テュ・ムィ(orモィ)」=「大きな・山の・峰の・入り江」
また、伊予国風土記逸文ではこの御島(大三島)の「大山積神」が、”百済から来た渡海の神「和多志大神」である”との内容ありますが、実際は神社を設け、デタラメ由緒を創作した人々が百済からきたのでしょう。百済は地名由来とは一切関係ありません。
◎縄文語:「和多志(大神)」 =「ワッタル・ウシ」=「淵、水が深くよどんでいるところ・のもの」
「水辺の神」ですから、八幡神と仲間です。「ヤン・ワッタル(=ハッタル)=陸岸の・淵」。八幡神は秦氏の神ともされますが、「秦=ハッタル=淵」が「水辺」で活躍するのは当然です。
「百済」に結びつけられたのも、大山祇神社のある宮浦の入口に「クッチャル」の縄文語地名があった可能性が高いと言えます。
宮浦の入口には「御串山」があります。
◎縄文語:「御串山」 =「ムィ・クッチャル・ヤマ」=「入り江の・入口の・山」
「百済」の解釈にある「クッチャル」は「クッ=喉」「チャル=口」が原義で、湖沼や湾の狭まった入口に付けられる地名です。
■大三島大山祇神社周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

「三島」の解釈にはほかにもいくつか選択肢があります。以下は、富士山の麓、湧水と溶岩で有名な三島市、三嶋大社の解釈です。
◎縄文語:「三嶋」
=「メム・サマ」=「泉の・ほとり」
or「メム・スマ」=「泉の・石、岩」
南相馬市の原町区には二つの三嶋神社がありますが、これらは静岡の三嶋大社と同語源と捉えられます。いずれも川沿いの窪地のほとりにあります。周辺地名とも辻褄が合います。
■原町三島神社(相馬市原町区本町)の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

■三嶋神社・瀧尾神社(相馬市原町区桜井町)の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)
◎縄文語:「桜井」=「サン・カ・ラィ・イ」=「出崎、平山・のほとりの・(淵が)死んでいる・ところ」
◎縄文語:「(東)畑/(原)畑」=「ハッタル」=「淵、水がふかくよどんでいるところ」
『日韓古地名の研究』に「島」が「郷里」や「都城」の意だとありますが、違います。朝鮮半島南部も縄文語(アイヌ語)圏ですから、「島」の解釈はおおよそ次の二つになります。
◎縄文語:「島」
=「スマ」=「岩」
or「サマ(※サムの三人称)」=「~の隣、ほとり」
『日韓古地名の研究』に例として挙げられている地名を検証します。
「豊秋津島」について。神武天皇は大和を眺めて「アキツ(トンボ)が交尾しているように山が連なっている」と言っています。
◎縄文語:「豊秋津島」=「トヤ・アカ・テュ・サマ」=「湖畔の・なだらかな尾根の・峰・のほとり」
言わずもがな、奈良盆地の地勢です。「アカ」の原義は「魚の背」で、決して「トンボ」の意ではありませんが、”山の形容”としては縄文語の意味が反映されているとも捉えられます。
「大和島」。これは淡路島の北東にあります。いわゆる海に浮かぶ”島”ではありません。
○ 「大和島」について(wikipedia)
【大和島は、淡路島の北東、絵島の南に位置し、砂岩と礫岩からなる陸続きの小島である。各所に小型の海食痕がみられるとともに、頂上には県の天然記念物に指定されている、明石海峡から吹く海風により特異な風衝形となった「大和島のイブキ群落」がある。〈中略〉名称に島とついているが、海に浮かんでいるのではなく、岩屋海水浴場北端と陸続きになっている。】
頂に植物の群落がある陸続きの岩山。
◎縄文語:「大和島」=「ヤン・ムンテュム・スマ」=「陸に付いている・草むらの・岩」
「大和島」の形容として、これ以上のものがあるでしょうか。
■大和島(淡路島)(wikipedia)※陸に付いている草むらの岩。
次は、わかりやすい奈良の「軽島」。
◎縄文語:「軽島」=「カル・サマ」=「曲がっているもの(川)・のほとり」
奈良の「軽=曲がっている様」は、”高取川の蛇行”を指しています。「軽島」はそのほとりということです。
■應神天皇 軽島豊明宮跡
■「軽」周辺 ※高取川が曲がっているところ。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)

そして「敷島」。 「敷島」の地名は全国にあります。
◎縄文語:「敷島」=「シコッ・サマ」=「大きな窪地、谷・のほとり」
以下、主な「敷島」の地勢です。 すべて、谷、窪地のほとりです。
■北海道根室市敷島町 ※谷のほとり。
■青森県五所川原市敷島町 ※谷のほとり。
■群馬県前橋市敷島町 ※谷のほとり。
■群馬県渋川市敷島 ※谷のほとり。
■山梨県甲斐市敷島 ※谷のほとり。
■岐阜県岐阜市敷島町 ※谷のほとり。
■愛知県名古屋市北区敷島町 ※窪地のほとり。
■奈良県奈良市敷島町 ※窪地のほとり。
第四百九十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【福島】蝦夷穴古墳 【石川県】須曽蝦夷穴古墳~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「蝦夷穴古墳(須賀川市)」について(『福島県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【須賀川市の東部、根岸でバスをおり、五〇メートルほどすすむと北へむかう道がある。三〇〇メートルばかり前方の果樹園内に蝦夷穴古墳がある。明治一八・二一年の二度にわたり発掘され、墳丘のすそがけずられてはいるが、径三七、高さ六・五メートルの円墳だ。横穴式石室で開口しているが、奥壁と天井石は巨大だ。副葬品は金銅製頭椎太刀・金銅製鈴など多種にわたるが、大部分は東京国立博物館に収蔵されている。六世紀前半のものという。】
×「蝦夷穴古墳(須賀川市)・須曽蝦夷穴古墳(石川県)」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【古墳はどういう形態のものであれ、そこからなにが出土しているか、ということが大切だとされるが、この蝦夷穴古墳のばあいは、金銅製頭椎太刀と鈴である。これはあちこちの古墳から出土している環頭大刀と同じように、古代朝鮮からの渡来であることがはっきりしているものなのである。
それなのに、その古墳の名が「蝦夷穴」とはどうしてなのだろうか。古墳のある地名も須賀川市和田蝦夷穴となっているが、これはおそらく、見なれない「横穴式石室」をみた住民がそう言いはじめたことからきたものだったにちがいない。なお、ついでにいうと、能登の能登島に高句麗系の須曽古墳があるが、これがまた別名を須曽蝦夷穴古墳ともいわれている。】
環頭大刀の起源は中国です。そして環頭大刀が「高麗剣(こまつるぎ)」と呼ばれるのは、
◎縄文語:「高麗」=「コム」=「湾曲したもの」
という縄文語に由来しています。柄の先端に丸い飾りが付いている様を表現したもので、決して朝鮮半島由来を指したものではありません。
地名の「高麗」の場合は、日本全国「湾曲した川」あるいは「湾曲した山」の地勢を指しています。まれに「湾曲した峰」のこともあります。地名の場合も同様に「高句麗、高麗」系渡来人の活躍を指しているものではありません。
日本黎明期の歴史には朝鮮半島系渡来人の活躍を語るデマが無数に鏤められています。日本人はいったい何をしているのでしょうか。詳しくは第三百五十一回コラムをご参照下さい。
■高麗山(神奈川県) ※持ち手の曲がりのような湾曲した山(丸山)。
■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※湾曲する川。
須賀川市の「蝦夷穴」ももちろん「蝦夷の人の墳墓」を指している訳ではありません。 ここは東北、福島です。漢字よりも先にアイヌ語の可能性を考えるのが妥当ではないでしょうか。なぜ漢字表記からの解釈が先行するのでしょう。
◎縄文語:「和田/蝦夷穴」=「ワッタル/エテュ・アゥ・ナ」=「淵、水が深くよどんでいるところ/岬の・枝分かれ・の方」
そして、石川県の須曽蝦夷穴古墳。
◎縄文語:「須曽/蝦夷穴」=「シル・チャ/エテュ・アゥ・ナ」=「山の・ほとり/岬の・枝分かれ・の方」
いずれも枝分かれた高台付近に築かれた古墳で、地勢が一致しています。つまり、単に縄文語の地名由来の名称だということです。仮借の漢字表記に意味などありません。
■和田蝦夷穴古墳(福島県須賀川市) ※枝分れた岬のほとりに築造。
■須曽蝦夷穴古墳(石川県七尾市) ※枝分れた岬に築造。
縄文語地名ということは南方系先住民が生活していたことは確実で、もし、北方(高句麗)系の人物が被葬者であれば、それは即ち侵略の名残ということになります。ただし、北方系の副葬品がすぐさま被葬者の出身地を指すことにはなりません。もっと根拠を積み重ねる必要があります。
和田蝦夷穴古墳は七世紀前半、須曽蝦夷穴古墳は七世紀中葉の築造です。ヤマトが、北方系渡来人に王権を簒奪されるのが六~七世紀で、地方に安定的に国衙が築かれるのが八世紀です。地方に影響が及ぶにしては少々早すぎる感じがします。
横穴式石室は中国起源で、日本には高句麗経由で伝播したと考えられていますが、全国の大規模古墳の名称は古墳時代を通じて縄文語(アイヌ語)解釈可能で、南方系民族の墳墓である可能性が高いことを示しています。南方系民族とは、日本全域の倭人、朝鮮半島の加羅諸国、新羅、そして百済庶民です。百済王族、高句麗は扶余系の北方系民族で、開音節で終わる言語の特徴を共有していて、それは上代日本語の特徴と一致します。一方南方系民族は、東夷南蛮、朝鮮半島南部、日本で閉音節で終わることの多い縄文語を共有しています。
古墳名には所在地の地名を由来とするものと、古墳の形状や地勢を由来とするもの(古墳の固有名詞)の二種があります。固有名詞の場合は、古墳の築造年代が所在地周辺での縄文語の使用時期を示す資料となります。
例えば、九州の横穴式石室で有名な古墳に「丸隈山古墳(五世紀前半、前方後円墳)」がありますが、これはこの古墳特有の固有名詞と考えられます。
◎縄文語:「丸隈山古墳」=「マ・オロ・クマ・ヤマ」=「谷水・のところの・横に平べったい・山」※水辺の平べったい山。
「丸」は多くの場合いわゆる「丸い」の意ではなく、「水辺」の意です。前方後円墳に「丸山」の名称があるのはそういう理由です。
ちなみに、所在地名は「周船寺」です。
◎縄文語:「周船寺」=「シルサム・チゥェ」=「山のほとりの・水流、水脈」
周辺地勢とも「丸隈山古墳」の解釈とも一致します。
■丸隈山古墳(周船寺) ※水辺の横に平べったい山。
銀象嵌銘をもつ大刀(鉄刀)が出土したことで有名な「江田船山古墳」も横穴式石室です。この古墳は副葬品が出土する前から「船山」と呼ばれていて、この古墳の固有名詞であったことを示しています。
◎縄文語:「船山」=「プッ・ナ・ヤマ」=「川口・の方の・山」
江田船山古墳の詳細については、第四百七十九回コラムをご参照ください。
■江田船山古墳周辺 ※菊池川と江田川の合流点。江田川の川口。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

大阪市堺市の「塔塚古墳」は横穴式石室を持つ五世紀中葉に築かれた方墳です。
◎縄文語:「塔塚(古墳)」=「トー・テュク」=「湖沼の・小山」
こちらも地勢と完全一致していて、固有名詞と捉えられますから、南方系民族の墳墓と考えるのが妥当です。このように横穴式石室が直ちに高句麗系の被葬者を指すことにはなりません。
■塔塚古墳(大阪市堺市)※湖沼のほとりの古墳。
【 第四百八十一回/ 第四百八十二回/ 第四百八十三回/ 第四百八十四回/ 第四百八十五回/ 第四百八十六回/ 第四百八十七回/ 第四百八十八回/ 第四百八十九回/ 第四百九十回/ 】
