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日出ずる国のエラーコラム


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日出ずる国のエラーコラム[総集編]
No.17 旧国名はデタラメ由来だらけ!常陸、総、伊豆、駿河、尾張、伊勢、伊賀、摂津、豊、筑紫、肥、日向、風土記は悪意に満ちた大ウソつきだ!
 風土記には、各地の地名由来譚が無数に記載されていますが、それらのほとんどが漢字表記にこじつけたデタラメです。後世の人々を騙そうとするその態度には悪意すら感じます。
 関東から九州までの古墳名を考慮すると、上代日本語で風土記が編纂される時代まで全国で縄文語が使用されていた可能性は非常に高く、それはすなわち、風土記を編纂した国衙周辺と先住民の言葉が異なる「言語の二重構造」だった可能性をも示しています。
 今回は、そんな風土記のデタラメぶりを「旧国名」から探ってみます。

◆◆◆「常陸国」命名由来 ◆◆◆

<常陸国風土記>
「そう名づけた由縁は、往き来の道路が大河や海の渡し場を隔てることなく、郡郷の境界線が山河の峰や谷に続いているので、真っ直ぐな陸路の意味を取って、国の名としたのである。
 また、ある人はこう言う。倭武(ヤマトタケル)天皇が、東の夷の国を巡視し、新治の県を通過した。国造である●那良珠(ひならす)命を遣わせて、新しく井を掘らせたところ、流れる泉が清らかに澄み、たいそう心惹かれた。その時に、乗り物を止めて、水を賞美して御手を洗った。御衣の袖が泉に垂れて濡れた。そこで袖をひたすという意味によって、この国の名としたのである。
 土地の言い習わしに、『筑波岳に黒雲がかかり、衣袖をひたす=ヒタチの国』というのは、このことをいうのである。」
※「●」=田へんに比

◎縄文語:「ピタ・チャ」=「小石河原(or砂原)の・岸」
or「ピタ・チャ」=「小石河原(or砂原)の・河口」


■那珂川河口

 風土記の内容はもちろんデタラメです。ヤマトタケルの時代周辺は、邪馬台国の台与の事績を隠蔽するために物語が創作された可能性が高く、多くは信用するに値しません。(※「日本書紀のエラーコラム[増補版]」第三十回コラム参照)

 「袖を浸したからヒタチ?」本当にバカ言うな!です。

 縄文語解釈の「小石河原(or砂原の)岸(or河口)」は、どこにでもありそうな地形となりますが、常陸国で言えば、那珂川下流域あたりが相応しく見えます。現在の河口は開発が進み、ほとんど当時の様子は見る影もありませんが、かつては、大きな砂州が北側に向かって伸び、広大な砂丘地があったようです。


■那珂川河口
◆◆◆「上総・下総国」命名由来 ◆◆◆

<上総・下総国風土記逸文>(『国花万葉記』)
「下総、上総の総とは、木の枝のことである。昔 この国には巨大な楠が生えていて、長さは数百丈に及んだ。時に天皇は不思議に思って占わせたところ、神祇官は「天下の大凶事です」と奏上した。これによりこの木を斬り捨てると、南方に倒れた。上の枝上総といい、下の枝下総という」

◎縄文語:「総」=「プッ・サ」=「川口の・浜」

 また、斎部広成の古語拾遺には、次のようにあります。

<古語拾遺> 「天冨命は、麻がよく育つ豊かな地を求め、天日鷲命の孫らを連れて、阿波から安房に移り住んだ。麻の別名は「総」であることから「総国」と名づけた。安房は阿波から名づけた」

◎縄文語:「阿波/安房」=「アゥ・ワ」=「枝分かれた(隣の)・岸」=(海を挟んだ)対岸

 安房と阿波が同じ発音なのは、単に同じ地勢、「海を挟んだ対岸」だからです。

 総国と麻はまったく関係ありません。
 また、神武東征神話が欠史八代の事績を基に創作された物語だということは何度も書いていますが、天冨命はその神話の中に登場する人物です。古語拾遺の漢字表記にこじつけた物語もデタラメの可能性が高いと言えます。


■房総半島
◆◆◆「伊豆国」命名由来 ◆◆◆

<伊豆国風土記逸文>(『鎌倉実記』)
「北畠親房の著述にいう。伊豆別王子(いずわけのみこ)は景行天皇の二十四子、武押分(たけおしわけ)命である。
伊豆風土記にいう。駿河国の伊豆の崎を分け、伊豆国と名づけた。日金岳(ひがねのたけ)には瓊々杵尊の荒神魂(あらみたま)を祀る。
 奥野の神猟(おきののみかり)は、毎年国ごとの役(えだち)である。八牧の幣坐(みてぐら)を構える。狩具(かり)の行い、装いを納めた次第は別図にある。
 推古天皇の世、伊豆と甲斐の間に聖徳太子の領地が多かったので、太子の領地は猟鞍(かりくら)をやめた。
 八牧のところどころに、昔は猟鞍の司が山神を祀っていた。幣坐は神坐と名づけた。その旧法は絶えて久しい。夏野の猟鞍は、伊藤、奥野で、年ごとに獲物を追い詰める者と射手を選んで行う。云々」

◎縄文語:「エテュ」=「岬」=伊豆半島

 縄文語解釈は説明の必要もありません。伊都国と同語源で「エテュ=岬」の意。伊豆半島のことです。

◆◆◆「駿河国」命名由来 ◆◆◆

<駿河国風土記逸文>(『枕詞燭灯抄』)
「風土記にいう。国に富士川あり、その水は極めて猛々しく速い。よって駿河国と名づけたという。しかれば、その川が早く波打ちする駿河という意味だろうか」

◎縄文語:「シロケ」=「山のふもと」=富士山のふもと

 言うまでもなく、富士山のふもとという意味です。川が早く波打ちするからではありません。

◆◆◆「尾張国」命名由来 ◆◆◆

<尾張国風土記逸文>(『倭漢三才図会』)
「風土記にいう。日本武尊が東夷を征伐して この国に帰り到った。身に帯びた剣を熱田宮に納めた。その剣は、元は八岐巨蛇(ヤマタノヲロチ)の尾から出たものである。よって、尾張国という」

◎縄文語:「オ・ウォロ・イ」=「川口を・水につけている・ところ」=川口の湿地のところ

 比定地は愛知県西部です。木曾川、長良川、庄内川などが伊勢湾に流れ込んでいます。風土記が編纂された奈良時代初期においては、稲沢市あたりまで伊勢湾が入り込んでいたようです。縄文語解釈そのままの地勢です。


■熱田神宮周辺

 また、ヤマタノオロチの尾から出てきた剣とは、「天叢雲剣」、別名「草薙剣」です。ヤマタノオロチとは「ヤマトから派遣されていた役職者」だと「日本書紀のエラーコラム」で書きましたが、その人物を倒すと、尾張氏神祖のニギハヤヒ(=天火明)の孫、「天村雲」と同名の剣が出てくる訳です。当時はニギハヤヒがヤマトを支配していた頃です。

 日本武尊が焼津で草を払ったことで有名な「草薙剣」も縄文語解釈すると次のようになります。

◎縄文語:「草薙剣」=「ケシ・ナゥケ」=「ぴかぴか光る・木カギ」=鉄や銅の剣、矛、戈

 また、日本書紀によれば、日本武尊と賊の戦いで焼けたことが焼津の命名由来となっていますが、縄文語解釈では単に焼津の海岸の地勢となります。

◎縄文語:「焼津」=「イェー・チャ」=「岩、石の・岸」=大崩海岸

 この草薙剣に代表されるように、日本武尊の東国遠征の物語のすべては、漢字表記にこじつけて創作された空想物語です。ただし、4世紀以降、関東にはヤマト型の前方後円墳が続々と登場するので、物語の素材になるような出来事があった可能性があります。


■大崩海岸

  草薙剣に関連して、 草薙剣を祀る熱田神宮の縄文語解釈もご紹介します。

<尾張国風土記逸文(『釈日本紀』)
「尾張国風土記にいう。熱田社(あつたのやしろ)は、昔、日本武命が東国を巡歴して帰った時、尾張連の遠祖の宮酢媛命を娶り、その家に泊まった。夜に厠に向かい、身に付けていた剣を桑の木に掛け、それを忘れて殿に入った。驚いて取りに行ったが、剣は光を放ち神のようだったので、手に取ることができなかった。そして、宮酢媛命に言った。『この剣は神の気がある。齋き奉って私の形影(みかげ=魂の片割れ)とすべし』と。よって社を建てた。郷の名により、熱田社と名づけた」

◎縄文語:「熱田(神宮)」 =「アッ・テュ・タ」=「一方の・岬・の方」
◎縄文語:「草薙(剣)」=「ク・ノッケ」=「対岸の・岬」

 「草薙剣」は「熱田神宮」と同義の解釈も可能で、縄文語によくみられる同じ地勢の言い換え表現ともとらえられます。 熱田神宮は、かつて伊勢湾に突出した岬に位置していました。

 縄文語と漢字は一意で結びつけられている訳ではありません。周辺の地勢などと整合性をとりながら解釈する必要があります。

 「熱田神宮」と「草薙剣」は縄文語の発音つながりで結びつけられ、物語が創作された可能性があります。


◆◆◆「伊勢国」命名由来 ◆◆◆

<伊勢国風土記逸文>(『日本書紀私見聞』)
「伊勢国の風土記にいう。伊勢と云うのは伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子の出雲建子(いずもたけこ)命、又の名は伊勢都彦(いせつひこ)命、又の名は天櫛玉命という。
 この神は、昔、石で城を築き、ここに鎮座していた。そこに安倍志彦の神がやってきたが、戦って勝てずに去った。よってこの名とした」

◎縄文語:
・「伊勢」=「イソ」=「磯」


 「イソ」は言うまでもなく、伊勢の岩礁です。風土記の「石で城を築き」というのも何かしらのつながりがあるかもしれません。


■潜島
◆◆◆「伊賀国」命名由来 ◆◆◆

<伊賀国風土記逸文>(『万葉緯』)
「伊賀国の風土記。伊賀国は、昔、伊勢国に含まれていた。孝霊天皇の六十三年に分割して伊賀国とした。伊賀津媛の領有する郡だったので郡の名とし、また国の名とした。
 西は高師川、東は家富の唐岡、北は篠獄、南は中山が境界だった。土地は中くらいに肥えていて、民は山や川によって生活することができた。樹木は中くらいの材。有名な石、珍しい禽獣、鳥がとれる」

◎縄文語:
・「伊賀」=「エンコ」=「岬」


 比定地は伊賀市です。
 縄文語解釈も考えるまでもありません。岬のある土地という意味です。


■伊賀市

◆◆◆「飛騨国」命名由来 ◆◆◆

<飛騨国風土記逸文>(『倭漢三才図会』)
「風土記にいう。この国は、もと美濃国に含まれていた。昔、近江の大津に王宮を造営した。時に、この郡より良材を多く出して、馬の駄にして(荷を乗せて)やってきた。その速いことはまるで飛んでいるようだった。よって改めて飛駄という」

◎縄文語:「飛騨」
=「ピタ
」=「小石河原(or砂原)」
or「ピ・チャ」=「石の・岸」


 縄文語解釈は、飛騨市を貫流する宮川の岸とすれば地勢と一致します。現在は護岸されているので、当時の様子はあまりうかがえませんが、雰囲気は感じ取ることはできます。

 常陸国の「ピタ・チャ=小石河原の・川口」に似た命名です。


■宮川の河原
◆◆◆「摂津国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「摂津」=「セ・チャ」=「広い・岸」

 「つのくに」の読みであっても、「セ=広い」が消えただけです。大阪も同じ意味です。

◎縄文語:「大阪」=「オオ・サ・カ」=「大きな・浜の・ほとり」


□□□「武庫/兵庫」命名由来 □□□

<摂津国風土記逸文>(『本朝神社考』)
「風土記。十四代仲哀天皇が三韓を攻めようとした。<中略>
(~三韓征伐~)
 神功皇后は筑紫に帰り、皇子を生んだ。これが誉田天皇(応神天皇)である。
 神功皇后は摂津国の海岸、北岸の広田郷に到着した。今、広田明神と名づけているのは神功皇后である。ゆえに、この海辺を御前(みさき)の浜といい、御前の沖という。また、兵器を埋めたところは武庫という。今は兵庫という。誉田天皇は今の八幡大神のことである」

◎縄文語:
・「広田」=「ピラ・チャ」=「土崖の・岸」
or「パラ・チャ」=「広い・岸」=西宮にあった入り江の岸
・「御前」=「メ・サ・ケ」=「泉の・浜の・ところ」=西宮にあった入り江の岸
・「兵庫」=「ピ・オコッ」=「石の・谷」=六甲山

 広田明神は現在の広田神社です。古代、西宮市には深く海が入り込んでいて、広田神社のそばまで入り江だったようです。
 縄文語解釈の「広田」も「御前」もその入り江の岸を指したと捉えられます。


■広田神社


 「兵庫=ピ・オコッ=石の谷=六甲山」は、極めて確度の高い縄文語解釈です。繰り返しになりますが、六甲山は、

◎縄文語:
・「六甲山」=「ルッケイ(山)」=「崩れているところ(の山)」=断層の六甲山

・「向津峰(六甲山別名)」=「ムイェ・カィ・テュ」=「山頂が・波のように折れ砕けている・峰」

 で、「六甲山」と「向津峰」はただの言い換え表現です。
 「武庫」は「向津」由来とする方が自然です。「向津」は次の言い換えも可能です。

◎縄文語:「向」=「ムィ・カィイ」=「山頂が・波のように折れ砕けているところ」

 決して「武庫=兵器を埋めたところ=兵庫」ではありません。これは古代人によるただの「武」と「兵」の連想ゲームです。


■馬の背(六甲山須磨アルプス)
◆◆◆「豊国」命名由来 ◆◆◆

<豊後国風土記
「景行天皇の時、豊国の直の祖である菟名手に豊国を治めさせた。菟名手が豊前国仲津郡の中臣村に到着した時、白い鳥が現れ、餅に姿を変え、また里芋数千株に変わり、その花と葉が冬も栄えた。菟名手が天皇の徳の高さ故だと喜んで朝廷に報告すると、天皇も喜び『それは地上が豊かにみのる象徴である。おまえの国は豊国というがよい』と言った。それで豊国の直の姓を賜った。こういうわけで豊国というのである。後に、豊前、豊後と国を二つに分けた」

◎縄文語:「ト・ヤ」=「海(or湖沼)・岸」

 現在でも「豊」がつくのは「豊穣な土地」の意だとする説がいたるところで堂々とまかり通っていますが、縄文語解釈では、ただの「海岸」の意味です。これも日本神話同様、漢字表記からの創作由来です。


■豊後高田市

◆◆◆「筑紫国」命名由来 ◆◆◆

<筑後国風土記逸文>(『釈日本紀』)
「公望が案ずるに、築後国風土記にいう。築後国は、元は筑前国と合わせて一つの国であった。昔、この二つの国の間の山に峻険な狭い坂があった。往来の人は鞍韉(したくら=鞍の下に敷く布)を摩り尽くしてしまった。土地の人は この坂を鞍韉尽くしの坂といった。
 三つ目にいう。昔、この堺の上に荒ぶる神が居て、往来の人の半分は生きのび、半分は死んだ。その数は極めて多かった。よって、人の命尽くしの神といった。時に、筑紫君と肥君らは占って、筑紫君らの祖である甕依姫(みかよりひめ)を祝(ほふり)として祭らせた。それ以降、路行く人は神に害されなくなった。これにより、筑紫神という。
 四つ目にいう。その死んだ者を葬るため、この山の木を伐って棺を造作した。よって、この山の木を取り尽くそうとした。よって筑紫国という。後に二つの国に分かれて、前と後(筑前、筑後)となる」

◎縄文語:「チクシ」=「海岸の難所」

 比定地は福岡県(東部除く)です。玄界灘に面した荒々しい地勢を指しています。


■今津海岸
◆◆◆「肥前国」命名由来 ◆◆◆

<肥前国風土記>
「肥前国は、もとは肥後の国と合せて一つの国であった。昔、崇神天皇の世、肥後国益城郡の朝来名(あさくな)の峯に打猴(うちさる)と頸猴(くびさる)という二人の土蜘蛛がおり、百八十人余りの手下を率いて皇命に従わず、降伏しなかった。
 天皇は肥君らの祖、健緒組(たけをくみ)を遣わして征伐させた。健緒組はそれを承って悉く滅ぼした。それから国を巡って観察した。八代郡の白髪山で日が暮れ、宿をとった。その夜、虚空に火が現れて自ら燃え、だんだんと下り、この山について燃えた。健緒組は驚き、不思議に思った。
 健緒組は朝廷に参上した際に『勅命を受けて、遠く西の戎を攻めたところ、刀の刃を濡らさずして、賊ども自ずと滅びました。天皇の霊威でなければ、こんなことができるでしょうか。』と申し上げた。
 天皇は『今聞いたことは、昔より聞いたことがない。火が下った国であれば、火の国というべきだろう』と仰った。
健緒組は火君健緒紕(ひのきみたけをくみ)の姓名を賜り、この国を治めさせた。よって火の国という。後、肥前と肥後に分けた。
 また、景行天皇が球磨贈於(くまそ)を誅して筑紫国を巡狩した時、葦北の火流れの浦より船出して、火の国に行幸した。海を渡るほどに、日が暮れ、暗くて船をつけるところが分からなくなった。忽然と光り輝く火が現れ、遥か行く先に見えた。
 天皇は『ただ火のところを目指せ』と仰った。ついに岸に辿り着くことができた。
 天皇は勅して曰く、『火が燃えたところは何という国だ?この火は何のための火か?』と。土地の人は『これは、火の国八代郡の火の邑です。ただ、この火の主は知りません』と答えた。
 天皇は群臣に詔して曰く、『今、この燃える火は人のものではない。火の国と名づけた由縁を知った』と仰った」

◎縄文語:肥国=「ピ」=「石ころ」

 風土記の内容は肥後の国の出来事です。よくもまあ、こんなデタラメを長々と作ったものです。それが千年以上たった現代でも肥国の命名由来として言い伝えられているのですから、記紀や風土記の歴史に対する罪は、非常に大きいと言わざるを得ません。

 「ピ=石ころ」は、どう考えても阿蘇山のカルデラ周辺に散らばる石や岩のことです。


■阿蘇山 ■押戸石の丘
■不動岩
◆◆◆「日向国」命名由来 ◆◆◆

<日向国風土記逸文>(『釈日本紀』)
「日向国風土記に言う。景行天皇の御世、天皇は児湯(こゆ)の郡に行幸し、丹裳(にもの)の小野を遊覧になられ、左右の侍従におっしゃった。『この国の地形は、まっすぐに扶桑(ひいづるかた)に向いている。なるほど日向(ひむか)と名付けるべきだ』と仰った」

◎縄文語:「プッ・カ」=「川口の・ほとり」⇒google map

 比定地は宮崎県と鹿児島県東部です。



 天孫降臨に絡んで多くの伝承に登場する日向ですが、おそらくはすべて史実ではありません。

 ニニギの父であるアメノオシホミミの名前は、下記のように一大率に駐在していたことを示していて、それを引き継いだニニギの降臨した土地は必然的に伊都国になります。

◎縄文語:「正哉吾勝勝(速日天忍穂)耳(まさかあかつかち[はやひあめのおしほ]みみ)」
= 「マサカ・アッ・クチャコッチセ/(速日天忍穂)/メ・メ
=「海岸の草原・がある・小屋/(速日天忍穂)/きらめく・泉(鏡)」=一大率の役人


◎縄文語:「一大率」=「エテュ(伊都国)・タ・アン・サ・チャ」=「岬(伊都国)・そこに・ある・浜の・館」

 そもそも第十二代景行天皇の時代は、まだ邪馬台国台与の時代です。景行天皇から第十六代仁徳天皇には武内宿禰が仕え、三百歳以上の長寿となっていますし、日本武尊の東西の遠征にも漢字表記にこじつけた疑わしい物語が多数含まれていて、とても真に受けられません。これらの物語は台与の事績の隠蔽を目的として創作されています(※「日本書紀のエラーコラム[増補版]」第三十回コラム参照)。

 また、天孫降臨から第十代崇神天皇の場合も、崇神天皇以降の系譜を正当化するために創作されたもので、その間に、邪馬台国(長髄彦=第八代孝元天皇、三炊屋媛=卑弥呼=倭迹迹日百襲姫)が含まれています(※「日本書紀のエラーコラム」第二十四回コラム参照)。
 つまり、少なくとも天孫降臨から第十六代応神天皇までの間は、邪馬台国の隠蔽や、崇神天皇以降の系譜の正当化を主目的として書かれているため、まったく信用ができないということです。

 さらに、前述のように、日向国には「弥五郎塚古墳」(墳丘長95m)という巨大前方後円墳があります。築造年代は不明ですが、陪冢と見られる近隣古墳からは6世紀後半の須恵器が出土しています。これを縄文語解釈すると、

◎縄文語:「弥五郎塚」=「ヤウンク・テュ」=「本国人の・小山」

 となります。この土地の人々の縄文語による命名であることに疑う余地はありません。

 これらのことから、上代日本語で漢字表記にこじつけた「日の出の方向にまっすぐ向いている」という由来がいかにデタラメかが分かります。

▼目次
第一部 「縄文語と上代日本語の隠された境界線」
【百済系敏達天皇で王朝交代!蘇我氏本家を滅ぼし、大化の改新は言語まで変えた!】
第二部 「記紀、風土記のウソを徹底的に暴く」
【No.1】香久山は「弓の形の山」だ!風土記は後世の人々を騙すためのデタラメが満載!
【No.2】愛宕山は「ぽつんと離れた山」の意!「カグツチ」という火の神などいない!
【No.3】住吉三神は「六甲山の自然崇拝」。海の神ではない!
【No.4】仲哀天皇偽陵の「五色塚古墳」は「岩崖の墓」の意だ!
【No.5】「処女塚」も「求女塚」も悲恋物語とは関係ない!「砂浜の入り江の古墳」の意だ!
【No.6】「因幡の白兎」も大ウソこじつけ物語!「将軍塚」に将軍は眠らない!
【No.7】「稲荷神」「狐」もデタラメ!お揚げをお供えしても無駄!
【No.8】「八雲立つ出雲」は「先住民の入り江」!宮崎の巨大古墳「弥五郎塚」は「先住民の墓」!
【No.9】「八幡大神」などいない!八幡と富士見は同語源の「川端」!「富士山が見える」のは偶然だ!
【No.10】「羽衣」は単なる「岬の頭」!「羽衣伝説」は縄文語に渡来系物語が便乗しただけだ!
【No.11】「天日槍」は新羅から来ていない!城崎温泉から来ただけだ!
【No.12】本当に「高麗」に高麗人が移り住んだのか?全国の「高麗」の地勢は「湾曲した川」だ!
【No.13】「甲斐の黒駒」は本当に馬か?全国の「黒駒」の地勢は「山裾の湾曲した川」だ!
【No.14】「百済」は「川や湾の入口」の意!風土記はしゃあしゃあとウソをつく!
【No.15】ウソつき神様大集合!天照、事代主、八幡、稲荷、住吉、金刀比羅のデタラメを暴く!
【No.16】地名の八王子も王子信仰もウソっぱち!牛頭天王も縄文語の地名に空想物語が便乗しただけ!
【No.17】旧国名はデタラメ由来だらけ!常陸、総、伊豆、駿河、尾張、伊勢、伊賀、摂津、豊、筑紫、肥、日向、風土記は悪意に満ちた大ウソつきだ!
【No.18】「椀貸」は「岸の外れ」の意!椀貸塚古墳は「椀」を貸してはくれない!
【No.19】「造山」「作山」は「自然地形を利用した古墳」の意だ!「作石」の石の宝殿は「あの世への入口」だ!
【No.20】「銚子塚古墳」は「中くぼみの山」で「前方後円墳」の意!酒器の「銚子」とは似ても似つかない!
【No.21】まんじゅう、松、馬、万、升、窓、古墳も地名もすべて「マーテュ=波打ち際」の意!風土記に騙されてはいけない!
【No.22】楯縫は楯を作っていない!「こちらの湿地」の意だ!
【No.23】「日置」は「山裾」の意、「日置部=砂鉄の生産地」ではない!
【No.24】「金鶏伝説」のデタラメを暴く!「金の鶏」など埋めていない!
【No.25】「薬師如来」も縄文語に便乗しただけ!全国の「薬師」は「岸の末端」だ!
【No.26】「荒川」は「荒れる川」ではない!「タマ川」と同義、「一方の川」の意だ!
【 あ と が き 】

◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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